すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

参ったなあ

2019-09-22 21:38:02 | 偏屈老人申す
 ぼくはもう七周目に入ったわけだし(あと三年で「後期高齢者」!)、体力は年々それなりに衰えている。もともと怠惰な性格なのがますます昂じてきて、夏の暑い日々はベッドに横になって本を読んでいる時間が長かった。やりたいと思っていること、やらねばならないこと、のほんの一部しかできていない…(一部しかできていない、ということは、本気で・どうしても・やりたいと思っているのではないわけだが…)
 でもまあ、同じ年代の男性たちの中では、(たぶん)歩くのははかなり速い方だし、姿勢も良い方だろう。大病もしていないし、慢性の疾患も持っていない。くよくよすることはいっぱいあっても、精神的に落ち込んだ状態が長く続く、というわけでもない。
 健康を気遣っていただいたり、精神状態を気遣っていただいたりするには及ばない。明日のことはわからないものではあるが、たぶんまだしばらくの間は大丈夫だろう。
 電話で、あるいは久しぶりに会って、話をするときに、自分が本当に肉体的あるいは精神的に衰弱していたとしたら、ぼくは相手に「衰弱しています」などと言わない。
 人に「最近どうしていますか? お元気ですか?」とか訊かれたら、「いやあ、何とか生きていますよ。ハハハ」とか答えることはある。これって、誤解を招く言いかただろうか?(まさかね。)
 「何とか生きている」というのは、瀕死で、とか、大病で苦しみながら、とかいう意味ではない(こんなこと言わずもがなだが)。年相応にくたびれています、という意味だ。ハハハという方や、あるいは話す口調の方が端的に状況を告げている、ということはいくらでもある。
 …これに対して、文章の方は、ぼくはいくらでも、へこんでいる・メゲている・落ち込んでいる、と書くことはあるだろう。それは、そう書きながらぼくが状況を何とか乗り越えようと・改善しようと試みる、やり方のひとつなのだ。それはぼくの性格なのであって、良くも悪くもないし、やむを得ない(だから、気にせんでくだされ)。
 夏の盛りには「血を吐くやうな 倦うさ たゆけさ」なんて思ったり、秋になったらなったで「この秋はなんで年よる雲に鳥」なんてつぶやいたりもする。
 人は、くよくよしながらも、あえぎながらも、前に進もうとすることができる。気を取り直すことができる。
 苦悩があるから光が見える、ということだってある。
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