すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

「山」

2020-09-07 15:56:33 | 
海は今日も荒れている。

 東の岬の岩礁から陽が昇る前。湾は西の町まで数十キロの砂浜が続き、廃油色の海は人影のない、犬一匹いない浜に噛み付き、呑み尽くそうとする意志のように吼えながら押し寄せてくる。町の手前に工場群の煙突が黒煙を吐いている。煙は海になびき、湾全体を古い単色の銅版画に刷り上げている。

  工場へ向かうバスの窓から、南に開けた平野の果てに雪を冠った山々が見える。その山々の向こうは果てしない砂漠が続く。真南の方角、山並みが一箇所だけ低くなったあたり、いつも灰色の雲の詰まった鞍部のはるか彼方に、まれに、さらに高い孤峰が見えることがある。山は雲か砂塵にまぎれて幻のように小さく遠く、しかし厳しくまっすぐな線を引いて白く尖っている。

 その山は夜明けにしか見えない。冬の初めにこの町へ来て以来、作業が終わって宿舎へ戻るバスが海岸通りを曲がるときも、たまの休みに町へ遊びに出かけるときにも見えたことがない。機械油にまみれた一日の労働が始まる前、しかも海が荒れ騒ぐ朝にだけ、その海と呼びあうかのように姿を見せることがあるのだ。

 地図で探してみてもその方角にそれらしい山は見つからない。ただ、この町からはるかに南に行ったところには古代の遺跡がある。黄ばんだ一枚の写真を見たことがある。ぼくがこの町に流れてきたのは、その写真のせいかもしれない。今はもう涸れてしまったオアシスの傍ら、丘の上に、折れた円柱や崩れ残った闘技場の壁が砂の嵐にさらされている。

 ある日ぼくはもう仕事に行かないだろう。工員仲間たちはリュックサックを背負った僕の後ろ姿をバスの窓から見つけて驚くだろう。僕は雲に隠れたあの幻の山をさがしに行くのだ。兵器工場のある町を離れ、滅び去った神殿の陰で眠り、さらに南へ、砂の海の中へ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「音楽」 | トップ | 「神殿の傍らで」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事