すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

マンドリン・ギター・バイオリン

2021-03-25 19:16:12 | 音楽の楽しみー楽器を弾く

 二か月ぶりにマンドリンを取り上げてみる気になったのは、先日触れた辻まことのおかげだ。
 彼はギターの名手で、行きつけのあちこちの酒場で弾き語りをしたのだそうだ。ある程度お酒が入って興が乗ったところで彼がギターを手にするのをお客も楽しみにしていて、がやがやした雰囲気の中で歌い出しても途中からシンと聴き惚れていたという。
 いいなあ、と思った。マンドリンはピックで弾くからスリーフィンガーとかできないし、主にメロディーを弾く楽器だから弾き語りには向いていない。コード奏法も、とくにアメリカ音楽のマンドリンは、できないわけじゃないけど、ギターほどの歌とのしっくり感は、たとえ名手であっても望めない。
 それに、ぼくの場合は弾き語りといっても、単純にコードをじゃんじゃんと弾くか歌と一緒にメロディーを弾くかしかできない(もっとも、同じく旋律楽器のドムラでも、むかし自分でコードの押え方を考えて、そんな稚拙な弾き語りをしていたけどね)。
 だから自分でもやりたい、という話ではない。ただ、そういう場に居合わせて、楽器を弾くのじゃなくてみんなと一緒に歌えれば良いなあ、と思うのだ。
 霧ヶ峰のクヌルプヒュッテに泊まったら、サロンの長椅子の後ろの隅っこに年季の入ったギターが二本置いてあった。若主人に「弾くのですか」と訊いたら、「いいえ、自分がまだ子供の頃、父の山の仲間たちが集まって歌っていたのですよ」と言っていた。
 9月初めに北アルプスの大日小屋に泊まったら、夕食後ランプの灯りの下でスタッフがギターのミニコンサートをしてくれた。常念小屋では8月下旬、たまたまその日は年に一度の小屋祭りだとかで、音大のフルート専攻の学生と卒業生たちによるコンサートがあった。どちらもとても幸せな気分になったのだが、山小屋で仲間たちが歌を歌う、というのはまた特別な楽しみだろう。今でもそういうことをしている小屋はないだろうか。
 そうだ、コロナが収束したら、とりあえず何人か誘ってクヌルプヒュッテに泊まりに行こう。楽器は無くても、山の歌やフォークを歌うだけでも良い。

 話が変わるがついでに、立原道造に、忘れられていた弦楽器を鳴らしてみるという詩があるのを思い出したので、下に引いておく。この詩の楽器は「弓」と書いてあるからバイオリンだろうが、イメージとしては膝に乗せて弾く竪琴でも良いように思う。

    民謡
            ―—エリザのために
弦(いと)は張られてゐるが もう
誰もがそれから調べを引き出さない
指を触れると 老いたかなしみが
しづかに帰つて来た・・小さな歌の器

或る日 甘い歌がやどつたその思ひ出に
人はときをりこれを手にとりあげる
弓が誘ふかろい響き—―それは奏でた
(おお ながいとほいながれるとき)

――昔むかし野ばらが咲いてゐた
野鳩が啼いてゐた・・あの頃・・
さうしてその歌が人の心にやすむと

時あつて やさしい調べが目をさます
指を組みあはす 古びた唄のなかに
――水車よ 小川よ おまへは美しかつた

 註:「エリザ」は「エリーザベト」の略。テオドール・シュトルムの中編小説「みずうみ」の主人公の幼なじみの名。立原は一時期、自分の想い人をこの名で呼んでいた。

 

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