一昨日書き始めたことについて、補足や敷衍したいことがいっぱいあるが、とりあえず、すこし別の面から考えてみよう。
魂が、仮にあるとして、それは永続するものかどうか? それは、輪廻転生を繰り返すものかどうか?
以前にぼくは、夢に関連して、人は前世の記憶を持つことがあるか? 夢は前世の記憶でありうるか? という疑問にふれたことがあった(19/03/13「夢の土地・夢の家」)。だがその時は、疑問を提出したままにしておいた。
「輪廻転生がある」と信じている人、「自分は誰それの(例えば天草四郎の)生まれ変わりだ」とか信じている人、あるいは、「次の世でも必ずあなたと出会って添い遂げたい」と思っている人…は、それこそいっぱいいることだろう。だけど、その人たちの視野に入っているのは、たかが前世か来世か、せいぜい500年とか1000年とかの期間に過ぎない。また、そう思うのが心地良いからそう思っているのに過ぎないかもしれない。
しかし、魂が永遠に転生を繰り返すのであれば、本当はそれはその人の思っている期間を越えて永遠に過去に、あるいは未来に、続いているはずだ。するとどうなる? そこで、必ずしも心地良くはないかもしれない事実に思い至る。
天草四郎の前はあなたはどうだった? その前は、さらにその前は? と辿っていくと、古代を越え、原始時代を越えて、人類の誕生をも超えて、進化の系統樹をさかのぼらなければならない。類人猿に達し、さらには両生類や魚類に達し、三葉虫やアメーバーに達し、ついには最初の生物、(若き賢治が心酔していたと思われる)ヘッケル博士の言うところの「モネラ」に達する。アメーバーには魂はあるか? モネラには魂はあるか? あなたの魂はそこにいたのか?
あるいは、生命が生まれた瞬間に原初の魂も生まれ、生命の進化とともに進化してきたのか? これなら、アメーバーにも魂があることになる。あなたの今の魂は、もともとは原初的な魂であったことになる。しかもそれは、始まりのある魂であって、すでに永遠の魂ではないではないか?
それとも、原初の生命が地球に生まれる前に、すでに魂は存在していたのか? その場合、魂はどこにいたのか? 地球外からやってきたのか? それでは、この宇宙が生まれる前は、魂はあったのか?
それとも、魂は進化の途中のある時点で、たとえば人類の生まれた時点で、発生したのか?
地球外からやってきたとしても、ある時点で発生したとしても、それはいったい何時なのか? その時点の前と後で、それ以前は魂がなくてそれ以降はあるのだから、生物ははっきり違う存在であるはずだ。その決定的時点は、たとえば人類の進化の時点の、どこなのか? 猿人(アウストラロピテクス)はどうか? ネアンデルタール人には魂がなくて、現生人類にはあるというのか?
この議論は、はなはだしくばかばかしいものに思われる。それに、ある時点までの生物は魂がなくて…というのは、生物種に差別を設けることになる。「魂のない生物は、恩寵にあずかることはない」という、歴史的にキリスト教が(一神教が)持っていた世界観につながる。この差別は、人間以外の生物の、自然の、支配、利用、収奪につながり、異教徒差別につながり、人種差別にさえつながっていく。
ぼくは、「すべての生き物は原初生命体から続く生命の進化の流れの中にあって、人類はその波頭のひとつであるにすぎない(個体発生は系統発生を繰り返す!)」という考え方の方に賛同したいと思う。
「魂はあるかないか?」という問いにぼくなりの仮説を考えるのはもっと先にしよう。でも、ぼくには、上記のことから、少なくとも過去世については、永続する魂、という概念は疑問に思われる。
ぼくは、「自分は花や木や鳥やけものと同じだ」と思う方が良い。彼らに魂がないなら、ぼくにもないだろう。彼らに魂があるなら、ぼくにもあるだろう。この場合、改めて、「魂」とは何のことを言っているのか、を考えなければならない。それももっと先のことになる。
(この稿続く)
魂が、仮にあるとして、それは永続するものかどうか? それは、輪廻転生を繰り返すものかどうか?
