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あび卯月☆ぶろぐ

あび卯月のブログです。政治ネタ多し。
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報道ステーションは「報道」番組か

2006-07-26 22:43:21 | マスコミ・新聞
先程、報道ステーションである事件を報道していたのですが、
その報道の仕方が

・兵庫県沖で操業していた漁船が空に戦闘機を発見した。
・その後に、ミサイルのようなものが降ってきて海に水柱が上がった。
・漁船の乗組員は「すわテポドンか」と思い、緊急に非難した。

というところまでを思わせぶりに報道して、
その「ミサイルのようなもの」の正体は明かさぬまま、
漁民や関係者の証言を流しつづけていました。
視聴者はその「ミサイル」の正体がわからぬまま、
だらだら証言等を聞かされるわけです。

結局、その「ミサイルのようなもの」は自衛隊の演習用のフレアだったのですが、
それはさておき、
なぜ、このような回りくどい報道の仕方をするのか。
バラエティー番組のように種明かしをじらす理由が理解出来ません。

報道番組とは「事実を迅速に正確に伝えるもの」であるとするならば、
報道ステーションは到底「報道番組」たり得ません。
せいぜい悪質なバラエティー番組です。
無論、私は報道ステーションやニュース23の類を初めから「報道番組」などと思ってはいませんが、
それにしても最近の報道番組の劣悪さは目に余るものがあります。

余計な演出、解説、感想を述べず、事実だけを正確に迅速に伝える番組はないものでありましょうか。

朝日ハ勅語ヲ以テ弾丸ニ代ヘ政敵ヲ倒サントスルモノナリ

2006-07-21 21:38:19 | マスコミ・新聞
朝日新聞、社説に二面性…皇室の発言に対し

朝日新聞が皇室に対する二面性を露呈している。

 同紙は21日付の社説で「A級戦犯合祀(ごうし) 昭和天皇の重い言葉」として、昭和天皇が靖国神社へのA級戦犯合祀に不快感を示されていたことについて、「賢明な判断だったと思う。中国などが合祀を問題にする前の主体的な判断だったことを重く受け止めたい」などと評価。「だれもがこぞって戦争の犠牲になった人たちを悼むことができる場所が必要だろう」と訴えた。

 ところが、2月2日付の社説では、「寛仁さま 発言はもう控えては」として、寛仁親王殿下が女性・女系天皇に異議を唱えられたことに対し、「憲法上、天皇は国政にかかわれない。皇位継承資格を持つ皇族も同じだ」「発言が政治的に利用される恐れがある」「発言を控えては」などと、言論封殺まがいの苦言を呈しているのだ。

 同じ新聞の社説で、これだけ主張に差があるとは驚くしかない。皇室を政治的に利用しているのは一体誰なのか。

http://www.zakzak.co.jp/top/2006_07/t2006072126.html


私が昨日書いたことを代弁してくれるかのごとき記事でしたので転載いたしました。
まさにこの記事あるように一方で「皇室を政治利用するな」と言い、一方で自ら進んで皇室を政治利用しています。
朝日新聞の主張は筋が通っていないと思う所以です。

嘗て憲政の神様とうたわれた尾崎行雄が云ったことは今の時代にも通じます。
一九一三年の第一次護憲運動の際、尾崎行雄は第三次桂内閣を評して、

「彼等ハ 玉座ヲ以テ胸壁トナシ 詔勅ヲ以テ弾丸ニ代ヘテ政敵ヲ倒サントスルモノデハナイカ」

と演説しました。
この演説は要するに天皇を政治利用している桂内閣を痛烈に批判したものですが、
平成の今となっても状況は変わっていないようです。
ただ、天皇を利用する者が政府ではなくマスコミになったという点でより悪化しているのかもしれません。

ところで、國學院大學の大原康男教授が述べたように
「メモはメモであり、そのまま肉声かどうか分からない」わけですし、
且つ、メモの真贋がはっきりしない以上、
ここで陛下のお言葉の真意について論う気はありません。

よって、私が申しあげたい事は皇室を政治利用する愚と、
朝日新聞をはじめとした反日メディアの主張は欺瞞である、
ということに尽きます。

産経新聞よ、お前もか

2006-06-13 00:12:49 | マスコミ・新聞
久々に産経新聞を読んで驚きました。

私は自宅で講読している読売新聞以外は学校の図書館で新聞を読んでいるのですが、
五月三十日附産経新聞の一面に以下のごとくありました。


「2日から洋数字表記になります」
産経新聞は6月2日付紙面から記事中の数字表記は洋数字を原則とします。
 デジタル時代となり、洋数字表記が一般化してきたことに加え、記事の簡素化、数字データをより読み取りやすくする――などのためです。
 ただし、「三寒四温」や「七転八倒」「歌舞伎十八番」など、熟語や伝統的な擁護に含まれる数字をはじめ、洋数字表記になじまないものはこれまで通り漢数字表記とします。



