夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

初冬

2013-12-13 22:17:26 | 創作(etude)
・堀端の木々とりどりの葉を残し予期せぬ雪をかむりて重し

・この年も生きながらえて年輪の数増やすのみ流離(さすら)いの我は

・まだ先と思うそばから雪降りの空から地から雪のもみあい

・この冬も夜の定番鍋料理寒さ知らずの家族団らん

・人間は輝く星ぞ生くるままアールブリュットふさわしいままに

・わが部屋に立ち入りし妻(きみ)「あらいやだ」この日が我の加齢臭記念日

・若き獅子絶壁からも蹴落として這い上がるを待つ父になれるか

・舞う雪も積もれる雪も白ゆえにわが罪科の黒き足跡

・疑えば奈落の底は切もなし前向き進めリズム変えずに

雪景色

2013-12-13 06:50:10 | つれづれなるままに
12月13日(金)雪

 太宰宰の「津軽」の冒頭には津軽の雪の種類が掲載されている。この分類で現在の雪の状態は綿雪という感じかな?比較的温度が高めの時には、綿雪が舞います。雪は好きです。静かに降ってはいるのですが、雪の上に寝っ転がって空を見上げながら目をつぶると、それでも雪の積もる音が聞こえるのです。雪が重なる音です。カサカサというような・・・。
 雪が好きな理由は、寒さよりも暖かさです。雪が植物の上に、あるいは土の中に眠る動物や昆虫たちもゆっくりと包んで春まで眠らせてくれる役割があるということを雪国の人であればだれでも知っていることでしょう。そう、布団の役割です。
 野菜(人参、ほうれん草)果物(林檎)も、この雪に埋めて甘みを引き出す効果が知られています。

 心の傷もこの真っ白な雪で覆われたら、春には瘡蓋がかかって癒えていることでしょう。悲しみも寂しさも、辛さも憎しみも、この真っ白な雪が覆ってくれるようなそんな気がするこれからの津軽です。


 雪の種類

「積雪ノ種類ノ名称」

❅ こなゆき 湿気ノ少ナイ軽イ雪デ息ヲ吹キカケルト粒子ガ容易ニ飛散スル
☃ つぶゆき 粒状ノ雪(霰ヲ含ム)ノ積モツタモノ
❆ わたゆき 根雪初頭及ビ最盛期ノ表層ニ最モ普通ニ見ラレル綿状ノ積雪デ余リ硬クナイモノ
❆ みづゆき 水分ノ多イ雪ガ積ツタモノ又ハ日射暖気ノ為積雪ガ水分ヲ多ク含ム様ニナツ
タモノ
☃ かたゆき 積雪ガ種々ノ原因ノ下ニ硬クナツタモノデ根雪最盛期以後下層ニ普通ニ見ラ
レルモノ
❆ざらめゆき 雪粒子ガ再結晶ヲ繰返シ肉眼デ認メラレル程度ニナツタモノ
☃ こほりゆき みずゆき、ざらめゆきガ氷結シテ硬クナリ氷ニ近イ状態ニナツタモノ

                    
 東奥年鑑1941 年(昭和16年)より

 さて今日は13日の金曜日で、クリスチャンはキリストがゴルゴダの丘で処刑された忌み嫌われる日のようです。

 全くイメージだけなのでしょうが、クリスチャンでもない津軽人でも、この日は必ず人の余り行かない温泉場でひたすら休養に務めることにしている人がいると聞いたことがあります。こんな寒い日には本当に終日温泉に浸かっていたいなあと思いますね。

 大学の3年生の冬、アルバイト先の先輩と兄との3人で上高地の手前に川沿いの温泉があって、確か「坂巻温泉旅館」といったでしょうか・・正月3日間を過ごした記憶があります。露天風呂もあって、こたつに入ってゴロゴロしていても寒いので一日になんども温泉に使っていました。確か冬はこの温泉旅館まで1時間ほど歩いたように思います。
 バス停のそばにはお汁粉屋さんがあって、凍えた身体を温めてくれました。それだけが嬉しい思い出に残っています。

 

 

古の道を

2013-12-12 07:04:04 | 私と福祉とであいの旅
12月12日(木)

 昨日の午前中は、弘前大学農学部の学生さんの卒論取材のお付き合いでした。千葉県出身の彼は今年四年生で、卒論も大詰め。テーマは「お山参詣と農業」?だったかな???

