あび卯月☆ぶろぐ

あび卯月のブログです。政治ネタ多し。
お気軽にコメントなさってください☆

『負けて、勝つ~戦後を創った男・吉田茂~』(第一回)解説と感想と

2012-09-19 02:31:08 | 歴史・人物
NHKの土曜ドラマスペシャルで『負けて、勝つ~戦後を創った男・吉田茂~』が始まった。全五回。いま、二回まで放送されている。
近代史をテーマにしたドラマを見る時、内容と史実との違いを確認しながら観るのが案外楽しい。
別に「史実と違う!」と怒りたいのではない。ドラマでそれを云うのは無粋というものだろう。
ドキュメンタリードラマと称して史実と全く異なることをやるのは問題だと思うが、このドラマは冒頭に「このドラマは歴史に基づいて作られたフィクションです」と断りも入れている。
解説と感想と銘打っているが、「解説」というほど立派なものではなく、「突っ込み」と云った方が正確かもしれない。
映像作品を見る時は、突っ込みを入れながら観るのがなにより楽しいのである。
なお、私の浅い知識の範囲内での突っ込みのため間違い等があれば、さらなる突っ込みをお願いしたい。


○吉田茂はなぜ拘留されていたのか?
ドラマの冒頭、刑務所の中でダニとシラミと南京虫に刺され、痒みでのたうちまわる吉田の姿が映される。
憲兵にそれを訴えると、突然轟音がして、刑務所が破壊される。爆撃されたのだ。
この描写は事実で、実際に吉田は代々木の陸軍刑務所に拘留されてひと月たったとき、刑務所が空襲に遭い、焼け出され、目黒の刑務所に移った。そこも空襲でやられて今度は目黒の小学校に移り、そこで仮釈放となっている。
期間にして四十日ほどだったが、ではなぜ吉田は刑務所に入れられたのか。
これは、友人だった公爵の近衞文麿と関係がある。
敗戦の年、昭和二十年の二月、近衞文麿は昭和天皇に「近衞上奏文」と云われる意見書を提出する。実際に天皇に拝謁し、これを読み上げ、御下問にも応じている。
内容は「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」に始まり、国体護持のために一日でも早い戦争終結を訴えるものだ。
この上奏文の作成に協力したのが実は吉田茂だった。
どの程度彼が手を入れたかは不明確だが、近衞文麿と吉田茂と殖田俊吉(元官僚、当時近衞の側近)が共同で作成したされ、ジョン・ダワーの『吉田茂とその時代』(中公文庫)によると、吉田がこの上奏文を書いて、近衞が傍で見ていたように書いてある。
ただ、この上奏文には奇妙なところがあって、満洲事変以来、支那事変や大東亜戦争も国内の共産主義勢力の陰謀によって起こされたとしている点だ。したがって、このままでは日本で共産主義革命が起こると説く。
現在ではそんな事実がなかったことは明らかであるが、なぜこのような陰謀論を盛り込んだのか。
近衞の妄想という見方もあるが、吉田茂が昭和天皇を脅すために、わざとそういう書き方にしたとの見方もある。(註1)
ともあれ、これがきっかけとなって、吉田は九段下の憲兵隊に連行され、取り調べを受けたのち、代々木の刑務所に入れられた。
直接上奏した近衞についても、憲兵は「近衛はバドリオだ。これで始末するんだ」(註2)と意気込んでいたようだが、公家の五摂家の筆頭(註3)である近衞を逮捕することはできなかった。
しかし、このときもし近衞が逮捕拘留されていたら戦後の近衞の政治的な立場は大きく異なっていただろう。
吉田が戦後、総理になったのはこのとき拘留されていたことが大きい。一方の近衞は戦犯に指定されて自殺する。歴史とは皮肉なものである。


