田舎の道草

田舎の道草徒然日記

「母ちゃんでバランス保つは、ここだけの話」

2020-12-20 | 日記
先日、庭木剪定用の足場の部材を引取りに行ってきました。
それは、植木の周りに幅1.8m×奥行き1.8m×高さ2.7mの
鉄パイプで直方体に組み上げ、剪定作業時の足場とするためのものです。

以前は、鉄パイプをクランプで接続する足場としていましたが
今回は、ハンマーでくさび部分を打ち込み接続するもので
その組み立て、解体の容易さから、くさび式の足場としました。
そう、よく建築中の周りに組まれているあの足場です。

何故に移動容易な梯子とせずに足場なのかと疑問を持たれると思いますが
安全もさることながら、足場に踏み板を渡し、天気の良い日にそこに腰かけ
じっくり、のんびりと剪定を楽しみたいと思っているからです。
また、今までの剪定のための足場はどうしたのと不思議に思われるでしょうが
あれは、現在、男のロマン、ガレージにて活用中と相成っております。

引取りに際しては、中古の部材活用、部材の数量、運搬料の省略などを考慮し
経費の節減を計ろうとしたため、販売店からは何度も見積書をいただくことに
なりました。
運搬料を節約したため、その代償としての部材引取りは言うまでもありませんが
見積書に記載される総重量がとても気になっていました。

愛車プリウスに1.8mの部材を積むとなると、助手席と分割される後部座席を倒し
トランクまでをフラットにして、そのスペースを確保しなければなりません。
そこに総重量約130kgにもなる部材を積載するのですから、
車両の助手席側に重量がかかり過ぎることになるのは容易に想像することが出来ます。
そこで、車両のバランスを保つためには、どうしても母ちゃんが必要だと気が付くのに
そう時間は要しませんでした。
部材積載後、母ちゃんを運転席の後部座席に鎮座させることを思いついたのです。

「車両のバランスを保つためにどうしても一緒に・・・」とは口が裂けても言い出せず
「単なる運搬のため一緒に」と往路は勿論助手席での片道約1時間のドライブと
豪華な食事付(疑問)のVIP待遇ということにしましたが、
復路時の劣悪な状況の後部座席と、バランス確保のためと気付いてしまった母ちゃん
復路は終始、気を失っていました。

帰宅途中の車両の傾きがどうも気になっていたのですが
ここだけの話、あくまでもここだけの話ですよ。
車両のバランス的には、もう二三本、部材を追加した方がよかったかもしれない。
あくまでもここだけの話。


「あんこ」大好き人間ここに在り

2020-12-13 | 日記
果物以外の甘い菓子などには、あまり目もくれない方だが「あんこ」系には目が無い。
「あ・ん・こ」の、この3文字の響きがたまらない。何と心地よい響きだろうか。
「あ」を「う」に、「ん」を「そ」に替えての言葉遊びも好きだが・・・。

ぼたもち、おはぎ、たい焼き、大福、今川焼等々に共通するのは「あんこ」。
ほっこり甘い、あの「あんこ」がとて好きだ。それも特につぶあんがいい。
口いっぱいに、あの甘さが広がる時、幸せに満たされたようなそんな気分になる。
「あんこ」が好きだ。好きだ好きだ大好きだ。

今川焼き、大判焼き、回転焼き、じまん焼き、あじまん、おやき、きんつば、御座候
他にも全国での呼ばれ方は様々あるようだが、この季節の「あんこ」を入れてこんがり
焼いたこれらが大好きだ。尻尾までぎっしり詰まったたい焼きなどはウェルカムだ。
そうそう、子供の頃、会津で「きんつば」と称し食べていたことを想い出した。