 お山参詣の実行委員長は私の隣家の町会長さん。卒論の彼は弘前大学で登山囃子のクラブに加入しており、二年間で難しい笛をかなり上手に吹けるようになって、今年参加してくれました。驚異です!

 彼は千葉県銚子市出身で、卒業後は市役所勤務が内定しており、土地改良の仕事につくとか・・・。

 65年ぶりに復活を遂げた「お山参詣」は、何故実現したのか・・・。それがきょうの取材だったようです。タップリと朝10時から12時まで2時間の取材に付き合って、私も色々学びました。町会長さんは現在76歳で、白山姫神社氏子代表、当地区の社協会長、特別養護老人ホームの理事長など務める傍ら、自宅の生業はリンゴ農家で多忙なようです。
 小学生(昭和22年当時11歳)だった町会長さんの記憶の中にあるお山参詣のお話は、65年間忘れることなく、いつか自分もお山参詣を町会で実施しようと思い続けてきたようです。
 戦争中はもちろんお山参詣などできるわけもなく、林檎の木も伐採令が出されて、野菜の作付けを推奨されたとのこと。米もお国のために供出させられて、大変な時代だったようです。
 戦争も終わり、人々はようやく終えた暗黒の時代から開放された安堵感から、お山参詣を挙行したようです。そのお話の中で登場した、亡き義父も当時はまだ青年時代だったようです。18歳から20代の青年団の人たちが中心となって、お山参詣を実施したとのこと。
 当日は大雨で約3時間がかりのお山参詣は、牛車も動員して行われたとか・・・。

 現在の社会状況と違う点がこの辺にありそうです。現在の社会には、ないものがないという物余り状態です。敗戦後から復興期は、なんにもない時代で空腹の時代だったように思います。だからこそ、物のありがたみが分かり何度も何度も修理をしては使い回していたのです。テレビもない代わりに、青年団活動が活発で、楽団と称して若者が楽器を手に演奏して歩いたりで楽しんでいたそうです。宴会も、手拍子一つで楽しめた時代であり、囲炉裏では家長がお茶をいれるなど、客の接待をした時代です。
 
 町会長さんのお話では、来年も是非続けたいという思いを語っていました。しかし、今の60代は精神的に疲労感が強いのか、諦めにも似た厭戦ムードが強いのです。
 私もこの「お山参詣」という行事を通じて、町会住民が一つのことを継続することがこれからの町会を担う力だと思っています。さて、どうなることでしょう。

身辺整理

2013-12-11 06:54:32 | 私と福祉とであいの旅
12月11日(水)

 この所職場の私の定位置を変えようと思い、パソコンも引っ越しして机を整理した。それにしても不要なものをよくも溜めこんでいるものだとつくづく感心し、自分のことながら呆れてしまう。
 整理学という学問があれば、今直ぐ受講したほうが良さそうである。

 もう年の瀬。建物の汚れを取り払い、不要物を整理して、新年を迎える準備をしても良さそうな時期でもある。

 この時期、次年度の大改革が私の頭を痛めている。法人の事業所が6箇所と増え、事業もそれにともなって多岐にわたっている。職能集団から多機能集団に変化したので、事業部制について学んでいる。大手企業で「パナソニック」が最初に始めたと聞いているが、この事業部制の進化系が「マトリクス系」である。
 先日職場の同僚から借りていた「真実の瞬間」SAS(スカンジナビア航空)に38歳で就任して機構改革し成功した社長 ヤンカールソンの書いた一冊である。

 「真実の瞬間」とは、現場で従業員がお客様と接するわずかな時間のことを指す。顧客にとっての企業の印象・評価は、立派な本社ビルや高性能な航空機で決まるのではなく、顧客に接する最前線の従業員のサービスの質で決まる。