昨今、どの新聞も紙面の数字表記は洋数字(算用数字)ですが、
産経新聞は頑なに漢数字表記を守っていました。
「さすが自称保守というだけはある」と、この点、評価していたのですが、
とうとう、産経新聞も洋数字表記になるそうです。
もとい、「なるそう」ではなく実際にそうなっていました。

保守はいくら頑迷といわれようと固陋といわれようとも
それまでの慣わしを守ってゆくのが保守なのであって、
合理性・利便性を優先してそれまでの行いを変えるなど到底、保守とは言えない所業です。
もちろん、古いもの、昔のものやその行いを何でも残せと言っているわけではありません。
それこそ、「固陋」でありましょう。
時代の流れによって変化せざるを得ないものはあります。

しかしながら、漢数字表記は今の時代にあっても続けていただきたかった。
これを洋数字表記に変えることでどれだけ利便性が増すのか、
私は新聞関係者ではないのでわかりませんが、
なんでも合理性・利便性を優先してしまえば
我々の生活は味やそっけも無いものになってしまう。

そもそも文化的な行いなど合理的な面から考えればほとんど意味のない行為です。
高島俊男さんによると文化の「文」とは「紋」と同じで
「紋」とは着物のひらしひらした余計な飾り。
合理面だけ考えれば衣服など、ただ、暑さ寒さしのげる作りにすればよいのですが、
人間はそれだけではそっけないと思う。
そこで、服にいろいろな飾り(=紋)をつける。
これこそが文化なのですね。

産経新聞はそこのところを一応は理解して、
頑なに漢数字表記を守っているのだと思っておりました。
そんなわけで、今回の件は「産経よ、お前もか」と思った次第。
結局、朝日だろうが産経だろうが同じ穴の狢。
革新だの保守だのというのも、文化の飾りならぬ、
「言葉の飾り」なのでありましょう。

メディアは無くならない

2005-11-25 00:54:33 | マスコミ・新聞
23日にニュース23で「ネット時代のジャーナリズムを考える」と題して
ネット(主にブログ)とジャーナリズムとメディアの在り方について論議がなされていた。

(註:以下の文中で使われる「メディア」とは新聞やテレビなどの情報媒体、即ち狭い意味での「マスコミ」と定義しておく。)

その中で鳥越俊太郎が「ブログはナショナリズムに使われやすい。」と言っていた。
果たしてそれが本当だとしても、メディアの大勢がおよそ反ナショナリズム的であるからバランスがとれて良いではないかと思う。

それはさておき、筑紫哲也は某IT社長が「ネットがあるからメディア(マスコミ)は必要なくなる。」
という旨の発言を紹介しその言説を危惧していた。
しかし、筑紫さん安心されたし。メディアは決して無くならない。

一部の知的に怠惰な手合は「ネットとテレビの融合」なる幻想を喧伝しているが、
現代の日本において政治とマスコミが融合しないことと同じく
ネットとテレビメディアが融合することはありえない。
そもそも、ネットはメディアたり得ないし、メディアはネットたり得ない。
ジャーナリズムもメディアもネットも役割の棲み分けが出来ているからだ。
すこし概説すると、
ジャーナリズムはあらゆる事象(事件)の価値を判別し、記事にする。
メディアはさらにその記事を選択し、報道し、かつ、論説や解説を加える。
ネットはメディアの報道や論説・解説に対し個人的な立場から意見や評価を下す。
ネットがいくら擡頭したところでジャーナリズムやメディアが無くなる道理は無い。

また、ネットの現状を見ても明らかなようにネットは常にメディアに批判的であるし、
言い換えれば、ネットは第四の権力と云われるメディアを監視する役割を果たしているし、今後もそうあるべきだと思う。
考えられないことだが、仮にネットがメディアと馴れ合うようなことになれば、
それは、ネットの怠惰に他ならない。
翻って、鳥越氏のようにブログの擡頭は「ナショナリズムの擡頭」などと云うことは、
取りも直さず、“メディアの怠惰”であるということを心得るべきである。