史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

深谷 Ⅵ

2021年08月07日 | 埼玉県

(尾高家の墓)

 下手計の交差点を百メートルほど東に進んで左折(北上)すると突き当りに尾高家の墓がある。尾高惇忠のほか、尾高長七郎や渋沢平九郎の招魂碑などがある。

 

東寧尾高(長七郎)弘忠之墓

 

 渋沢長七郎は天保七年(1836)、尾高勝五郎の二男に生まれた。藍香(惇忠)は兄。若くして文武を修業し、のち江戸に出て文を海保章之助(漁村)、剣を伊庭軍兵衛に学んだ。間もなく尊攘活動に加わり、文久二年(1862)、坂下門外の変後は、幕吏の探索を避けて京都に至り時勢を観察した。翌年、郷里の同志が横浜異人館の焼討を企画し、その手始めとして高崎城襲撃を企てたが、たまたま帰郷した長七郎は天下の形勢を説いてこれを阻止した。元治元年(1864)、江戸から帰郷の途次、誤って通行人を殺傷。捕らえられて伝馬町の獄に繋がれ、明治元年(1868)赦されて帰郷したが間もなく病没した。年三十三。

 墓は渋沢栄一により建てられたもの。雅号である東寧、諱弘忠が刻まれている。

 

渋沢平九郎昌忠君招魂碑

 

 渋沢平九郎は藍香、長七郎の末弟。渋沢栄一の見立て養子となったが、鳥羽伏見で幕軍が敗れると、従兄渋沢喜作(成一郎)は、何とかして汚名を雪ごうとして彰義隊が結成され、藍香とともにこれに参加した。やがて組織の内紛から喜作を頭取とする振武軍が結成され、尾高兄弟もこれに従った。振武軍は飯能で討幕軍と戦い、平九郎は自刃した。二十一歳という若さであった。

 平九郎の写真が今に残っているが、眉目秀麗な美男子である。手計村の尾高家では雑貨も扱っていたが、平九郎の店番の日は、近在の村娘たちが争って糸や油を買いに来たといわれる。

 

(川田歯科医院)

 深谷市中瀬の川田歯科医院では、桃井可堂史料館を併設している。残念ながら私が訪ねたとき閉館であった。事前に電話をして予約しておく必要があるのかもしれない。

 

川田歯科医院 桃井可堂史料館

 

 桃井可堂は、この場所で塾を開き、長州藩士や水戸藩士など多くの志士が門を叩いたといわれる。藤田東湖、勝麟太郎とも交友があり、渋沢栄一や尾高惇忠たちとも情報交換をした。可堂六十一歳のとき、倒幕挙兵のため越後や上州・長州の志士たちと沼田城襲撃を企てたが、事前に計画が漏れ、川越藩に自首して獄中で絶食の末、亡くなった。

 

幕末歩兵隊川田深太郎之生家

贈正五位勤王之士可堂桃井先生旧塾

 

 歯科医院の前には、先祖川田深太郎の生家であること、桃井可堂の塾跡であることを示す石碑がある。

 石碑によれば、川田深太郎は元治元年(1864)九月二日、霞浦湖辺鉾田宿戦争之殊勲者という。天狗党に加わり、鉾田にて奮戦したということであろう。

 

(不動堂)

 永田町の不動堂は、荒川を見下ろす土手の上に立っている。元治元年(1864)の天狗党の乱では、一行がここで宿陣したという。

 

不動堂

 

 江戸時代、対岸の川本町畠山の間に瀧の渡しと呼ばれる渡し場があった。確かに不動堂の下に不動の滝と呼ばれる滝がある。行ってみると滝というより湧水みたいなものであった。当時は、両岸ともに切り立った岸で、しかも急流であったという。

 

荒川

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