○玉音放送を録音する昭和天皇
昭和天皇役の俳優は大蔵千太郎という人らしい。知らない俳優だが、顔はともかく、玉音放送の声と抑揚は似ていた。
この玉音放送の録音は終戦の前日八月十四日の夜に行われた。一度目の録音を終えたとき、天皇が「どんな具合であるか」と訊き、録音技師は「数ヵ所お言葉に不明瞭な点がありました」と答えた。天皇自身も「声が少し低くうまくいかなかたったようだから」といい二度目の録音がなされた。玉音放送として流れたのはこちらの方である。少し声が高めに聞こえるのは一度目が低いとお感じになったからその反動だと思わる。
録音中、周囲の者たちは皆涙を流し、嗚咽に耐えていたという。また、天皇も眼に涙を浮かべていたと半藤一利『日本のいちばん長い日』(文春文庫)にある。ドラマでも嗚咽に耐える人(NHKの下村総裁か侍従か)が映っていた。


○髭を気にする近衞文麿
終戦後、東久邇宮内閣で副総理格の国務大臣となった近衞が妻の千代子に髪の手入れをされながら「近衞文麿の口髭はヒトラーに似ていると・・・」と悩むシーンがある。本当にそんなことがあったのか。
近衞は首相就任直前の昭和十二年四月一五日、次女温子の結婚式の前夜の宴で自らヒトラーの仮装(今風に言うとコスプレ)をしたことがあった。この時の附け髭はわざわざ浅草まで買いに行ったという。
ウィキペディアには「物議をかもし」たようなことが書かれているが、さほど、物議をかもしたようにも思えない。
首相に就任した直後、婦人運動家の市川房江(戦後、参院議員)は月刊雑誌「評論日本」(昭和十二年七月号)に「近衞公は、婦人連の間でも相当の人気がある。(中略)お嬢さんの結婚の送別仮装会のために、わざわざヒットラーの髭を浅草迄買ひに行つた所を見ると、よき夫、よき父であるらしいといふ結論に達したやうである」と書き、好意的に紹介しているし、プロレタリア作家の宮本百合子も「どの新聞にも近衛公の写真が出ていて大変賑わしい。東日にのった仮装写真は、なかでも秀抜である。(中略)文麿公が、髪までをヒットラー風に額へかきおろし、腕に卍の徽章をまいて、ヒットラーになりすまして笑いもせず貴公子らしく写っている姿は、相当なものである」(東京日日新聞 昭和12年6月4日)と書いている。
少なくとも、戦前においては近衞の髭はヒトラーに似ていると否定的に言われた可能性は低いだろう。社会大衆党の西尾末広も国会で「ムッソリーニの如く、ヒットラーの如く、スターリンの如く」強い指導者になるべきだと首相になった近衞を激励している。本人も言われて嫌ならわざわざヒトラーの仮装をやりはしなかったろう。
問題は戦後だが、戦後ならあるいはそういう悪口を言う者もあったかもしれない。ただ、それを証明する資料を見たことはない。


○日本の分割統治と軍票の使用
近衞が千代子夫人に「日本は四つに分割統治され」「通貨は連合国の軍票を用いることになる」と説明するシーンがある。この案は本当にあった。
当初の案では北海道と東北をソ連が、関東中部近畿はアメリカ、四国が中華民国(註4)、中国と九州をイギリス、東京は四カ国で共同、大阪はアメリカと中華民国が分割占領するというものだった。
マッカーサーの意向で米軍の単独統治となったものの、もし、分割統治が実現されていたと思うとゾッとする。おそらく、南北朝鮮や東西ドイツより悲惨な結果を招いたのではなかろうか。
また、軍票(連合軍の軍票はB円と呼ばれた)の使用については、大蔵官僚の巧みな交渉が功を奏して、連合国は早期にこれを回収した。この交渉は極秘のもので、誰がどんな交渉をしたか真相は分からない。(野口悠紀雄『戦後日本経済史』(新潮選書)18頁)
これも実施されていたら日本の戦後経済は全く別の姿になっていただろう。
なお、既に印刷されていたB円は、そのまま沖縄へ運ばれ、沖縄の法定通貨となり、ドルに切り替わる1958年まで使用された。


○進駐軍用の特殊慰安施設
アメリカ軍が日本に進駐したとき、最初の10日間、神奈川県下だけで1336件の強姦事件が発生し、特別調達庁(現在の防衛施設庁)の資料によると占領下の7年間で米兵に殺された者が2536人、傷害を負った者が3012人いたといわれている。
従って、「国が占領されるということは女性が犯されるということですよ」と云った近衞の懸念は杞憂ではなかった。
1945年8月19日、就任二日目の近衛は坂信弥警視総監に対し「君が先頭に立って、日本の娘の純潔を守ってくれ」と言ったと広岡敬一『戦後性風俗大系 わが女神たち』(小学館文庫)にある。
近衞がこの種の発言をしたことは今回調べてみて初めて知った。
ドラマにあるように池田勇人が資金の調達に関して特に大きく尽力したことも事実であるようだ。
 

