札幌市「レラの会」JさんとMさんと一緒に、秋田県大湯環状列石を訪ねました。
大湯ストーンサークル館でまず、館長さんが館内を案内してくれました。このストーンサークルは約4000年前に作られたといいます。
当時の平均年齢は30歳。そしてストーンサークルの完成までは約200年間かかったと聞きました。ナスカの地上絵のような、大きな目玉状のサークルが2つあります。このストーンサークルの場所へ、5㎞もある川から15㎏もある石を200年間運んでできたというのですから、その寿命から考えても7代近くもかかっている計算です。
このストーンサークルエリアで縄文の人々が生活したわけではなく、近隣に分散して暮らしていたといいます。お互いの食の安全を図るためとも言えるし、ひょっとして争いを嫌った人種だったのではないかとも思えます。
私達はこの大湯へ来る前に、弘前市の大森勝山遺跡を訪ねて偶然にも山栗をたくさん拾い、縄文の人々の食糧事情に思いを寄せたばかりでした。
そしてこの環状列石から出土した食糧の炭化物を見ると、まさにクリ、クルミ、コナラなどの木々がこの場所に生えていたことを伺わせます。そして動物からその食料を守るために、フラスコ状に地面に穴を掘って、瓶に食糧を保管したのです。素晴らしい知恵だと思います。
偶然にもBS放送でこの大湯ストーンサークルを見ていたこともあって、縄文時代の人々の予想以上の文化度の高さが理解出来ました。その一つがこのドバン君と名付けられた、NHKどーもくんに似た土器でした。
このドバンくんの素晴らしさは、口が数字の1で、目が2,左頬と右頬にある丸が3,4、中央に5つの○、そして裏側には3つの○が2つ刻まれているのです。この丸がどのような意味を示しているのか。そしてストーンサークルの不思議は、東西南北を表す石が正確に置かれている点です。夏至や冬至を知るためには、この日時計が必要だったというのです。そしてこの楕円形のストーンサークルの幅が、正確に20㍍、40メートルで石が配置されているこの距離感。まさに巻き尺でもなければ無理な距離感です。
土器類の不思議では、今でも通用するほどの、見事な土器の形です。中には取っ手付きのカップもありました。身の回りを飾るヒスイを、道具もない時代に穴を開けられたのは何故でしょうか。
どうもこの大湯ストーンサークルの人々は、緑色に弾かれた人種だったようです。集められた石はすべて緑色の石なのです。
200年間にも渡り、その完成に至る過程でどのように世代間で思いを伝え合ったのでしょうか。
レラの会のMさんと話していて、お祭を毎年継続する時の決まり事で石を運んできたのではないかという推察をしていました。それはこの場所が神聖な祈りの場所であり、更には人々の明日の安全を知らせてくれる唯一の保障の場でもあったのではないでしょうか。食糧を保存しておかないと、たちまち家族は飢えてしまうでしょう。その季節感を知らせるには、この日時計が唯一の神様的な存在だったのではないでしょうか。
大湯ストーンサークル館でまず、館長さんが館内を案内してくれました。このストーンサークルは約4000年前に作られたといいます。
当時の平均年齢は30歳。そしてストーンサークルの完成までは約200年間かかったと聞きました。ナスカの地上絵のような、大きな目玉状のサークルが2つあります。このストーンサークルの場所へ、5㎞もある川から15㎏もある石を200年間運んでできたというのですから、その寿命から考えても7代近くもかかっている計算です。
このストーンサークルエリアで縄文の人々が生活したわけではなく、近隣に分散して暮らしていたといいます。お互いの食の安全を図るためとも言えるし、ひょっとして争いを嫌った人種だったのではないかとも思えます。
私達はこの大湯へ来る前に、弘前市の大森勝山遺跡を訪ねて偶然にも山栗をたくさん拾い、縄文の人々の食糧事情に思いを寄せたばかりでした。
そしてこの環状列石から出土した食糧の炭化物を見ると、まさにクリ、クルミ、コナラなどの木々がこの場所に生えていたことを伺わせます。そして動物からその食料を守るために、フラスコ状に地面に穴を掘って、瓶に食糧を保管したのです。素晴らしい知恵だと思います。
偶然にもBS放送でこの大湯ストーンサークルを見ていたこともあって、縄文時代の人々の予想以上の文化度の高さが理解出来ました。その一つがこのドバン君と名付けられた、NHKどーもくんに似た土器でした。
このドバンくんの素晴らしさは、口が数字の1で、目が2,左頬と右頬にある丸が3,4、中央に5つの○、そして裏側には3つの○が2つ刻まれているのです。この丸がどのような意味を示しているのか。そしてストーンサークルの不思議は、東西南北を表す石が正確に置かれている点です。夏至や冬至を知るためには、この日時計が必要だったというのです。そしてこの楕円形のストーンサークルの幅が、正確に20㍍、40メートルで石が配置されているこの距離感。まさに巻き尺でもなければ無理な距離感です。
土器類の不思議では、今でも通用するほどの、見事な土器の形です。中には取っ手付きのカップもありました。身の回りを飾るヒスイを、道具もない時代に穴を開けられたのは何故でしょうか。
どうもこの大湯ストーンサークルの人々は、緑色に弾かれた人種だったようです。集められた石はすべて緑色の石なのです。
200年間にも渡り、その完成に至る過程でどのように世代間で思いを伝え合ったのでしょうか。
レラの会のMさんと話していて、お祭を毎年継続する時の決まり事で石を運んできたのではないかという推察をしていました。それはこの場所が神聖な祈りの場所であり、更には人々の明日の安全を知らせてくれる唯一の保障の場でもあったのではないでしょうか。食糧を保存しておかないと、たちまち家族は飢えてしまうでしょう。その季節感を知らせるには、この日時計が唯一の神様的な存在だったのではないでしょうか。