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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

本庄 Ⅳ

2021年11月13日 | 埼玉県

(塙保己一旧宅)

 

塙保己一旧宅

 

 関越道を北上して、本庄市に入ると小さな看板が現れるが、そこに描かれているのが塙保己一である。本庄市出身の有名人と問われても、なかなか思い浮かばないが、その中にあって塙保己一は教科書にも載っている全国区の著名人である。では塙保己一が何をした人かと訊かれると、おそらく本庄市出身者であっても正確に答えられる人は少ないだろう。

 

史蹟 塙保己一舊宅

 

 塙保己一は延享三年(1746)に武蔵国児玉郡保木野村(現・本庄市児玉町保木野)に生まれた。七歳で失明し、十五歳のとき江戸に出て、当道座(とうどうさ)に入門して、雨富検校の弟子となった。賀茂真淵らにも弟子入りし、学問の道に進んだ。生来の記憶力の良さに加え、弛まぬ努力の結果、国学者としての地位を築いた。国学の研究を進め、寛政五年(1793)には幕府に申し出て和学講談所を創立し、安永八年(1779)から四十一年をかけて「群書類従」を編纂、刊行するなど多大な貢献を果たした。文政四年(1821)には総検校となったが、この年の九月、七十六歳で亡くなった。

 

贈正四位塙保己一先生誕生地遺跡

 

 本庄市児玉町保木野には、入母屋造り、茅葺二階建ての生家が残されている。塙保己一は、ここで生誕し、幼児を過ごしたもので、保己一の父卯兵衛の代に建てられたものと伝えられている。つまり築二百七十年を越えると推定されるが、今も末裔の方がここに居住しているのは驚きである。

 

(塙保己一公園)

 

和學院殿心眼智光大居士

(塙保己一の墓)

 

 塙保己一は、文政四年(1821)に逝去し、四谷の安楽寺に埋葬されたが、明治十九年(1886)に安楽寺の墳墓の土を持ち帰って先祖累代の墓地の西隅に碑を建てて慰霊したものが現在に伝わっている。

 

塙先生百年祭記念碑

 

 大正十年(1921)、塙保己一没後百年の記念式典が盛大に行われた。この際、全国から寄附を募って塙先生百年記念碑が建立された。題額は渋沢栄一、撰文は当時の東京帝国大学名誉教授芳賀矢一。

 

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美里 Ⅱ

2021年10月02日 | 埼玉県

(松久)

 

秋蚕の碑

 

 秋蚕(しゅうさん)とは、秋に行う養蚕のこと。その誕生は決して平坦ではなかった。その経緯を記述した碑である。建碑は明治二十九年(1896)。篆額は土方久元。碑文は尾高惇忠、建碑は美里出身の深沢豊次郎である。深沢豊次郎は、信州野麦街道梓川渓谷沿いの安曇の風穴蚕種を、現地松本の旅館に泊まり込み、関東甲信越から注文を受け販売したという。

 

松久駅

 

 秋蚕の碑の最寄り駅は八高線松久駅である。ペンションのような可愛い外観の駅である。本庄駅からバスで松久まで移動し、秋蚕の碑を見終わって松久駅まで引き返した時点で午後三時前であった。週末の八高線は本数が少ない。次の上りの電車が来るまで一時間半も駅の待合室で過ごすことになった。

 

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上里 Ⅱ

2021年10月02日 | 埼玉県

(金窪神社)

 

金窪神社

 

烏南岩田忠一郎君像

 

 岩田忠一郎は当時関東で初めての耕地整理事業を実施した。耕地整理記念として、昭和六年(1931)九月に鋳金工芸家である森村酉三により胸像が作られ、金窪神社の境内に設置された。台座には、渋沢栄一によって「烏南岩田忠一郎君像」と記されている。

 

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本庄 Ⅲ

2021年10月02日 | 埼玉県

(金鑽神社)

 

金鑽神社

 

 金鑽(かなさな)神社は、中山道本庄宿の西端近くに鎮座し、本庄宿の総鎮守として知られる。社記によれば、創建は欽明天皇の二年(541)という長い歴史を持つ。境内には、御神木となっているクスノキの巨木がある。幹回り五・一メートル、高さ約二十メートル、樹齢約三百年以上と推定されている。

 

忠實服業勤儉治産(茂木小平翁頌徳碑)

 