○キャベツをちぎる吉田
吉田がキャベツの葉をちぎって、 葉巻ケースの中に散りばめているシーンが二度程出てくる。
これはドラマ制作スタッフのブログで次のように解説されている。

「葉巻は、乾燥すると味が損なわれます。又、湿気が多すぎると、それはそれで保存状態があまりよくありません。吉田茂は、誰に習ったのかは判りませんが、このようにキャベツを葉巻ケースに入れる事で、葉巻が適度な湿度の状態で保存できる事を知ったようです。 以来、彼は大好きな葉巻を美味しく吸う為に、このようにキャベツの葉を入れて保存するのが日課となったようです。これだけは、誰にも任せなかったようです。」(土曜ドラマスペシャル 負けて、勝つ#19 豆吉が教える「吉田茂」豆知識コーナー第1回http://www.nhk.or.jp/drama-blog/1550/130995.html)

少し訂正と補足を加えたい。茂の娘・麻生和子が著した『父 吉田茂』によると、葉巻の箱の中にはちぎったキャベツを入れたのではなく、「箱の中にはキャベツの葉を一枚入れておきます」(同書、47頁)とある。それを戸棚にしまうのだ。また、キャベツの葉だけでは湿気が足りないので、戸棚の中には、かならず水の入ったコップを置いていた。(同)
これに関してエピソードがある。吉田が憲兵隊に連行されたことは先に述べたが、連行されながら吉田は家人に「煙草、気をつけてくれよ」と言い置いた。
これは、湿気を保つために煙草の管理に気をつけろという意味だったのだが、憲兵隊は葉巻に重要なものが隠してあると勘違いしたようで、翌日、再び吉田邸を訪れ、葉巻の箱を押収していった。葉巻はすべてバラバラにほぐされたあと、焼却処分されたとのことだ。孫の麻生太郎は「くやしがる祖父の顔が目に浮かぶようだ」と『麻生太郎の原点 祖父吉田茂の流儀』(徳間文庫)に書いている。
また、前出のスタッフブログの記事には(吉田茂は葉巻を吸うとき)「火を点けるのは必ずマッチを使う・・・。どうやら、ライターで葉巻に火を点けるのは品性に欠けると思っていたようです・・・。」とある。
これにも少し補足すると、吉田が葉巻を吸うとき必ずマッチを用いたのはライターのオイルの匂いを嫌ったことも理由だったようだ。


○パリ講和会議
吉田と近衞が敗戦後の瓦礫を歩きながら、パリ講和会議を思い出すシーンがある。
「講和会議の夜は私もあなたも酷く酔っていました」(吉田)
「欧州大戦に勝利したにもかかわらず、会議における日本は蚊帳の外だった。英国と米国の論理に振り回され何も言えなかった」(近衞)、「はい。」、「泣いたな・・・」、「泣きました」。
回想シーンでは吉田は芦田均と酔っている。
近衞が近づき、芦田は吉田に「立ってください。近衞公爵です」と促すが、吉田は酔ったまま「近衞がなんだ?クソったれ!」と悪態をつく。
近衞は吉田の呑んでいたワインの瓶をぶんどりラッパ飲みして咳き込みながら「私もそう思う。こんなことでは国際政治の中で生き残っていくことはできない」。
吉田は立ちあがって「そうです・・・だから俺たちは日本の外交能力を高めていくしかないんですよ!」と叫び、吉田と近衞は肩を組みながら、「英国クソくらえ!米国クソくらえ!」とクソくらえを合唱する。実にいいシーンだ。
が、実際にこのようなことがあったかどうか。パリ講和会議の日本全権団にこの三人が随行したのは事実だが、近衞関係の文献を読み漁っても、吉田と近衞がこのようにして親交を深めたことを示す資料は確認できなかった。
そのような資料があれば、どなたか是非教えていただきたい。多分、創作だとは思うが、本当だった素敵だなと思う。
吉田と近衞の親交はいつごろからだったろうか。昭和九年、近衞が息子の文隆をアメリカに留学させる折、吉田に相談したとあるので、この頃にはそれなりに親交があったとみていいだろう。
その後、大東亜戦争の和平工作において、二人は深く結び付く。