 ヤンカールソンはいくつかのヒントを、この一冊で私にくれた。それは最前線にいる従業員を大切にすることである。そのために今までの上意下達式の職員配置を、可能な限りフラットにして、従業員が自発的に動ける柔軟性を身につけてもらえる職場づくりでもある。

 マハトマ・ガンディ語録にもあるが、事業を行う大切なヒントは「目標を持つことで、方法や技術は後からついてくる」という言葉かもしれない。
 ただ仕事を決められたとおりにするのではなく、短期目標と長期目標を設定して、〇〇の達成のために、何をすべきかを創意工夫する仕事である。
 プロダクトマネージャーの育成と配置が今後のヒントとなると思い始めている。

除雪ボランティア「ノレソレ雪とろけ隊」役員会

2013-12-09 06:41:31 | ボランティア活動
12月9日(月)

 昨日、一昨日と道路が凍ったり、雪の舞う寒い日が続いた。しかしまだ道路などへの積雪はない。

 6日(金)は、高齢者や障害者世帯の屋根の雪下ろしボランティア活動のための「ノレソレ雪とろけ隊」役員会が恒例の旧岩木町の焼き鳥屋で開催された。
 民生児童委員がお年寄りなどの世帯で雪下ろしを希望した世帯数は33世帯で、そのうち新規が5件。(障害者世帯は9件)27世帯は一人暮らしだから、8割が一人暮らしの高齢者世帯ということになる。昨年はもう12月に、根雪になっっていたという話もあった。

 この雪下ろしボランティアは昨年大雪にもかかわらず、たった5件しか実施件数がなかった。実施しようとしてできなかった世帯は2件。猛吹雪で、目的地に辿りつけなかったのである。

 あんまりにも大雪になると、ボランティア頼みに出来ないという心理も働くのだろうか?
 隊員数は定かではないが、いつも毎回の稼働人数は10人くらいである。この日の参加者も私が最初のし掛け人を担ったこともあって、10人の内7名が私の居住する地区のメンバーである。有り難いことだ。

 12月20日(金)には結団式を開催して、心準備をすることになった。
 今年地区民生児童委員の改選期で、半分の20名近くの方が交代しているので、その方々との顔合わせもある。地域の民生児童委員がいてくれるので、雪下ろしの必要か否かなどの情報が入るのでこのネットワークはなくせない。弘前大学ボランティアセンターの参加も打診してみたい。
 今年は屋根の雪下ろしに、ロープやヘルメットを実験的に使用して様子を見ることにしている。今年はどんな年になるのだろうか・・・いずれにしても事故は避けなければならない。
 
 

育ての親

2013-12-07 11:40:36 | つれづれなるままに
 新潟へ帰郷し、実家のお隣に挨拶に行きました。私の幼いころに、両親が町の学校へ勤務のために転居し、祖父母に私だけ預けられていました。私は寂しいのでよくお隣に泊まりに行きました。お隣のご夫婦には子どもがなく、私をとても可愛がってくれたのです。
 おじいちゃんは91歳、おばあちゃんは85歳。金婚式を越えて、記念写真をとったと恥ずかしそうに見せてくれました。お二人の笑顔はまさに仕合せそのものに見えました。
 今はおじいちゃんの妹の孫が幼女に入り、三人で暮らしています。私も妹も帰郷のたびに挨拶に行っています。

村上市への小旅行

2013-12-05 07:11:07 | つれづれなるままに
 実家を出て新潟市まで新幹線で向かった。そこから村上市まで特急で移動した。
約3時間散策を楽しんだ。臥牛山という城跡の山を正面に望みながら、ぶらぶら鮭街道を歩く。

 城下町の風情を残した村上の町は、この日天気もよく山茶花の赤やピンクの花が咲いて美しい。

 村上市には三面川が流れ、平安時代から鮭が上って来たという。江戸時代中期には、この鮭の漁獲が中心の財源であった。しかしその後乱獲なども原因し、鮭の不良が続いた。この危機を救ったのが青砥 武平次という武士であった。鮭はふるさとの川に必ず戻ってくるということに着目し、「種川の制」を考案、31年もの歳月をかけて完成させた。その結果飛躍的に漁獲高も増え、鮭の恵みで村上藩の財政の運上金が増加、鮭の保護とともに財政の安定につながったという。(村上観光情報「かわら版」より)