ストイックなまでに、「あんこ」を封印する期間がある。その期間は約一か月。
定期健診で検査結果が出るまでのこの期間の長いこと長いこと、一年にも感じる。

検査結果の数値が良い時は、数日以内には決まって「おはぎ」or「あじまん」を
口にする。自身を律していたものから解放され、幸せに満たされる瞬間である。

数値良しとする範囲は、「数値が下がる」「数値の現状維持」としているが、近頃では
数値の上がっても、許容範囲内とし、数値良しとしてしまう傾向にある。
「あんこ」を口にしたくて許容範囲を勝手に広げる「あんこ」大好き人間ここに在り。
これじゃ駄目じゃん。

「あん、あん、あん とっても大好きドラえ~もん]の歌を聴く度に、あんが無くても
大好きだと言い切るドラえもん。「あんこ」は無くてはならない存在だ!!
(「とっても」を「取っても」と解釈するボッチ)
また、政府「アンコ不要」の見解を表明したことに対しても異を唱えたい。
言葉を勝手に解釈したり、変換したり。「あんこ」で理性を失うボッチなれど
「あんこ」にこだわり、あんこに情熱を注ぐ「あんこ」大好き人間ここに在り。


こうゆう星の下に生まれて

2020-12-06 | 日記
職場で、朝、体温を測ると、この時期
34℃~35℃台と低く表示されることが多い
測定不能となることさえある。
低体温症ではないかと心配するも、
朝、健康のためにと歩く時間が長く
身体全体が寒さで冷えているからだと思う。
職場を出る頃には、36℃台の平熱に戻って
いるから心配ない。
最小の熱量で体が動くボッチ。
まるでハイブリット人間のようだ。

以前職場のトイレで、用を足すため
立ったまま、じっとしていたら
照明が消えたことを記載したことがある。
50秒間じっとしていると人感センサーが
人がいないと判断し、消灯したものだが
あの時は、突然照明が消えたことに驚き
そして、用を足すのに50秒間もじっと
していたんだと愕然としたものだ。

老化現象も心配だけれど、
この度は、トイレに入っても照明が
点灯しないという現象に遭遇してしまった、

これは由々しきことである。
人感センサーが作動しないということは
ボッチは、人間として認識されていない。
ボッチは、影が薄い
ボッチは、髪が薄い(これは笑いを取る
ための戯言であり、真実に非ず)
ある意味、じっとして消灯するよりも
ショックは大きいかもしれない。

心配には及ばず。ただの人感センサーの
故障であることが判明し事無きを得、
安堵した次第だ。

こうゆう話題には、事欠かないボッチ。
こうゆう星の下に生まれたボッチって。
幸せ者なのだろうか。

シマウマに隠された思い遣り

2020-11-29 | 日記
ついこの間まで、歩くのに日蔭にしようか
日向にしようかと迷っていたものだが
今は、日蔭には目もくれず、小春日和には
日向を探し好んで歩くそんな季節になった

街路樹の枝先の葉が、懸命にしがみ付くも
北風はそれを舞い散らす。
ああ無情なれど、散った葉は、落ち葉達に
迎え入れられ、一緒に「カサカサ」と音を
立てて踊りだす。とても楽しそうだ。

今年ももう残すところ1か月となった。
歳のせいか、この、時の流れが早い、実に
早く感じられる。何でだべ。

作詞 秋元 康氏の「川の流れのように」の
「おだやかに この身をまかせていたい」の
歌詞が妙に心にしみる。

一滴から始まり激流を下り大海に注ぐ川に
人生を重ね、例えることが多い。
とすれば、歳を重ねてきた今、おだやかに
流れる下流あたりだろうに、時の流れが
それを阻む。
おだやかにこの身をまかせてみたいものだ

LINEを見ていた母ちゃん、突如大笑いをし
ボッチの肩を何度も叩きながら笑った。
「ヤ~ダ~わだス、『〇〇しました』を
『〇〇しましま』って書いて送ったみたい」
ダド。

これに返信した息子のLINEには、シマウマ
のスタンプのみ。
母ちゃんこのシマウマのスタンプの意味が
暫らく解らずにいたが「〇〇しましま」の
誤字を気付かせてくれたようだ。
大笑いは、誤字を送ったことの苦笑とシマ
ウマの意味が理解出来たことへの満足感が
複雑に入り混じった、そんな笑いだった。