○一億総懺悔
瓦礫を歩く吉田と近衞のシーンの続き。
近衞が「今政治の中枢にいる者たちは国民総懺悔と言って連合国の言いなりになろうとしている」(要旨)と話す。
国民総懺悔とは東久邇宮内閣が唱えた「一億総懺悔」を指すのだろう。一億総懺悔とは敗戦に至って、日本国民一億(実際はこの当時、七千万ほど)は総懺悔すべしという意味合いだが、日本国民が懺悔する相手は誰か。
一般に連合国やアジア諸国に対してと解される。実際にそのように受け取った国民は多かっただろうが、東久邇宮の意図は施政方針演説の「敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして・・・」というくだりにあるように、神の御前に対してと解すことが妥当だろう。言はば、日本の神々、あるいは天皇陛下に対して敗戦に至ったことを懺悔するという意味合いが強いのだ。(註5)


○牧野伸顕について
吉田茂の岳父・牧野伸顕について、少しだけ触れておきたい。ドラマの中で吉田に「政治家は頭を下げるのが仕事だ。あんた出来るか?」と訊いている人物だ。
牧野伸顕は大久保利通の次男で牧野家へ養子へ行き、牧野姓となった。東大中退後、外務所に入り、県知事、外交官を経て大臣を歴任し、内大臣(註6)となり昭和初年の天皇を補佐した。親英米派として、二・二六事件のときには襲撃を受け辛くも生き残った。
この伸顕の娘・雪子の夫が吉田茂である。つまり、麻生太郎には大久保利通、牧野伸顕、吉田茂の血が流れていることになる。
なお、吉田茂の実父は土佐の民権運動家だった竹内綱(たけのうちつな)という人物で、茂は吉田家へ養子へ行き、吉田姓となった。この時代は養子だらけで少々ややこしい。竹内綱は衆院議員を務めたのち実業家となっている。


○吉田とマッカーサーの会談
ドラマで吉田がマッカーサーに逢った時、椅子に腰かけ、葉巻を吸うシーンがある。
それだけでも、結構勇気のある行動だと思うのだが、マックから葉巻を勧められた吉田は「いや、結構。それはフィリピン産でしょう?私はハバナ産しか吸いません」と応じない。
これは実際にあったやりとりだ。『父 吉田茂』で麻生和子はマックの高飛車な態度がそうさせたのではないかと解説している。
また、「敗戦という重苦しい現実があったから(略)「わーい、ざまあみろ」というくらい痛快で嬉しく感じられた」と回想している。
またドラマではマックが机の周辺を歩き回りながら日本占領施策の概要を話し、吉田が含み笑いをして、「何がおかしい?」と問われ、「閣下はよく歩かれます。まるで檻の中のライオンだ」と答えるシーンがある。
いかにもドラマの創作シーンのようだが、これも実際にあったやりとりである。
マックは部屋をライオンのように歩く回る癖がって、前出の和子本ではマックが「なにを笑っているのだ?」と尋ねて吉田は「あなたがあんまり歩きまわるから、ライオンの檻のなかにいるみたいな気がしておかしくなった」と答えたそうだ。ドラマではそのあとマックは「私が怖くないのか?」云々と言っていたが、実際には吉田の答えに笑っていたそうだ。


○昭和天皇・マッカーサー会談
このとき、昭和天皇とマッカーサーの写真はドラマにあったように三枚とられている。一枚目はマックが目を閉じており、二枚目は昭和天皇の口が開いていたため、三枚目が新聞に掲載された。
ドラマでは突然の写真撮影に困惑している昭和天皇が演じられているが、実際にこの撮影は抜き打ちのもので、天皇が困惑したのも無理もない。
東久邇宮内閣の山崎巌内務大臣は写真を掲載予定の新聞を発禁にしようとしたが、GHQから圧力がかかり、結局、九月二十九日の新聞に掲載されることになる。
この写真について、高見順は「かかる写真は、誠に古今未曾有」といい斎藤茂吉は「ウヌ、マッカーサーノ野郎!」と日記にしたためた。佐幕派の永井家風も「幕府滅亡の際の徳川慶喜も今日の天皇より遥かに名誉ある態度をとったのではなかったか」と慨嘆している。
この写真が掲載された新聞が壁に貼られ、それを見た国民が俯きあるいは嗚咽し、一人の男が「見るな、見るな・・・」と新聞を引きちぎるシーンがドラマにあったが、当時の日本国民の衝撃をよく表現していると思う。


