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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

坂戸 Ⅱ

2021年06月12日 | 埼玉県

(横沼)

 坂戸市の横沼は、大川平三郎の生誕地である。平三郎の生誕地である大川道場跡は、平成十九年(2007)、大川平三郎翁記念公園として整備されている。

 

大川平三郎翁生誕の地

 

(大川平三郎翁記念公園)

 大川平三郎翁記念公園(坂戸市横沼333‐1)は、神道無念流の剣術家大川平兵衛英勝の道場のあった場所である。平兵衛は享和元年(1801)熊谷市上之(かみの)の渡辺家に生まれ、幼い頃に小鮒家の養子となって、栄治郎と称した。その頃、県北地方では、神道無念流が栄えており、熊谷付近の箱田村に道場を構えていた秋山要助の弟子となり、厳しい稽古に耐えて、文政五年(1822)、二十歳のときに免許皆伝を得ている。二十二歳の時、横沼村の大川与佐衛門の婿養子となって、名を平兵衛と改め、邸内に道場を設けて多くの門弟を育てた。文久二年(1862)には川越藩主松平大和守直克に登用され、剣術師範となった。後に藩主の前橋移封に伴い、平兵衛親子も移り住むことになったが、藩の飛び地であった松山(現・東松山市)の陣屋で剣術を指導しているところで幕末を迎えた。

 

大川平三郎翁記念公園

 

 公園内には、大川平三郎の頌徳碑が移設されている。この頌徳碑は、昭和九年(1934)九月、旧樺太の恵須取町民によって旧恵須取神社の境内に建立されたものである。昭和六十二年(1987)、旧恵須取町を訪問した墓参団の方からこの石碑の存在が知らされ、関係者の尽力により平成四年(1992)一月、ウゴレゴルスク市から坂戸市に贈られ、当時は坂戸市役所の庭園内に移設されていた。平成十九年(2007)に道場跡が公園として整備されたことを機に再移設されたものである。

 

大川平三郎翁頌徳碑

 

(大川家墓所)

 大川平三郎翁記念公園に隣接した場所に大川家墓所がある。大川平兵衛夫妻のほか、平兵衛の長男栄助夫妻、平兵衛の長女花井の墓などがある。

 

大川家墓所

(中央は平兵衛の長男栄助の墓)

 

大川先生墓志

 

 大川平兵衛は明治四年(1871)九月に七十歳で没した。平兵衛を慕う門人五百六十九人により墓地に顕彰碑が建立された。篆額は前福井藩主松平春嶽、撰文は尾高惇忠。

 

 なお、大川平兵衛の二男修三は、渋沢栄一の従兄弟である尾高惇忠(藍香)の妹みちを娶っている。平三郎は渋沢栄一の四女照子を妻に迎えており、渋沢家・尾高家とは固い血縁関係で結ばれていた。

 

(勝光寺)

 勝光寺は、大川家代々の菩提寺である(坂戸市横沼361)。山門前に大川平三郎の胸像と頌徳碑が置かれている。

 

勝光寺

 

大川平三郎翁像

 

 大川平三郎は幼い頃から剣術修行に励み、学問にも熱心に取り組んだ。明治五年(1872)、十三歳の時、叔父にあたる渋沢栄一を頼って上京し、明治八年(1875)には十六歳で抄紙会社(現・王子製紙)に入社した。毎日、早朝より出社して機械操作を研究し、十八歳で日本人初の製紙技師となった。大学南校に学び、畑地で米国に留学し、さらにヨーロッパにて製紙技術を高めた。以後、独自の創意工夫を重ね、製紙技術の向上に貢献するとともに、多くの会社経営に携わり、「日本の製紙王」とも称された。貴族院議員に勅選。昭和十一年(1936)、七十七歳にて没した。

 

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久喜 鷲宮

2021年02月06日 | 埼玉県

(鷲宮神社)

 鷲宮神社は、関東最古の大社といわれ、鎌倉時代以降、各時代の権力者から崇敬を集めてきた。江戸時代には、徳川家康から四百石という、寺社としては破格の社領を寄進されている。この神社に奉納される鷲宮催馬神楽は江戸神楽の源流ともいわれる。今も神社の祭礼に合わせて披露されている。

 

鷲宮神社

 

明治天皇宸憩之處

 

明治天皇御用水之井

 

 明治二十九年(1896)、鷲宮では近衛師団の演習が行われた。明治天皇は演習を天覧し、講評を聞いた後に鷲宮神社で小休をとっている。鷲宮神社境内には、その時のことを記念した石碑が二基残されている。御用水之井碑は徳富蘇峰の書。宸憩之處は金子堅太郎の書である。