それにしても、誤字を直接指摘せず、シマ
ウマにする息子、その慈愛にも似た思いやり
に息子を誇りに思った瞬間だった

ボッチはと入歯(言えば)「〇〇しましま」
にも気付くことなく、シマウマを見た時、
今日の競馬ジャパンカップ頑張るぞと意気
込んでしまった。 「シマッタ~!!」

馬の数え方は、一頭、二頭、三頭に非ず
正しくは一着、二着、三着。
「ここは誰、ボッチは何処 どんだケー」
状態なれど、こうなったらジャパンカップ
頑張るぞ~!!



川の流れのように(川流不息):鄧麗君 テレサ・テン (歌詞中譯│對應曲:雙手的溫柔-江美琪)


「愛しき日々」堀内孝雄

ボッチは「老いてきたのではない子供に戻っているのだ」

2020-11-22 | 日記
この歳になると、「老いているのではない子供に戻っている」
という言葉が妙に気になり出してくる。
子供の頃の出来事がやけに想い出されてくるのも
これも子供に戻り始めて来たことへの証となるのだろうか。

子供の頃、炬燵に入り、背に親の温もりを感じながら
手袋で指人形を作ってもらい、遊んだことを想い出した。
その人形は、毛糸の手袋で出来ていて、手袋のどの指だったかを結び
手首の部分を折り返してかぶせ帽子としていた。
そんな指人形を2本の指で操って遊び、人形との会話は
子供心におおいに盛り上がっていたことを想い出す。

「てぶくろ」の反対は何~だ、と親に問い
「ろ・く・ぶ・て」の返事に、6回肩を叩いてやり
小さな親孝行と得意気になって繰り返したことも想い出す。

YouTubeの動画で指人形の作り方を確認することが出来た。
他にもいろいろな指人形の作り方が載っていた。
子供の頃に、これらの指人形で遊ぶことが出来たのなら
話題は限りなく広がりをみせていたに違いない。

実際に軍手を持ち出して指人形の作り方を真似てみた。
帽子の後ろから手袋の中指を出してみたら
髪の毛一本縛りの女性が出来た。
この指人形と大人の会話が楽しめそうな予感がするのは、
こんなボッチは、また子供にも戻りきれていない
ということになるのだべか。


手袋人形の作り方













「五本指の靴下が履きにくくなってきたな~」

2020-11-15 | 日記
朝晩の冷え込みに耐えかねてとうとう上下のヒートテックの世話になった。
それも厚手のやつで、もうこのシーズン手放せそうにもない。
秋の美味しい食べ物で食欲を満たし、肥(こえ)と共に越冬のための準備は万端整った。

5本指の靴下を履いているが、近頃、履くのに時間を要するようになった。
「靴下の5本指?」足の指で人を指さないから「指」とは言い難い。
足の「人差指」で人を指しては相手に失礼だし
足の「薬指」で薬を塗るのも難儀なことだ。
ましてや「小指」を立て、「恋人」の合図とするのもまた違和感がある。

「あなたが~噛んだ 小指が痛い
きのうの夜の 小指が痛~い
そっとくちびる~ 押しあてて~
あなたのことを しのんでみるの~
私をど~うぞ ひとりにしてね
きのうの夜の 小指が痛~い~」(伊藤ゆかり「小指の想いで」)
などは、足の指であっては決してならない。

足の指で「ジャンケン」をしたことが懐かしい。
「グー」「チョキ」「パー」いずれも技術を要する。
今は「もう秋~」もとい、もう指がつりそうで怖いもとい「もう出来ない」。

そんな訳で(そんな訳がない)足の一番目を第1趾(だいいっし)、第2趾、
第3趾、第4趾、五番目を第5趾とも呼ぶらしい。

本題の「五本指の靴下が履きにくくなってきた」の話に戻そう。
以前は、五本指の靴下に対し、5本指自らが、自らの役割として自覚し、
納まるべき靴下の指先に、我先にと納まっていたものだが
今は、5本の指先を靴下の指先の入り口のところまで、手を添えてやっても
いうことをきかない。老いてきたせいだろうか・・・。