 金鑽神社の北側(仏母寺)との間に茂木小平翁頌徳碑が建てられている。

 茂木小平は、天保七年(1836)上仁手村茂木家に生まれた。青年期江戸において漢学を修め、のち代々名主役たる本家茂木仙蔵の養嗣子となった。二十三歳で名主となり、一村を代表してその自治にあたり、さらに本庄宿周辺十カ村の融和協力を推進した。まもなく力量、徳望を仰ぐ地域大衆に推されて、初代県議会議員、仁手村長や児玉郡会議長などを歴任した。この間、利根川の治水や殖産興業、とりわけ養蚕業の発達に尽くし、当地方の活路を開いて民生の安定向上を図った。晩年には農閑期近辺の弟子を集めて、漢学習字を教え、「お師匠様」を敬称され親しまれた。明治二十五年(1892)には藍綬褒章を賜った。大正十三年(1924)、八十九歳にて死去。

 この碑は、翁の死後門弟たちによって建立されたもので、生前交流のあった渋沢栄一の撰文および書。

 

(塙保己一旧宅)

 

塙保己一旧宅

 

 関越道を北上して、本庄市に入ると小さな看板が現れるが、そこに描かれているのが塙保己一である。本庄市出身の有名人と問われても、なかなか思い浮かばないが、その中にあって塙保己一は教科書にも載っている全国区の著名人である。では塙保己一が何をした人かと訊かれると、おそらく本庄市出身者であっても正確に答えられる人は少ないだろう。

 

史蹟 塙保己一舊宅

 

 塙保己一は延享三年(1746)に武蔵国児玉郡保木野村(現・本庄市児玉町保木野)に生まれた。七歳で失明し、十五歳のとき江戸に出て、当道座(とうどうさ)に入門して、雨富検校の弟子となった。賀茂真淵らにも弟子入りし、学問の道に進んだ。生来の記憶力の良さに加え、弛まぬ努力の結果、国学者としての地位を築いた。国学の研究を進め、寛政五年(1793)には幕府に申し出て和学講談所を創立し、安永八年(1779)から四十一年をかけて「群書類従」を編纂、刊行するなど多大な貢献を果たした。文政四年(1821)には総検校となったが、この年の九月、七十六歳で亡くなった。

 

贈正四位塙保己一先生誕生地遺跡

 

 本庄市児玉町保木野には、入母屋造り、茅葺二階建ての生家が残されている。塙保己一は、ここで生誕し、幼児を過ごしたもので、保己一の父卯兵衛の代に建てられたものと伝えられている。つまり築二百七十年を越えると推定されるが、今も末裔の方がここに居住しているのは驚きである。

 

(塙保己一公園)

 

和學院殿心眼智光大居士

(塙保己一の墓)

 

 塙保己一は、文政四年(1821)に逝去し、四谷の安楽寺に埋葬されたが、明治十九年(1886)に安楽寺の墳墓の土を持ち帰って先祖累代の墓地の西隅に碑を建てて慰霊したものが現在に伝わっている。

 

塙先生百年祭記念碑

 

 大正十年(1921)、塙保己一没後百年の記念式典が盛大に行われた。この際、全国から寄附を募って塙先生百年記念碑が建立された。題額は渋沢栄一、撰文は当時の東京帝国大学名誉教授芳賀矢一。

 

 

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蕨 Ⅱ

2021年10月02日 | 埼玉県

(河鍋暁斎記念美術館)

 

㈶河鍋暁斎記念美術館

 

 京浜東北線西川口駅から徒歩十五分。閑静な住宅街の中に河鍋暁斎記念美術館がある。住所は蕨市南町であるが、ほんの少し行くと戸田市という市境に位置している。

 河鍋暁斎は古河(現・茨城県古河市)の出身であるが、数え年二歳で家族ともども江戸へ出て、明治二十二年(1889)に亡くなるまで、江戸・東京で活躍した。この美術館は、暁斎の曽孫に当たる方が自宅を改装して昭和五十二年(1977)に設立したもので、約三千点に及ぶ作品を収蔵している。

 予めホームページで開館時間や休館日を調べておいたのだが、行ってみると「展示替え期間のため休館」であった。改めてホームページを確認したところ、一番上にはっきりと休館が告知されていた。不覚であった。出直すほかはない。

 

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加須 Ⅳ

2021年08月21日 | 埼玉県

(総願寺不動尊)

 

総願寺不動堂

 

 宗願寺不動尊は、関東三大不動尊の一つに数えられる。三大不動尊とは、成田不動尊、高幡不動尊までは間違いないが、三つ目にどこを数えるか、定説はないようである。不動堂の建物は天保年間に建てられた木造建築である。

