すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

ややこしい話

2019-06-08 21:50:12 | 魂について
 非常にややこしい話をしよう。ぼくの貧しい頭では、途中で手に負えなくなるかもしれない。今までに何度か、この話をしようと思っていたのだが、ちゃんと考え抜く自信や意欲がなかったのだ。
 どうなるかわからないままだが、始めてみよう。長い話になるし、とびとびに続けることになるだろう。

 「魂があると信じる」という人はおそらく多い。良くない時代、希望のない時代、であればあるほど多くなるだろうと思われる。人はそこに希望を求めようとするから。今の日本では、おそらく過半数の人が、強くか漠然とかの差はあれ、あると信じているだろう。ただしこれは、何らかのデータに基づくものではなく、ぼくの印象でしかないが。
 反対に、「魂がないと信じている」人は、はるかに少ないだろう。「ないのではないか」と思っている人は、それよりはかなり多いだろうが、おそらくだいぶ少数派だろう。これも印象でしかないが。懐疑派の人達は、どちらかというと、科学的、分析的思考の人が多い。「ある」と信じる人は、直感的思考の人が多い。

 ところで以上のことは、魂があるかないかという問いの答えにはもちろんならない。むしろ、この問いが「真理」の問題であるよりも「信」の問題であることを示しているだろう。
 誰も、魂の存在を、あるいは不在を、実験や観察で確かめることができたものはいない。以前にも書いたことだが、実験や観察によって真理であると(まだ)証明されていないものは、「仮説」という位置づけになる。仮説は、証明されて初めて真実になる。魂の存在は、神の存在も同じだが、現時点では、仮説という扱いになる。
 宮沢賢治は、「銀河鉄道の夜 初期形第三次稿」に中で「もしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる」と書いている。だが、ぼくたち人類は、結局そこまで到達することはないだろう。
ということは、この問題はずっと仮説のままだ。
 そこではじめて、「信じる」ということが発生する。
 「仮説のままだ」といったとき、ぼくは決して、「信じることは迷妄である」とは言っていない。信じるということは、真理がどちらにあるか、ということではなく、片方を選択する、ということだ。あるいは、そちらに賭ける、ということだ。
 神が存在するかしないかについて、存在するほうに賭けた方が得だ、という意味のことを書いている有名な哲学者は誰だったろうか? 今、調べている余裕がないが、魂についても同じことがいえるだろう。「魂は存在する」という方に賭けた方が得だ。
 魂は存在する、という方に賭ければ、まずだいいちに安心できる。安心できれば、日々の生活を、落ち着いて味わうことができるだろう。自分という個体の死後も魂は存続すると信じれば、信じない場合に比べて、死が恐ろしいものではなくなるだろう。自分が生まれて、生きて、死ぬ、ということが、空しいものではなく感じられるかもしれない。自分という命に、意味を見つけやすい。
 ただし、賭けである以上、リスクはある。その一つは、判断停止というリスクだ。
 人間は、「本当はどうなのか」ということを考えることのできる唯一の生き物だ。それゆえに人間は本来、「本当はどうなのか」ということを考えずにはいられない生き物だ。「信じる」という方に賭けるとき、人はこの問いを投げ出してしまう。それで良いのだろうか?
 銀河鉄道の車内で出会った、姉弟とその引率の青年は、途中の停車駅で降りてしまう、そここそが天上であると信じて。ずっと一緒に行こうと約束したカムパネルラさえも、途中で降りてしまう。ただジョバンニだけが、鉄道が消えてしまった後も、「ほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ」と決心してまっすぐに進んでゆく。

 魂が存在するか否か、という大きな命題に対して判断を停止することによって、人はもっと小さな日常的な問題に出会って、気が付かないうちに判断を停止しがちになるかもしれない。逆に、もっと大きな命題、「神は存在するか?」という命題の前に立っても、判断を停止するかもしれない。そのリスクは、いまの自分の命を爆弾で吹き飛ばしかねないほど大きい。
(この稿続く)
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