○東久邇宮内閣の総辞職
白洲次郎が吉田邸を訪ね、「東久邇宮内閣は総辞職だな」といい、吉田が「写真のせいか?」と応じるシーンがある。
ドラマの構成的にもそう思えてしまうが、東久邇宮内閣が総辞職したのは写真が原因ではない。
実際には、十月四日にGHQが政治犯の釈放、思想・宗教・言論の自由を束縛する法律の撤廃並びに内相、警視総監、全国警察部長、特別高等警察全員の罷免など民主化の指令を内閣に出したことがきっかけだ。東久邇宮は約四千人の罷免・解雇は実行不可能として翌日に「今後は米英をよく知る人が内閣を組織するべし」と言って総辞職した。
なお、東久邇宮内閣は東久邇宮殿下と緒方竹虎(元朝日新聞社代表取締役副社長)を主軸とし、近衞公の援助の下に組閣が進められ、緒方竹虎は内閣書記官長、近衞は無所任の国務大臣として入閣しており、緒方の関係者として山崎巌内相(緒方の同郷人)、前田多門文相(朝日新聞論説委員)、太田照彦首相秘書官(朝日新聞論説委員)、中村正吾緒方書記官長秘書官(朝日新聞政治部員)らが入閣ないし内閣に参画している。
このような経緯から東久邇宮内閣は「緒方内閣」「朝日内閣」と呼ばれることがある。


○細川護煕と麻生太郎
まさかとは思ったが、この二人、ドラマに出演していた。
勿論、本人ではなく子役が演じていたのだが、第一回で一番笑ったのが麻生太郎が吉田茂の部屋のソファーで飛び跳ねているシーンだ。太郎、飛び跳ねすぎ。
母親の和子から「コラ太郎!おじいちゃんの部屋に入ったら駄目って何度云ったら解るの?」と注意されているくだりは思わずニヤリとさせられた。実に麻生太郎らしい。
蛇足だが、このシーン、某巨大掲示板の実況スレでも大盛り上がりを見せていた。
細川護煕は近衞文麿の次女・温子と細川護貞の子。後に総理大臣になったあの細川護煕だ。
五十五年体制を崩壊させ、人気もすこぶる高かったが期待外れの結果に終わり、気づけば内閣を投げ出していた。このあたりの経緯が祖父の近衞文麿に類似しているとして、批判されたものだ。
なお、護煕の弟・忠輝は近衞家の養子となり、現在、近衞の当主。日本赤十字の社長を務めている。顔は兄以上に公家顔。文麿の面影も強い。