 これまでテレビやラジオで聞いていた「喜っ川」という鮭の塩引きで有名なお店を訪問するために、駅から徒歩で20分程度歩いた。山茶花やお茶の北限というだけに茶畑も広がっていた。鮭街道を歩くとあちこちの軒先に塩引き鮭が吊るされていた。

 「喜っ川」はテレビやラジオでも紹介されている有名店。お店のトイレに駆け込み、出たら主人の吉川さんと鉢合わせ。カミさんと二人で訪ねてきたことを伝えると、我々のために鮭の歴史を話してくれた。

 流暢に話される吉川さんは、立て板に水のごとく鮭のあれこれや、村上家のしきたりなども話が止まらない。

  

 鮭のヒレの部分は大事にしている奥方に食べさせる部分だという。いつも水中で鮭の腹びれは休むことがないので、身が引き締まって美味しい部分だという。しかし、そういう主人の配慮にかかわりなく、奥方は主人が食べる胸鰭の方を食べたがると言って笑わせた。

 2011年の東日本大震災の後は、鮭の漁獲が1000分の1に激減し、今年はようやく1000分の3程度に回復してきたという。

 村上の鮭は腹を全部割かず、真ん中はつながっている。これは村上藩が管理した鮭であり、武士道では腹切りは忌み嫌われた。また苦労して回帰する鮭に敬意を払ったという。

 この後「イヨボヤ会館」まで歩いて、鮭の歴史や貴重なサケ漁の道具などの展示品、鮭の採卵や孵化の行程を見た。今度は瀬波温泉あたりで一泊して、ゆっくりと臥牛山など登ってみたいと思いつつ村上を後にした。

 


帰郷

2013-12-02 14:38:20 | つれづれなるままに
12月12日(月)


 11月28日から昨日まで家内と、故郷栃尾へ帰還しました。

 「ふるさとの山にむかいていうことなし。ふるさとの山はありがたきかな」は、歌人の石川啄木のうたです。

 私の愛するふるさとの山といえば、「守門岳」1527m(写真)です。岩木山のような単独峰ではないので、富士山のような美しい稜線は見えません。でも大岳、青雲岳、袴岳の3つの山がつながっている、魚沼、三条市、長岡市にまたがる美しい山です。ことに私の記憶では、初夏に登山すると青雲岳の高山植物の美しさは忘れられません。

 さて、今回は久しぶりの帰郷で、病床にある母の見舞いが中心の帰郷でした。母は4年前に脳梗塞で倒れ、今年は暑い夏に再発して1週間入院しました。前は右の脳梗塞でしたが、今回は左側とのこと。でも点滴で言葉のもつれも回復したといいますから、おそらく酷暑で熱中症気味だったのではないかとも思います。

 兄の話では食事が進まないようで、実際に家内が調理したものも残すものが多く、喫食量が少ないようでした。
 前の印象とはかなり違って、顔も痩せたなと思いました。年をとって今年米寿を迎えた母は、難聴のために中々会話する時も、うまく伝わらないことがあります。更に追い打ちを掛けるように、この脳梗塞が進行して表情から笑顔も消えてきているのが気になります。

 隔週で特別養護老人ホームに短期入所とディサービスを利用しているほか、ホームヘルパーが一日三度やってきて身体介護を行ってくれています。
 兄が先日の姪の結婚式から帰って、柴犬を買ってきたようです。

 母が寂しがらないようにということでしたが、実際は兄が寂しいからといったほうが理解できる気がしました。

 短い帰省はあっという間に終え、12月1日の早朝に母に別れを言って握手をすると、母は悲しそうな表情で私の手を離したがらずにいました。母にはあまりかまってやれない自分たち夫婦なので、申し訳ない思いで胸がいっぱいになりました。
 前に来た時には「また来るよ」というと、「あんたのまたは長いからねえ」と辛口を言ったのでしたが、今回は自分から「また来てね」といったきりでした。
 「春にまた」と心に思いながら、実家を後にしました。

 

 冬来たる竹林のそばの古蔵朽ち年の瀬の雪を耐えて越せるや