 

論語碑

 

 不動堂の裏手に渋沢栄一が大正七年(1918)十一月二日に加須に来遊し、加須小学校と埼玉中学校(現・不動岡高校)にて講演したことを記念して、大正九年(1920)秋に建立された論語碑がある。高さは四・三メートル、幅一・九メートルという堂々たるものである。

 碑の表面には、渋沢の書により、論語「衛霊公第十五」の一文が刻まれている。言葉が誠実で行いに真心があれば、世界中どこへ行っても物事はうまく進む。しかし、言葉がいい加減で、真心がなければ生まれ故郷でさえうまくいかない、という意である。

 

言忠信行篤敬雖蠻貊之

邦行矣言不忠信行不篤

敬雖州里行乎哉

 

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深谷 Ⅵ

2021年08月07日 | 埼玉県

(尾高家の墓)

 下手計の交差点を百メートルほど東に進んで左折(北上)すると突き当りに尾高家の墓がある。尾高惇忠のほか、尾高長七郎や渋沢平九郎の招魂碑などがある。

 

東寧尾高(長七郎)弘忠之墓

 

 渋沢長七郎は天保七年(1836)、尾高勝五郎の二男に生まれた。藍香(惇忠)は兄。若くして文武を修業し、のち江戸に出て文を海保章之助(漁村)、剣を伊庭軍兵衛に学んだ。間もなく尊攘活動に加わり、文久二年(1862)、坂下門外の変後は、幕吏の探索を避けて京都に至り時勢を観察した。翌年、郷里の同志が横浜異人館の焼討を企画し、その手始めとして高崎城襲撃を企てたが、たまたま帰郷した長七郎は天下の形勢を説いてこれを阻止した。元治元年(1864)、江戸から帰郷の途次、誤って通行人を殺傷。捕らえられて伝馬町の獄に繋がれ、明治元年(1868)赦されて帰郷したが間もなく病没した。年三十三。

 墓は渋沢栄一により建てられたもの。雅号である東寧、諱弘忠が刻まれている。

 

渋沢平九郎昌忠君招魂碑

 

 渋沢平九郎は藍香、長七郎の末弟。渋沢栄一の見立て養子となったが、鳥羽伏見で幕軍が敗れると、従兄渋沢喜作(成一郎)は、何とかして汚名を雪ごうとして彰義隊が結成され、藍香とともにこれに参加した。やがて組織の内紛から喜作を頭取とする振武軍が結成され、尾高兄弟もこれに従った。振武軍は飯能で討幕軍と戦い、平九郎は自刃した。二十一歳という若さであった。

 平九郎の写真が今に残っているが、眉目秀麗な美男子である。手計村の尾高家では雑貨も扱っていたが、平九郎の店番の日は、近在の村娘たちが争って糸や油を買いに来たといわれる。

 

(川田歯科医院)

 深谷市中瀬の川田歯科医院では、桃井可堂史料館を併設している。残念ながら私が訪ねたとき閉館であった。事前に電話をして予約しておく必要があるのかもしれない。

 

川田歯科医院 桃井可堂史料館

 

 桃井可堂は、この場所で塾を開き、長州藩士や水戸藩士など多くの志士が門を叩いたといわれる。藤田東湖、勝麟太郎とも交友があり、渋沢栄一や尾高惇忠たちとも情報交換をした。可堂六十一歳のとき、倒幕挙兵のため越後や上州・長州の志士たちと沼田城襲撃を企てたが、事前に計画が漏れ、川越藩に自首して獄中で絶食の末、亡くなった。

 

幕末歩兵隊川田深太郎之生家

贈正五位勤王之士可堂桃井先生旧塾

 

 歯科医院の前には、先祖川田深太郎の生家であること、桃井可堂の塾跡であることを示す石碑がある。

 石碑によれば、川田深太郎は元治元年(1864)九月二日、霞浦湖辺鉾田宿戦争之殊勲者という。天狗党に加わり、鉾田にて奮戦したということであろう。

 

(不動堂)

 永田町の不動堂は、荒川を見下ろす土手の上に立っている。元治元年(1864)の天狗党の乱では、一行がここで宿陣したという。

 

不動堂

 

 江戸時代、対岸の川本町畠山の間に瀧の渡しと呼ばれる渡し場があった。確かに不動堂の下に不動の滝と呼ばれる滝がある。行ってみると滝というより湧水みたいなものであった。当時は、両岸ともに切り立った岸で、しかも急流であったという。

 