 

鷲宮神社参拝記念植樹

 

武蔵國 鷲宮神社

 

 明治天皇御用水之井碑を記した徳富蘇峰は、昭和八年(1933)に鷲宮神社を訪れている。境内には、参拝記念植樹碑があるほか、門脇の鷲宮神社社票碑も蘇峰の書である。

 

(近衛師団演習跡地)

 

明治天皇叡覧演習之處

 

明治天皇演習講評之處

 

 鷲宮駅(東武伊勢崎線)から北に一・五キロメートルの場所、現在は田畑の周りに民家が点在しているような風景であるが、この地で明治二十九年(1896)、近衛師団の演習が行われた。明治天皇が演習を展覧した場所、講評した場所にそれぞれ石碑が建てられている。叡覧演習之處碑は、市境をまたいで加須市に建っているかもしれないが、講評之處碑から歩いて行ける場所にあるので、同じく久喜市鷲宮の史跡として紹介しておく。

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吹上 Ⅱ

2021年02月06日 | 埼玉県

(吹上本町)

 

明治天皇御駐輦址

 

 吹上駅に近い住宅街の中に明治天皇駐輦碑がある。明治十一年(1878)、明治天皇が北陸・東海方面へ行幸の際に立ち寄ったことを記念したもの。書は、徳富蘇峰(正敬)。

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熊谷 Ⅵ

2021年02月06日 | 埼玉県

(千形神社)

 現在、千形(ちがた)神社のある場所に、江戸時代忍藩の陣屋(出張所)が置かれていた。忍藩では町方事務を取り締まるために陣屋を設置していた。今でも中山道から千形神社に通じる道は陣屋町通りと呼ばれており、付近を陣屋町と呼ぶ人もいるという。

 

千形神社

 

陣屋跡

 

明治天皇熊谷行在所阯

 

 明治天皇熊谷行在所阯碑は、明治十一年(1878)九月、明治天皇の北陸東海行幸の際に行在所となったことを記念したものである。

 

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深谷 Ⅵ

2021年02月06日 | 埼玉県

(源勝院)

 

源勝院

 

 岡部の源勝院は、岡部を領地とした安部家の菩提寺で境内には阿部家の墓地がある。安倍家は、信州諏訪の出で、駿河安部川上流の安部谷に移り住んだ。初め今川義元に仕えたが、後に徳川家康に従い、甲斐の武田氏との戦いでは戦功があった。

 

明治天皇美久留馬乃安登碑

 

 源勝院の山門前に、明治天皇美久留馬乃安登と記された大きな石碑が建てられている。明治十一年(1878)、北陸東海を巡幸した際に、休みを取った場所である。書は、渋沢栄一。大正五年(1916)の建立。

 今年の大河ドラマを前に、深谷市は渋沢栄一で大いに盛り上がっており、町中至るところに渋沢栄一のポスターが掲示されている。隣接する熊谷市や本庄市ではさっぱりであり、深谷市だけが騒いでいるような様子である。坂本龍馬や西郷隆盛と比べれば華やかさはないが、実は大変面白い人生であり、しかも我が国の経済発展に大いなる貢献をした人物である。埼玉県としてももっとアピールしても良いのではないだろうか。

 

(きん藤)

 深谷宿の「きん藤(きんとう)」は、創業百八十年という老舗の旅館兼料亭である。明治十一年(1878)九月二日、明治天皇の北陸東海行幸の際には、小休所となった。

 裏手の空き地に明治天皇深谷御小休所阯碑が建っている。昭和十三年(1938)の建碑。貴族院議員西郷従徳(従道の二男)の筆。

 

きん藤

 

明治天皇深谷御小休所阯

 

 

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加須 Ⅲ

2021年01月16日 | 埼玉県

(旗井)

 

明治天皇行幸記念碑

 

 東海道線に続き、上野―高崎間が明治十七年(1884)六月に開通し、続いて東北本線の建設が計画された。この時、高崎線のどこで分岐させるかが課題となった。当時の鉄道局長官は、大宮案と熊谷案で費用・期間などを検討し、最終的には大宮分岐で起工すべき旨を日本鉄道会社に通達した。これを受けて明治十八年(1885)、大宮、蓮田、久喜、栗橋に停車場が開設され、同年内に宇都宮まで開通した。しかし、利根川を渡る鉄橋が未完成であり、列車は栗橋止まりで、乗客は伝馬船で利根川を渡り、中田停車場で乗り継いだ。鉄橋は遅れて明治十九年(1886)に完成した。約472メートルは当時、国内最長であった。