○近衞文麿の戦犯指定
マッカーサーから新憲法の作成を指示された近衞。これも実際にあったことだ。
しかし、アメリカお得意の手のひら返しによってこれは無かったことにされた。
マッカーサーから直々に憲法作成を指示され、意気込んでいた近衞だが、有頂天から奈落の底へ突き落される。
なぜ、アメリカが手のひらを返したのか。
これはアメリカ国内で近衞に対する批判が高まったことが原因とされる。
十月二十九日にニューヨークタイムズは近衞批判記事が掲載され、日本でも朝日新聞と毎日新聞がこれを掲載した。
また、11月5日にはGHQの対敵情報部調査分析課長だったE.H.ノーマンがアチソン政治顧問に近衞を弾劾する「覚書」を提出し、十日後に近衞の戦犯指定が決定される。
この覚書の提出について、終戦当時内大臣だった木戸幸一による策略という説がある。
木戸は近衞と同じ公家の仲間で古くから親交があった。第一次近衛内閣のときには初代厚生大臣として入閣もしている。
戦後、近衞は天皇の退位論を主張する。敗戦の責任をとって、退位し法王になって京都へお戻りいただくのが良いというのだ。近衞にしか主張できない大胆な意見だ。
しかし、そうなれば、内大臣である木戸に責任が及ぶ。そこで木戸は姪婿の都留重人とハーバード大学で親友だったE.H.ノーマンに近衞を弾劾した覚書を作成させたというのだ。
確定的な証拠は発見されていないが、この覚書の中で近衞については「かれは、弱く、動揺する、結局は卑劣な性格」「淫蕩なくせに陰気」などとほとんど罵詈雑言なのにくらべ、木戸幸一については「頭脳のすぐれた人物」「素直で断乎とした資質」「果断で鋭敏な人物であり、かつて友人であった近衞とは対照的」などと美辞麗句で埋め尽くされている。
近衞と木戸とのあまりの対照的な書きぶりはやはりどこか臭うところがある。
また、ノーマンは共産主義者(共産党に入党しており、ソ連のスパイだったという説もある)であり、近衞上奏文に見られるように共産主義を敵視する近衞に憎悪を抱いていたという見方もある。
いづれにしても、政治的な力が働いたことにより近衞が戦犯指定されたことは確かなようである。


○近衞文麿の自殺
ドラマでは近衞の自殺について、間接的に表現されている。よく観ていないと近衞が病死したようにも取れる。
戦犯に指定された近衞に吉田は言う。
「入院のお支度ができました。そうなれば訴追もしばらく猶予されます。その間に戦犯訴追の取り消しを・・・」
近衞はこの提案を拒否する。
「もういい。入院するということは逃げるということだ。逃げるということは戦争責任を認めるということだ。私はヒトラーではない。東条でもない。私は・・・これもまた運命か」
咳き込む近衞。吉田は近衞の背中をさする。
「もう、ここには来るな。君まで戦犯の容疑がかかるぞ。」
「申し訳ありません。何もお力になれませんでした。」
「君はそれでいい。君は政治家なんだ。僕はね、君が羨ましい。好きなことをして好きなことを言って、実に自由だ。出来ることなら君のような人間になりたかった。僕よりも君はもっと良い総理になっただろう。いや、そうだ、君がいつか総理になればいい。総理になって日本国を立て直してくれ。」
吉田の近衞の友情が美しい。感動的なシーンだ。
荻外荘(近衞の住居)を後にするとき、吉田は千代子夫人に言う。
「・・・ピストルや毒薬のようなものをお持ちでないか。どうかそのようなことにならぬように十分御注意を」
千代子夫人は答える。
「吉田さん、私はあの方が何をなされようと止めるつもりはございません。あの人が望むのならば、私はその望みが無事に遂げられるのを願うのみです。誰が何を申しましょうと、あの人は一国の総理になった人物です。なぜ逆らえましょうか。」
次のシーンで近衞は千代子夫人に背中を拭いてもらっている。先日見た寄席の話をしたあとに「・・・筆と紙はありますか?」
画面は代わり、沈痛な面持ちの吉田のもとに芦田均がやってくる。「五十五歳・・・若すぎる!どうして助けて差し上げられなかったのです!?見殺しではありませんか」
「そうだ、私が殺した・・・」と悲しそうに吉田は言う。