荒川

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神川 Ⅱ

2021年08月07日 | 埼玉県

(貫井家)

 

貫井家

 

 神川町下阿久原の貫井家の家屋は、血洗島の渋沢家東ノ家(本家)を移築したものである。

 平成十八年(2006)、神川町は、神泉村を合併して現在の町域になった。神泉村は昭和二十九年(1954)の開村以来、二代にわたって貫井家が村長を務めた。貫井家は渋沢家と遠縁に当り、その縁で先代の当主が渋沢東ノ家を買い取ったという。名家貫井家に相応しい豪壮な屋敷である。東ノ家は昭和三十一年(1956)に取り壊され、本屋は貫井家、正門は血洗島の福島家、離れは深谷市田所の関根家にそれぞれ移築された。

 

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長瀞

2021年08月07日 | 埼玉県

(長瀞駅)

 

長瀞は天下の勝地

 

 秩父鉄道長瀞駅前に建つ高さ五メートルを超える石碑には渋沢栄一の書で「長瀞は天下の勝地」と記されている。

 欧州を視察して鉄道に興味をもった渋沢栄一は、秩父鉄道の前身であった上武鉄道の経営も支援した。

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深谷 Ⅴ

2021年07月10日 | 埼玉県

(藍香尾高惇忠生家)

 

旧尾高家長屋跡

 

 尾高惇忠生家の前にかつて尾高家の長屋があった。長屋は昭和四十年(1965)頃、少し離れた場所に移築された後、平成十五年(2003)前後、取り壊された。現在、跡地は石の基壇がある以外、何も残されていない。

 尾高家は米穀や塩、菜種油などの日用品や藍玉の加工販売を主とし、農業も営んでいた。長屋では、藍玉製造や菜種油の搾取などの作業場として使用されていた。長屋が建設されたのは、主屋と同じく江戸後期といわれている。一説では、この長屋を惇忠たちが剣術の道場として使用していたという。

 

(稲荷神社)

 

稲荷神社

 

 中の家に近い、北阿賀野の稲荷神社には渋沢栄一が撰文した桃井可堂顕彰碑が建てられている。

 

可堂桃井先生碑

 

 桃井可堂は、現・深谷市北阿賀野に生まれた。名は儀八。可堂は号である。十二歳のとき渋沢仁山に師事し、二十二歳で江戸遊学を志し、江戸の東条一堂に学び、門下の三傑と称された。そこで勝海舟、藤田東湖らと交流があり、水戸、長州藩の影響を強く受けた。その後、備中庭瀬藩板倉勝資に仕えたが、文久三年(1863)以降、長州に接近。藩を辞して帰郷し、中瀬村にて学問を教えながら、尊王攘夷の挙兵を企てた。上武、越後の同志を集め、計画の実行を試みたが、仲間の裏切りもあって失敗に終わった。可堂は川越藩に自首し、絶食して命を断った。

 

(深谷大河ドラマ館)

 前回、渋沢栄一の生家中の家や尾高惇忠生家を訪ねたのは、もう十四年も前のことになる。今回久しぶりに深谷市の血洗島、下手計周辺を歩いてみようと思いたったのは、今年(令和三年(2021))の大河ドラマ「青天を衝け」を受けて、盛り上がる深谷の様子を自分の目で見ておきたいと思ったからである。

 二月には深谷市公民館の一階に大河ドラマ館がオープンした。せっかくなので大河ドラマ館に立ち寄ることにした。入場料は八百円。

 

渋沢栄一 青天を衝け

深谷大河ドラマ館

 

 展示されているのは、ドラマで使用された渋沢栄一生家のセットや衣装、小道具など。登場した俳優のサイン色紙も並べられている。

 何か新しい情報を仕入れられないかと目を皿にして見て回ったが、そういう期待には応えてくれなかった。基本的には展示品はドラマの進行に合わせて更新されていくそうなので、あまりこれから放映される内容には触れられないのであろう。

 

園日渉以成趣

 

 敷地内に渋沢栄一書「園日渉以成趣」碑がある。「園日渉以成趣」という言葉は、中国の詩人陶淵明の「帰去来辞」の「園は日々に渉りて以て趣を成す」から選ばれている。我が庭園は毎日散歩して見ているが、いつもそれぞれの趣があて、まことに面白い眺めとなっている」という意味である。

 この碑は、新築された深谷駅頭に明治四十語年(1912)に建てられ、その後、深谷市役所前の小園、深谷商工会議所の東園への二度の移設を経て、現在地に移された。

 

コメント (3)
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