足の指の第3趾(し)、第4趾ともなれば、靴下の指先1本に、
一緒にはいってしまうありさまで、第5趾に至っては、どうにも手が付けられない。
また、靴下の指先が空き部屋になることも、決して珍しいことではない。
更に、指先の爪が少しでも伸びていようものなら「さー大変」
引っかかって、靴下の指先との大喧嘩と相成る。

どうぞ、静かに5本指の指先に納まり越冬されますことを祈ります。
(ボッチの祈り)


「天高く腹肥ゆる秋」風速、風向き、騒音の役割

2020-11-08 | 日記
空は澄み渡り晴れ、食欲を増し腹が肥えてたくましくなる秋。
秋の好時節に相応しい言葉はないだろうかと考えてみた。
「天高く腹肥ゆる秋」なんてどうだろう。

この季節、美味しいもののひとつに芋がある。
サツマイモ、サトイモ、ジャガイモ
芋大好き人間、ボッチここに在りだ。
ただ、この美味しい芋は、腸内の栄養源となり
多量の腸内ガスを発生させる源となるから
厄介と入歯もとい言えば厄介だ。
美味しい=放屁 これは実に厄介なことである。

空が澄み渡るこの秋に放屁の話とはいかがなものかと
心の中で何度も何度も自問自答するも
他にブログ題材見つからずして止む無しと決行するに相成った。

題材が見当たらない時に、脳裏をかすめるのが何故に放屁なのかと
自分の思考の根底にあるものを思い知らされるも
得意のジャンルであることは否めない。

不潔であったりして人前で口にするのが失礼なことを尾籠(びろう)と言うらしい。
引用すれば「この度のブログは、誠に尾籠な話ですが・・」と使うのだろうか。

街を歩いていると、急に周りの様子を気にしだす人を見掛けることがある。
この行動は、その人が放屁の予感を察知した時、放屁中華もとい放屁中か
はたまた放屁後にとる行動と勝手に想像して楽しんでいる。
ボッチ自身がそういう事態の時に、必ずとる行動だからこの想像には自信がある。

周りの様子を気にすることで、風速、風向き、周りの騒音量
周囲の気配を一瞬で感じ取り、放屁の時機、周りの反応を察知する。

「放屁は、黄門もとい肛門のあくびなり」アッハッハと笑い飛ばして
周りのことは、気に掛けることなく豪快なる放屁。
そんな豪快さは皆無のボッチなれば、用意周到のボッチは
周囲の反応を気にしての行動タイプ。

風速は香りを和らげ、風向きが香りを遠ざけ、騒音が音をかき消す。
(適当な風速、風向き、騒音量は未検証なので要注意)
条件を満たせば「出るもの拒まず、去る者追わず」にて
「案ずるより産むが易し」なれば「心配ご無用」である。

空は澄み渡り晴れ、「天高く腹肥ゆる秋」に紅葉した街に出て
周りを気する人を探し、勝手に想像しみるのも楽しいものだが
肥えたお腹の腹熟(はらごな)しのために放屁して歩くのも一興か。

出掛けに忘れ物は無いかと念押され

2020-11-01 | 日記
今はもう秋、日蔭を歩くか、日向をあるくか迷いながら蛇行する。
蛇行歩きを色づき始めた街路樹が揺れながら微笑んでいるようだ。

母ちゃんが紙に書いた「入館証、メガネ、財布、スマホ、時計、ハンカチ・・・」を
目の付くところに貼って、出掛けに忘れ物は無いかと念を押す。
小学生の頃、持ち物検査だったろうかハンカチ、チリ紙を持っているかを調べられた。
毎朝、母親に念を押されていた頃と重なって懐かしく思い出される。
歳を重ねた今もなお、同じように念を押されるは、いとおかし。
人生の忘れ物はなかっただろうか。