 明治天皇は、明治十九年(1886)七月九日の竣工式に出席し、徒歩で鉄橋を渡り、船からも御覧になった。八坂神社の神輿を中洲に船で運び、水泳大会では鉄橋から川に飛び込む余興も御覧になったという。

 現在、旗井地区に建つ明治天皇行幸記念碑は、この際の明治天皇の訪問を記念して、東村青年団が昭和六年(1931)に建立したものである。

 もとは利根川の土手沿いにあったものが、土手強化工事により、所在地が変わっている。栗橋駅から徒歩で15分。久喜市ではなく加須市である。

 

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幸手 Ⅲ

2021年01月16日 | 埼玉県

(明治天皇幸手行在所)

 

明治天皇幸手行在所

 

 東武幸手駅から徒歩五分程度、幸手駅入口交差点付近に明治天皇幸手行在所石碑がある。

 明治九年(1876)六月の奥羽巡幸、明治十四年(1881)七月と同年十月の山形、秋田、北海道巡幸の際、さらに明治二十九年(1896)十月、近衛師団の演習天覧の際に明治天皇は幸手を通過している。明治九年(1876)の巡幸の際は、元本陣の知久家、明治十四年(1881)以降は、右馬之助町の元名主であった中村家に宿泊している。

 この場所には、明治天皇行在所碑のほか、明治大帝行在所御跡と刻んだ記念碑、史跡名勝天然記念物保存法による指定説明を記念した説明板(ほとんど文字は読み取れない。屋根部分は復原)の三点が保存されている。

 

明治大帝行在所御跡

 

 

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越谷

2021年01月16日 | 埼玉県

(南越谷)

 

明治天皇田植御覧之處

 

 南越谷一丁目の一画に五つの石碑が並べられている。そのうち一番左手にあるのが、明治天皇田植御覧之處記念碑である。

 明治九年(1876)六月三日、明治天皇の東北巡幸の際、当地に御車を停め、田植えをご覧になった。田植えには、蒲生、登戸、瓦曽根、七左衛門、大間野の各村から二十歳前後の男女が二百名余り参加したといわれる。

 

忠勇碑

 

 同じ場所にある忠勇碑は、日清日露戦争における当地従軍者を慰霊するもので、明治三十九年(1906)の建碑。大山巌の筆。

 

(大沢小学校)

 

大沢小学校

 

明治天皇大澤御小休所

 

 大沢小学校の校庭の一画に明治天皇小休所碑が建てられている。明治九年(1876)六月三日の朝、明治天皇は御在所を出発して大沢町の越谷本陣福井権右衛門宅で小休をとった。この石碑は、福井家の門前にあったが、移築されて大沢小学校の校庭に置かれている。昭和十七年(1942)四月の建碑。

 

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草加

2021年01月16日 | 埼玉県

(ブリリア草加グランスイート)

 

明治天皇草加行在所

 

 草加駅近くのマンションの前に明治天皇草加行在所記念碑が建てられている。

 明治九年(1876)および明治十四年(1881)の東北・北海道巡幸の際、谷古宇(やこう)村の名主を務めた大川弥惣右衛門家は、二度にわたって行在所(宿所)となった。昭和九年(1934)、これを記念して明治天皇草加行在所記念碑が建立された。大川家は平成四年(1992)に解体撤去され、記念碑も歴史民族資料館に移された。現地にあるのは、複製である。

 

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久喜 栗橋

2020年04月18日 | 埼玉県

(栗橋関所跡)

 

栗橋関所址

 

 江戸幕府は、交通統制と治安維持のため、主要な街道が国境や大河川を越す要地に関所を設け、特に「入り鉄砲に出女」を取り締まった。栗橋関所は、日光道中が利根川を越す房川渡しに設置されたことから、対岸の中田と併せて「房川渡中田関所」と呼ばれた。関所の位置は、堤防の河川側で利根川の河畔にあり、寛永元年(1624)に番士四人が置かれた。以後、明治二年(1869)の関所廃止まで約二百五十年間続いた。この「栗橋関所址」碑は、大正十三年(1924)に旧番士三家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により、旧堤上に建碑された。書は徳川家達。

 度重なる堤防工事で、この碑も移動を繰り返してきた。現在の場所には、利根川堤防強化対策事業に伴い、平成二十九年(2017)八月に仮移転したものである。

 

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