ここまでのシーンは事実と創作が複雑に折り重なっていてる。史実はどうだったかやや長くなるが書いておこう。
まづ、近衞に入院を提案したのは主治医や後藤隆之助、山本有三、富田健治など近衞に近しい人たち。
この中に吉田の名前は確認できない。むしろ、吉田の部下であった外務省の中村豊一公使は巣鴨に入所する前日、病気であってもなんであっても巣鴨プリズンに来てくださいと近衞を説得した。
その時、近衞は「猶予のことは、やめましょう」と入院案を取り下げて、山本有三が「ではどうする・・・」と問うと「裁判を拒否するつもりだ」と答えてる。
次に近衞が吉田に言った「君が羨ましい」という言葉。これは史実では弟の秀麿に言ったとされる。
近衞文麿の実の母は文麿の生後間もなく産褥熱で亡くなっており、秀麿とは異母兄弟になる。秀麿は音楽家で嘗て東京音楽学校の改革を構想し、そのことが原因で兄と衝突し不仲になっていた。終戦、ドイツのベルリンにいたが、アメリカ軍に捕えられ、偶然、文麿に逮捕令が発せられた日、帰国していた。文麿と十二月の十二日か十三日に逢い、その時「今になってみると、お前が羨ましいよ」と兄はしみじみと言ったと回想している。(註7)
おそらくこの言葉がドラマでは吉田茂に言ったことになっているのだろう。
あの感動的なシーンはほとんどドラマの創作とみていいだろう。少し残念な気がするが。(註8)
さて、千代子夫人が言った「あの人が望むのならば、私はその望みが無事に遂げられるのを願うのみです。」という言葉。
この言葉はドラマとは違ったシチュエーションで発せられている。
近衞が服毒自殺する直前、秀麿、通隆(文麿の次男)、昭子は自殺に使えそうなものを探しまわった。ただ一人、千代子夫人はそれに加わらず、「あなたたちは探したらいいでしょう。でも私はお考えの通りになさるのがいいと思うから、探しません」といい、秀麿たちを慄然とさせた。
最後に、近衞が自殺する直前に「筆と紙」を用意させたのも千代子夫人ではなく実際は次男の通隆だった。
通隆が何か書いて欲しいと促すと、近衞は「僕の心境を書こうか」といい、筆と紙を求めたが、近くに筆がなかったので鉛筆と紙を渡すと「もっといい紙はないか」と言われたので通隆は近衞家の用箋を渡した。
近衞は床の中に寝たまま硯箱の蓋を下敷きにして鉛筆で心境を書きつづった。このとき書かれた文章が実質的に近衞の遺書になる。
ここに引用しておこう。

「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、所謂戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受ける事は堪へ難い事である。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そして、此解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思ふ。しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへそこに多少の知己が在することを確信する。戦争に伴う昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に本づく流言蜚語と是等一切の所謂興論なるものも、いつか冷静を取り戻し、正常に復する時も来よう。是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう。」(註9)

死の直前にこのような文章がすらすら書けることにまず驚かされるが、文面をみるに彼は戦争終結に努力した自分が戦犯として裁かれることを受け入れることが出来なかったのだろう。
実際、近衞は「戦争前には軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとのゝしられ、戦争が終われば戦争犯罪者だと指弾される。僕は運命の子だ」と旧知の新聞記者につぶやいている。(註10)
しかし、近衞はなぜ死を選ばなければなかなかったのか。
これも本人の言によると「自分が罪に問われている主たる理由は、日支事変にあると思うが、日支事変で責任の帰着点を追求して行けば、政治がとしての近衞の責任は軽くなり、結局統帥権の問題になる。従って、究極は陛下の責任ということになるので、自分は法廷に立って所信を述べるわけにはゆかない」(註11)ということになる。
つまり、天皇をお守りするために自ら死を選んだともいえる。そういえば、近衞を評価しすぎであろうか。
 

○マッカーサーの描かれ方
第1回を見る限り、マッカーサーは尊大で傲岸不遜な人物として描かれている。日本のドラマにおいて、マックをここまで嫌な奴として描く作品は珍しいかもしれない。私の印象では、これまでマックは好意的に描かれることが多かったように思う。
これは我が国が戦後レジュームから脱却しつつある傾向と見て良いのだろうか。
が、実際の吉田のマックの印象は決して悪いものではなく、自著『世界と日本』(中公文庫)の中で「物わかりよく呑みこみも早い人」と評価し、「占領の恩人」とまで言っている。 
もっとも、吉田は腹芸が得意な人物であったのでどこまで本音を述べているかは議論の余地があろう。吉田のマッッカーサー観の検討は次回以降に譲りたい。


○俳優の配役について
最後に配役について個人的な感想を。
吉田茂役に渡辺謙を起用したことには賛否があるようだが、私はだんだん彼が吉田茂に見えてきたので決してミスキャストではなかったと思う。むしろ、しっくりきている。
ミスキャストだと思うのは近衞文麿役の野村萬斎で、品の良さは近衞を彷彿とさせるが、話しぶりとキャラクターは実際の彼とは乖離している。これはむしろ演じ方の問題であろう。野村のミスなのか演出家のミスなのかは不明だが、近衞はあのように声を張り上げで話す人物ではない。もっと鼻から抜けたような声で静かに話すタイプだった。
ちなみに、ドラマでマッカーサーと並んだ時、身長差があったが、実際の近衞の身長は180cmあり、マッカーサーとほぼ同じであった。
芦田均に篠井英介をもってきたことも良かったと思う。顔は似ていないが、雰囲気が私の想像する芦田に近い。篠井さんは今年で五十三歳だという。若い。