多くの人が、常にスマホを手に見入っている。
電車の中でも、コーヒーを飲んだり食事をしている時でさえスマホを見て離さない。
この現実を捉えれば、出掛けに何かを忘れることがあったとしても
スマホだけは決して忘れ無いと断言しても過言ではないだろう。(個人の感覚)

スマホさえあれば、豊富な情報を得、「観る・買う・打つ・遊ぶ」が出来る。
支払、送金が出来てしまう便利さなどを考えればスマホを離せないのも、うなづける。

ただ、スマホの支払アプリが使えない店であわてることがある。
こんな時の対策として、スマホケースのポケットにキャッシュカードと少しの現金を
入れておくのも一つの方法かもしれない。
また、運転免許証もケースのポケットに入れておけば不携帯を防げることにもなる。
今、検討されている運転免許証のデジタル化のメリットは大きいと思う。

スマホさえ持っていれば、何処にでも出掛けられるそんな時代の到来なのだろうか。
出掛けに忘れ物は無いかと念を押されない、そんな時代がやってくるのだろうか。

誰もいない海 トワ・エ・モワ

落ちているマスクを思う

2020-10-25 | 日記
近頃、街を歩いていると落ちているマスクが目につく。
落ちているマスクは、捨てられたものなのか誤って落ちてしまったものなのか知る由もな
いが、いずれにしても落ちていれば、街の美化を損ね、環境汚染にも繋がる。ましてウイ
ルスが付着しているとなれば、感染のリスクさえ考えられ、落ちていることに良いことは
一つもない。

マスクが不足し手に入り難かった頃には考えられなかった光景であるように思う。
そして落ちているマスクを見る時、飽食の時代に捨てられる食材、そして残飯によく似て
いるような気がしてならない。(個人の感想)
マスクや食材があれば、もっと生き長らえる人々が世界には多くいるのだろうに・・・。

コロナ禍を「どげんかせんといかん」特効薬が治験の段階にあるならばマスク着用は有効
な手段の一つであるに相違ない。まして、インフルエンザにも注意が必要となってきた今
、大切にしたいものだ。

我家の愛犬達にもウイルス対策のためマスク着用を徹底させ、際立った写真の写り映えを
狙ってみたものの、このマスクもまた、街に落ちているマスクと何ら変わりないことに気
付き反省しきりである。









「車に何らかの異常が発生し、暴走した」

2020-10-18 | 日記
名取市閖上(ゆりあげ)で毎週日曜日、朝市が開かれている。
朝市では、震災により壊滅的な被害を受けた人々が復興のためにいまだに頑張っている。
そこは、復興のために頑張っている人々とそれを応援しようとする人たちでいつも賑わう。
応援とはおこがましいが、太陽が高くなる頃、思い立ったかのように買い物、食事に出掛けることがある。

先日、そんな朝市からの帰宅途中、加齢によるものか「ここは誰、私は何処」の事象が発生してしまった。
それは、愛車プリウスを運転していて、ふと気が付くと帰宅するつもりが仙台空港に向かっていたというもの。
直進すべき何処かの交差点で無意識のうちに左折してしまったためである。(怖い)
問題は、その交差点が何処だったのが、左折した記憶がいまだに思い出せないことだ。(不安)
同乗していた母ちゃんにそのことを話すと「空港までのドライブ追加サービスだと思っていた」と言う。
「・・・」。ボッチを信頼しきっているそんな母ちゃんをボッチは誇りに思う。

当時のボッチの行動をかえりみるに、無意識に空港に向かったということは海外旅行願望。
はたまた現実逃避、逃避行を暗示しているのだろうか。
いずれにしても、いまだにその交差点が思い出せないこと、その行動の記憶が全く無いことに一抹の不安を覚える。
ただ、「・・車に何らかの異常が発生し、暴走した・・」の言葉を引用するならば
交差点でプリウスに異常が発生し、プリウスが勝手に方向を変えたものでは絶対ないことだけは断言出来る。