以前にぼくは、夢に関連して、人は前世の記憶を持つことがあるか? 夢は前世の記憶でありうるか? という疑問にふれたことがあった(19/03/13「夢の土地・夢の家」)。だがその時は、疑問を提出したままにしておいた。
「輪廻転生がある」と信じている人、「自分は誰それの(例えば天草四郎の)生まれ変わりだ」とか信じている人、あるいは、「次の世でも必ずあなたと出会って添い遂げたい」と思っている人…は、それこそいっぱいいることだろう。だけど、その人たちの視野に入っているのは、たかが前世か来世か、せいぜい500年とか1000年とかの期間に過ぎない。また、そう思うのが心地良いからそう思っているのに過ぎないかもしれない。
しかし、魂が永遠に転生を繰り返すのであれば、本当はそれはその人の思っている期間を越えて永遠に過去に、あるいは未来に、続いているはずだ。するとどうなる? そこで、必ずしも心地良くはないかもしれない事実に思い至る。
天草四郎の前はあなたはどうだった? その前は、さらにその前は? と辿っていくと、古代を越え、原始時代を越えて、人類の誕生をも超えて、進化の系統樹をさかのぼらなければならない。類人猿に達し、さらには両生類や魚類に達し、三葉虫やアメーバーに達し、ついには最初の生物、(若き賢治が心酔していたと思われる)ヘッケル博士の言うところの「モネラ」に達する。アメーバーには魂はあるか? モネラには魂はあるか? あなたの魂はそこにいたのか?
あるいは、生命が生まれた瞬間に原初の魂も生まれ、生命の進化とともに進化してきたのか? これなら、アメーバーにも魂があることになる。あなたの今の魂は、もともとは原初的な魂であったことになる。しかもそれは、始まりのある魂であって、すでに永遠の魂ではないではないか?
それとも、原初の生命が地球に生まれる前に、すでに魂は存在していたのか? その場合、魂はどこにいたのか? 地球外からやってきたのか? それでは、この宇宙が生まれる前は、魂はあったのか?
それとも、魂は進化の途中のある時点で、たとえば人類の生まれた時点で、発生したのか?
地球外からやってきたとしても、ある時点で発生したとしても、それはいったい何時なのか? その時点の前と後で、それ以前は魂がなくてそれ以降はあるのだから、生物ははっきり違う存在であるはずだ。その決定的時点は、たとえば人類の進化の時点の、どこなのか? 猿人(アウストラロピテクス)はどうか? ネアンデルタール人には魂がなくて、現生人類にはあるというのか?
この議論は、はなはだしくばかばかしいものに思われる。それに、ある時点までの生物は魂がなくて…というのは、生物種に差別を設けることになる。「魂のない生物は、恩寵にあずかることはない」という、歴史的にキリスト教が(一神教が)持っていた世界観につながる。この差別は、人間以外の生物の、自然の、支配、利用、収奪につながり、異教徒差別につながり、人種差別にさえつながっていく。
ぼくは、「すべての生き物は原初生命体から続く生命の進化の流れの中にあって、人類はその波頭のひとつであるにすぎない(個体発生は系統発生を繰り返す!)」という考え方の方に賛同したいと思う。
「魂はあるかないか?」という問いにぼくなりの仮説を考えるのはもっと先にしよう。でも、ぼくには、上記のことから、少なくとも過去世については、永続する魂、という概念は疑問に思われる。
ぼくは、「自分は花や木や鳥やけものと同じだ」と思う方が良い。彼らに魂がないなら、ぼくにもないだろう。彼らに魂があるなら、ぼくにもあるだろう。この場合、改めて、「魂」とは何のことを言っているのか、を考えなければならない。それももっと先のことになる。
(この稿続く)
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