魂について、未来方向に考えてみるのは、過去方向に比べて遥かに難しい。ぼくの手には負えないのではないかと恐れている。魂の永続性について考えるときに、過去方向では、地球生命の起原からこれまでの生命史を、検証されている事実として、手掛かりにすることができる。未来方向では検証ができない-これがひとつ。
ぼくは神の存在は仮説であるとしたが、排除はしていない-仮説である以上、立証はできないが、排除もできない。そうすると、死後の魂について、宗教の言っていることも、可能性としては考えなければならない-これがもうひとつ。
魂というものがあると仮定して、人が死んだ後、その魂は永遠に輪廻を繰り返すか? 途中で別の存在の仕方に変わるか? そもそも輪廻などしないか?
最初の問いには、たぶん、簡単に答えることができる-過去についてみてきたのと同じ理屈で。人類は、いつかはいなくなる。いなくなった後、あなたの魂は何に転生するか?「二億年後の地球」という本のイラストを見たことがある。そこには、環境の変化や放射能や様々な条件を乗り越えるために“進化”した、化け物のような生物たちが描かれていた。あれに転生するか? では、地球が滅んだあとは?
魂は永遠には転生を繰り返さないと、断言しても良いものと思う。
魂の在り方については、他に大きく分けて三つの可能性があるだろう。
その1は、魂が生命に宿るのは一回限りであって、繰り返さない、というもの。
その2は、魂が未来のある時点で転生をやめて、別の在り方に、別のステージに入る可能性がある、というもの。
その3は、繰り返しはあるが連続性はない、というもの。
1は一神教的考え方。
今の私のもとにある魂は、世界の終わりの時まで私の魂であり、世界の終わる時に裁きを受けて永遠の至福に入るか、永遠の劫罰に入る。
2は仏教的考え方。
わたしたちのいるこの世界は迷妄から生まれた苦の世界であって、私たちは苦の世界の中で転生を繰り返しているのだが、悟りによってそこから離脱できる。
3は、世界各地にあるが、ぼくたち日本人の伝統的感じ方に最も近いと思われる、アニミズム的考え方。
個々の魂というのはそういう個々の魂の集まった大きな集合体、魂の母体、の一部であって、それが個々の生き物に宿り、その生き物が死んだあとはまたその集合体に還る。
これらについてもう少し詳しく考えていきたいが、それにはぼくは相当の時間を必要とする。
先に、3に関連して簡単に触れておきたい。
このような考え方に立つ文学作品、エッセイ、論考は膨大な数に上るだろうが、そのひとつに、ぼくのお気に入りのものがある。少し横道にそれるが、紹介しておきたい。
池澤夏樹の、非常にあたたかでやさしい物語「キップをなくして」(角川文庫)だ。
主人公の少年イタルは、ある日ひとりで電車に乗り、切符を失くして駅から出られなくなり、そのような子供たちと東京駅で暮らすことになる。彼ら(「駅の子」と呼ばれる)には仕事がある。毎日、混みそうな駅に行って、電車通学の途中で迷ってしまった子供、ホームから落ちそうな子供、に手を貸してあげることだ。
駅の子たちは、仕事がなくなる夏休みを前に、線路に落ちて死んでしまったのにこの世界から離れられなくて彼らの仲間になっている少女ミンちゃんの運命をめぐって、(特別の)駅長さんと会うことになる。彼は、線路に落ちた子供を救おうとして殉職した人だ。
駅長さんは、死んだ者がどうなるのか、自分の考えを駅の子たちに話す。
「…別の世界に行く。現世から預かってきたものを返して、他のたくさんの魂と一緒になってしばらく暮らし、互いに混じり合う。やがて自分は自分だという気持ちが薄くなって、ぜんたいの中に溶け込んで、長い歳月の後、別の生命となってまた生まれ変わる。死ぬ前の自分のことはやがて忘れる。そういうことらしい」
この感じ方に、ぼくは大いに安らぎを覚える。だが、これについても、あとでもう少し考えることになるだろう。
(この稿続く)
ぼくは神の存在は仮説であるとしたが、排除はしていない-仮説である以上、立証はできないが、排除もできない。そうすると、死後の魂について、宗教の言っていることも、可能性としては考えなければならない-これがもうひとつ。
魂というものがあると仮定して、人が死んだ後、その魂は永遠に輪廻を繰り返すか? 途中で別の存在の仕方に変わるか? そもそも輪廻などしないか?
最初の問いには、たぶん、簡単に答えることができる-過去についてみてきたのと同じ理屈で。人類は、いつかはいなくなる。いなくなった後、あなたの魂は何に転生するか?「二億年後の地球」という本のイラストを見たことがある。そこには、環境の変化や放射能や様々な条件を乗り越えるために“進化”した、化け物のような生物たちが描かれていた。あれに転生するか? では、地球が滅んだあとは?
魂は永遠には転生を繰り返さないと、断言しても良いものと思う。
魂の在り方については、他に大きく分けて三つの可能性があるだろう。
その1は、魂が生命に宿るのは一回限りであって、繰り返さない、というもの。
その2は、魂が未来のある時点で転生をやめて、別の在り方に、別のステージに入る可能性がある、というもの。
その3は、繰り返しはあるが連続性はない、というもの。
1は一神教的考え方。
今の私のもとにある魂は、世界の終わりの時まで私の魂であり、世界の終わる時に裁きを受けて永遠の至福に入るか、永遠の劫罰に入る。
2は仏教的考え方。
わたしたちのいるこの世界は迷妄から生まれた苦の世界であって、私たちは苦の世界の中で転生を繰り返しているのだが、悟りによってそこから離脱できる。
3は、世界各地にあるが、ぼくたち日本人の伝統的感じ方に最も近いと思われる、アニミズム的考え方。
個々の魂というのはそういう個々の魂の集まった大きな集合体、魂の母体、の一部であって、それが個々の生き物に宿り、その生き物が死んだあとはまたその集合体に還る。
これらについてもう少し詳しく考えていきたいが、それにはぼくは相当の時間を必要とする。
先に、3に関連して簡単に触れておきたい。
このような考え方に立つ文学作品、エッセイ、論考は膨大な数に上るだろうが、そのひとつに、ぼくのお気に入りのものがある。少し横道にそれるが、紹介しておきたい。
池澤夏樹の、非常にあたたかでやさしい物語「キップをなくして」(角川文庫)だ。
主人公の少年イタルは、ある日ひとりで電車に乗り、切符を失くして駅から出られなくなり、そのような子供たちと東京駅で暮らすことになる。彼ら(「駅の子」と呼ばれる)には仕事がある。毎日、混みそうな駅に行って、電車通学の途中で迷ってしまった子供、ホームから落ちそうな子供、に手を貸してあげることだ。
駅の子たちは、仕事がなくなる夏休みを前に、線路に落ちて死んでしまったのにこの世界から離れられなくて彼らの仲間になっている少女ミンちゃんの運命をめぐって、(特別の)駅長さんと会うことになる。彼は、線路に落ちた子供を救おうとして殉職した人だ。
駅長さんは、死んだ者がどうなるのか、自分の考えを駅の子たちに話す。
「…別の世界に行く。現世から預かってきたものを返して、他のたくさんの魂と一緒になってしばらく暮らし、互いに混じり合う。やがて自分は自分だという気持ちが薄くなって、ぜんたいの中に溶け込んで、長い歳月の後、別の生命となってまた生まれ変わる。死ぬ前の自分のことはやがて忘れる。そういうことらしい」
この感じ方に、ぼくは大いに安らぎを覚える。だが、これについても、あとでもう少し考えることになるだろう。
(この稿続く)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます