(横沼)
坂戸市の横沼は、大川平三郎の生誕地である。平三郎の生誕地である大川道場跡は、平成十九年(2007)、大川平三郎翁記念公園として整備されている。
大川平三郎翁生誕の地
(大川平三郎翁記念公園)
大川平三郎翁記念公園(坂戸市横沼333‐1)は、神道無念流の剣術家大川平兵衛英勝の道場のあった場所である。平兵衛は享和元年(1801)熊谷市上之(かみの)の渡辺家に生まれ、幼い頃に小鮒家の養子となって、栄治郎と称した。その頃、県北地方では、神道無念流が栄えており、熊谷付近の箱田村に道場を構えていた秋山要助の弟子となり、厳しい稽古に耐えて、文政五年(1822)、二十歳のときに免許皆伝を得ている。二十二歳の時、横沼村の大川与佐衛門の婿養子となって、名を平兵衛と改め、邸内に道場を設けて多くの門弟を育てた。文久二年(1862)には川越藩主松平大和守直克に登用され、剣術師範となった。後に藩主の前橋移封に伴い、平兵衛親子も移り住むことになったが、藩の飛び地であった松山(現・東松山市)の陣屋で剣術を指導しているところで幕末を迎えた。
大川平三郎翁記念公園
公園内には、大川平三郎の頌徳碑が移設されている。この頌徳碑は、昭和九年(1934)九月、旧樺太の恵須取町民によって旧恵須取神社の境内に建立されたものである。昭和六十二年(1987)、旧恵須取町を訪問した墓参団の方からこの石碑の存在が知らされ、関係者の尽力により平成四年(1992)一月、ウゴレゴルスク市から坂戸市に贈られ、当時は坂戸市役所の庭園内に移設されていた。平成十九年(2007)に道場跡が公園として整備されたことを機に再移設されたものである。
大川平三郎翁頌徳碑
(大川家墓所)
大川平三郎翁記念公園に隣接した場所に大川家墓所がある。大川平兵衛夫妻のほか、平兵衛の長男栄助夫妻、平兵衛の長女花井の墓などがある。
大川家墓所
(中央は平兵衛の長男栄助の墓)
大川先生墓志
大川平兵衛は明治四年(1871)九月に七十歳で没した。平兵衛を慕う門人五百六十九人により墓地に顕彰碑が建立された。篆額は前福井藩主松平春嶽、撰文は尾高惇忠。
なお、大川平兵衛の二男修三は、渋沢栄一の従兄弟である尾高惇忠(藍香)の妹みちを娶っている。平三郎は渋沢栄一の四女照子を妻に迎えており、渋沢家・尾高家とは固い血縁関係で結ばれていた。
(勝光寺)
勝光寺は、大川家代々の菩提寺である(坂戸市横沼361)。山門前に大川平三郎の胸像と頌徳碑が置かれている。
勝光寺
大川平三郎翁像
大川平三郎は幼い頃から剣術修行に励み、学問にも熱心に取り組んだ。明治五年(1872)、十三歳の時、叔父にあたる渋沢栄一を頼って上京し、明治八年(1875)には十六歳で抄紙会社(現・王子製紙)に入社した。毎日、早朝より出社して機械操作を研究し、十八歳で日本人初の製紙技師となった。大学南校に学び、畑地で米国に留学し、さらにヨーロッパにて製紙技術を高めた。以後、独自の創意工夫を重ね、製紙技術の向上に貢献するとともに、多くの会社経営に携わり、「日本の製紙王」とも称された。貴族院議員に勅選。昭和十一年(1936)、七十七歳にて没した。