以上、『負けて、勝つ~戦後を創った男・吉田茂~』第一回について、史実との違いを検討しながら感想を添えた。冒頭でも述べたように、史実と異なる点を指弾する意図は固よりない。ドラマをより楽しんでいただける材料になれば幸いである。


**************************************
(註1)例えば、保阪正康・広瀬順皓『昭和史の一級資料を読む』(平凡社新書)251頁。
(註2)矢部貞治『近衞文麿 下』(弘文堂)543-544頁
(註3)公家(華族)にもランクがあり、もっとも高貴な家は五摂家と謂われ、その筆頭が近衞家だった。つまり、日本において、皇室に次いで高貴な家柄となる。近衞家と皇室はいわば親戚のようなもので、近衞は首相時代、昭和天皇に拝謁するとき、椅子に腰かけさらに脚を組んで天皇と話をしたという。それまでの総理大臣は椅子を用意されていても坐る事もなく、立ったまま上奏していた。宮中の人間からは「近衞公が拝謁したときは椅子が温かい」と言われたいたという。
(註4)中華人民共和国(中共)ではないことに注意。中共はこのときまだ成立していない。 中華民国はいまの台湾で、日本が戦争を戦った相手は正確には今の中共ではなくて、台湾を統治している中華民国政府(蒋介石)とであった。
(註5)東久邇宮の演説文はこのあと「征戦四年、忠勇なる陸海の精強は、酷寒を凌ぎ、炎熱を冒し、つぶさに辛酸をなめて、勇戦敢闘し、官吏は寝食を忘れて、その職務に尽瘁し、銃後国民は協心尽力、一意戦力増強の職域に挺身し、挙国一体、皇国は、その総力を戦争目的の完遂に傾けて参つた。もとよりその方法に於て過を犯し、適切を欠いたものも尠しとせず、その努力において、悉く適当であつたと謂ひ得ざりし面もあつた。然しながら、あらゆる困苦欠乏に耐へて参つた一億国民の敢闘の意力、この尽忠の精神力こそは、敗れたりとはいへ、永く記憶せらるべき民族の底力である。」と続くことから、やはり連合軍に対する謝罪の意味は薄いと思われる。
(註6)内大臣の官命は大宝律令以前からあり、朝廷の政務、儀式などを仕切っていた。明治四十年施行の「内大臣府官制」では「内大臣府に於いては、御璽国璽を尚蔵し及証書勅書其の他内廷の文書に関する事務を掌る」と第一条に定められている。いわば、天皇に代わって印鑑を保持しておく仕事を担っていた。当初は権限の低い官職であったが、元老の減少・消滅とともに後継総理の奏薦などで次第に強い発言力を持つようになり、木戸幸一の時代には天皇を常時輔弼(つまり秘書役)する役割を担っていた。
(註7)岡義武『近衞文麿 「運命」の政治家』(岩波新書)230頁
(註8)戦犯指定後の近衞と吉田がどのような接触を持ったかは、私の知り得る限りではよくわからない。ただ、十年以上前に日本テレビで放映されたあるドキュメンタリー番組で、吉田茂は天ぷら屋で近衞に戦犯指定を告げたとする再現VTRが放映されたことがあった。以来、私はそれを事実として信じていたのだが、このエピソードを紹介する文献に出会ったことがない。捏造とも思えない作りだったのだが、真相を知りたいものだ。
(註9)岡義武、前掲書233頁
(註10)旧知の新聞記者とは毎日新聞の伊東治正記者。近衞のつぶやきは昭和二十年十二月十七日付「毎日新聞」の伊東の記事による。
(註11)有馬頼義『宰相近衞文麿の生涯』(講談社)13頁。この近衞の言葉は死の直前に友人の後藤隆之助に語ったもの。