すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

「幻の家」

2020-11-25 13:22:39 | 

   幻の家
                   清岡卓行
 夢の中でだけ ときたま思い出す
 二十年も前に建てた小さく明るい家。
 戦争のあとの焼野原の雑草の片隅に
 建ててそのまま忘れた ささやかな幸福。

 いや そんなものは現実にはなかった。
 途方もなく愚かな若者が そのころ
 妊娠している幼い妻と二人で住むために
 どんなに独立の巣に焦がれていたとしても。

 そんな架空の住居が どうして今さら
 自宅に眠るぼくの胸をときめかせるのだろう
 貧しい青春への郷愁を掻き立てるように?

 夢の中でその家は いつまでも畳が青く
 垣根には燕 庭には連翹の花
 ああ 誰からも気づかれずに立っている。 

 先日アンソロジーを買ったもう一人の詩人、清岡卓行の詩。これは数年前に同じ古本屋で見つけた旺文社の参考書「現代詩の解釈と鑑賞辞典」にも載っていた。
 何の説明も加えないほうがいいと思うが、よく見る夢に関することなので少しだけ書いてみたい。
 彼はかつて住んだ懐かしい家を夢の中で思い出している…のかとおもったら、そうではない。現実には存在しなかった家なのだ。
 その「鑑賞辞典」をランダムに拾い読みしていて、この清岡卓行の詩に出会った時には衝撃を受けた。「ぼくと同じに、住んだことのない家の夢を見る人がいた!」 
 ぼくも、実際には住んだことのない家の夢を、自分のかつて住んだ家として、あるいは今(夢の中で)住んでいる家として、見ることがしばしばある(この詩と関係ないので、詳しくは書かない)。
 だが、あとで気が付いた。ぼくの夢と清岡卓行の夢は似ているようでいて中身が全然違う。
 清岡は、詩人としてよりも小説家としてのほうが知名度は高いだろう。「アカシヤの大連」という、芥川賞受賞作品をご存じの方は多いかもしれない。彼は昭和22年に結婚し、43年に妻を亡くし、45年に「アカシヤの大連」と、この詩を含む詩集「ひとつの愛」を出版している。妻との愛は、彼の作品の大きなテーマだ。
 彼の夢には、若く困難はあったが妻との幸福な思い出と、その妻を亡くした喪失感が、というより、妻を亡くした喪失感と、にもかかわらず幸福な思い出とが、ともに現れている。夢の中の家は幻だが、築いた家庭は現実なのだ。彼の「貧しい青春への郷愁」には中身がある。だから「畳は青く」、「垣根には燕」が飛んで、「庭には連翹」が黄色く咲いている。その夢の中には具体がある。そしてその家が「誰からも気づかれずに」立っているのは、それが彼と妻との二人だけが分かち合った生活だからだ。
 ぼくの夢の中の家は一体なんだろう? 
 それは、この詩とは別に書いたほうが良さそうだ。

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