すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

第九

2020-12-24 14:17:39 | 音楽の楽しみ

 昨夜、初台のオペラシティに第九を聴きに行った。秋山和慶指揮の東京交響楽団。今年はベートヴェン生誕250年で密になるかと、ちょっと怖くてためらったのだが、客席はかなり空いていた。ただし、いちばん高いS席と、ぼくたちのいるいちばん安いC席は混んでいてその中間がガラガラだった。これはコロナ禍で取りやめた人が多かったということよりは、二極化している、つまり格差が広がっていることの表れではないだろうか。
 さて、ぼくは音楽について、「良かった」「感動した」などと言うことのほかに言及する能力が無い者だが、ひとつだけ気が付いたことを書いておこう。たくさんの人がたくさんの感動を書く第4楽章ではなく、第3楽章について。
 第3楽章って、眠ってしまう人がかなりいるのではないだろうか? ぼく自身も以前はそうだった。そこで今回は直前にエスプレッソのダブルを飲み、さらに普通のブレンドまで飲んで、眠らないことにした。
 そうして改めてじっくり聞いてみると、実に穏やかで美しい、というより、甘美な楽章であることが分かった。寝てしまう人がかなりいるというのは、心地良すぎて眠気を誘われてしまうからだろう。
 「能楽の客席で眠るのが最高の贅沢だ」というのは井上靖の「氷壁」の中に出てくるが、第九の第3楽章も夢幻能と同じように、夢うつつの世界に誘い込まれるのだ。そしてそこは死の眠りに近い。
 弦の甘やかなメロディーに酔いしれているうちに、第1楽章、第2楽章の反抗や闘争や情熱を忘れて、静かに満ち足りた状態を永遠の安らぎと思ってしまうのだ。闘争のあとでそこにたどり着いて、そこで終わりにすることができたらどんなに良いだろう、と思う。
 だが、その安らぎは激しい金管の音によって突然に揺さぶられる。にもかかわらず、人はなおも安らかな夢を見続けようとする。夢幻の世界が完全に戻ってきた、と思われるがそこでもう一度、激しい金管の響き。それでもまだ、人は安らぎにしがみつきたい。
 その静穏はみたび突然に、今度は決定的に、轟音によって吹き飛ばされる(実際に眠っていた人は、びっくりして目を覚ます)。第4楽章の始まりだ。第3楽章と第4楽章が切れ目なく演奏されるのはこのためだ。そこで初めて、人は闘争も、闘争の放棄も越えて、連帯の喜びに浸る奇跡に巡り合うのだ。
 この第3楽章を心地よく眠ってしまうのは、だから、それがいかに贅沢な眠りではあっても、じつに惜しい。
 ためらっていたのだが、来て良かった。そして、眠らなくてよかった。
 出口で友人と別れて、ぼくは新宿まで歩いた。音楽会のあと歩くのは気持ち良いものだ。

 

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