史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「明治日本はアメリカから何を学んだのか」 小川原正道著 文春新書

2022年08月27日 | 書評

本書の副題は「米国留学生と『坂の上の雲』の時代」とされている。我が国は日清戦争に勝利し、列強への階段を昇り始めた。アメリカもまた、1898年の米西戦争での勝利によって世界政治の舞台に躍り出た。十九世紀の世界では脇役だった両国は、二十世紀初頭、欧州列強とともに世界史の中心的な役割を演じることになった。

筆者によれば「その両国が出会い、密接な関係を構築して世界史を動かしたのが、日露戦争」としている。この戦争では多くの米国留学生が活躍した。いわば、アメリカ留学の集大成ともいえる出来事であった。

もっとも有名で、もっとも日露戦争終結に貢献が大きかったのが、福岡藩出身の金子堅太郎であろう。金子は明治四年(1871)、岩倉使節団に同行し、旧藩主黒田長溥の命で、團琢磨とともに長溥の養嗣子・長知に随行してアメリカに留学した。当初は、アナポリス海軍兵学校への進学を望んでいたが、健康上の理由からハーバード・ロー・スクールへ進学した。

この時期、アメリカへの留学生は挙ってロー・スクールを目指した。本書では「ロー・スクール黄金時代」と称している。金子のほかにも井上良一(東京大学法学部教授)、目賀田種太郎(枢密院顧問官)、小村寿太郎、栗野進一郎(駐仏大使)ら、いずれも米国ロー・スクール出身者である。当時の日本にとって、最大の外交課題は、江戸時代に幕府が欧米列強と結んだ不平等条約の改正であった。そのためには、欧米列強に受け入れられるだけの法制度を整える必要があった。いわば法整備は、国家の最重要課題でもあった。彼らは国家を背負ってロー・スクールで学んだ。

金子と同宿していた小村寿太郎は、医者から読書を止めるようにいわれるほど、勉学に励んだ。彼らはいずれも優秀な成績で現地の大学を卒業しているが、その陰には猛烈な勉強があった。彼らの勉学を支えたのは、自分が国家をつくるという強烈な自負心と使命感であろう。

金子は法律の勉強にとどまらず、積極的に社交界に繰り出し、上流階級の人々と交流した。土日には、現地の詩人、政治家、弁護士、学者などと晩餐を楽しみながら談論した。帰国しても会える日本人同士で交流するのではなく、アメリカでしか会えないアメリカ人と交際し、親密な関係を築くことが両国の「外交」に繋がるとの信念からだったという。この時、ハーバード内外で培った人脈は日露戦争で大いに役立つことになった。

宣戦布告と同時にアメリカに渡った金子は、ハーバード人脈を頼って積極的な広報外交を展開した。

金子の同郷の親友、團琢磨もMIT人脈を通じて日本への支持を呼び掛けた。ロシアに宣戦布告文を届けた駐露公使は栗野進一郎であったし、ポーツマス講話会議で全権を務めた小村寿太郎もハーバードで法学を学んでいる。戦費獲得のため欧米に乗り込んで外債募集したのは、日銀副総裁高橋是清であった。戦争の転機となった日本海海戦で日本海軍を勝利に導いた名参謀秋山真之も、アメリカに留学して海軍戦略家のアルフレッド・T・マハンに師事している。アメリカに留学したエリートたちは総力を結集してロシアとの戦いに臨み、勝利をつかみとったのである。

ところが日露戦争で勝利を収めた日本は、まるで目標を失ったかのように迷走する。新たな時代を担う学生や留学生の思考も変化をきたした。若きエリートたちの視線は、個人的な栄達を示す「出世」へと向けられていった。本書で引用されているように船曳建夫氏は「日露戦争後の若きエリートたちには、国家の発展の闘いよりも、目の前に個人の「出世」というゲームがおかれていたことである。そこでは国家が語られながらも、内実は彼らの周りを取り巻く「世間」における人生ゲームであった」と喝破している。

日露戦争後、多くのアメリカ留学生が関係悪化を食い止めようと腐心する中、もっともアメリカに知己を有し、「外交官よりもアメリカに精通している」と自負していた金子堅太郎その人が、日本人移民排斥運動が激化するとともに嫌米に傾いて行った。「アメリカを知っているからこそ、裏切られたと感じた際の絶望感は、親友に裏切られたそれに似た、深い悲しみを帯びていたに違いない。」と筆者は指摘している。「エリート間の秘密外交でことが決する時代は終わりつつあった」(酒井一臣「金子堅太郎と近代日本―国際主義と国家主義」(二〇二〇))。

本書では、金子堅太郎以外にも、吉原重俊、小村寿太郎、團琢磨、朝河貫一といった魅力的なアメリカ留学生を多数紹介している。彼らがいかに国家を背負って勉学に励み、国家に尽くしたかを知るにも非常に有用な一冊である。

「あとがき」で、中津藩出身の英学者小幡甚三郎について触れられている。当時、慶應義塾を代表する英学者であった小幡は、旧藩主奥平昌遇の従者として渡米したが、彼の英語は現地でまったく通じず、そうしたストレスの積み重ねが彼の心身を蝕んでいき、やがてフィラデルフィアで死去した。表舞台での留学生の華々しい活躍の蔭で、国家や郷里の期待を背負い、慣れない土地で勉学に骨身をすり減らして、あるいは病気にかかり志半ばで倒れた人も少なくない。こうした犠牲者にも思いを馳せたい。

エピローグでは、日米戦争の最前線で指揮を執ることになった連合艦隊司令長官山本五十六を紹介している。彼もまたアメリカに留学した一人である。山本は、アメリカの石油に関心を持ち、油田を視察し、関連資料を読み耽った。アメリカに関する知見を深めた山本が、長期戦は無理と判断した結果、航空機による奇襲攻撃へ結びついたのだという。

彼が駐米日本大使館附武官時代、留学のために渡米してきた海軍兵学校後輩に「英語の本なら日本でも読める。アメリカにいるなら、アメリカでしかできないことをする、そのために旅行し、視察して回ること」とアドバイスした。

私も四半世紀ぶりの海外駐在を目前に控えている。山本の助言を胸に、できるだけ現地を自分の目で見て回りたいと思うのである。

 

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