ふと思いついて、久しぶりに新宿御苑に行った。これまで桜の季節とか紅葉の季節とかにしか行ったことがなかったように思う。人出の多いところ、という印象だったのだが、コロナによる外出自粛のせいか、夏の日盛りに行くところではない、と思われているのか、予想よりずっと人は少ない。広大な芝生の所々の日陰に散らばっているだけで、静かな雰囲気だった。
日本庭園とかにはほとんど関心がないのだが、よく手入れされた芝生は美しく、その上を向こうの端まで歩けるのはうれしい。「母と子の森」も武蔵野の自然らしくて小さいながらも好ましい。草の花の種類は白金の自然教育園の方がずっと多いが、あそこにはこれだけの解放感はない。NTTのビルだけが森の上ににょっきりと目障りだが、そっちはなるべく見ないことにしよう。
歩き回ってくたびれたので、ぼくも木陰にレジャーシートを敷いてザックを枕に空を見上げた。ひつじ雲が広がっている。ところどころ青空が見えている程度。分類としてはかろうじて晴れだろうか。あまり暑くはなく、体を伸ばしているだけでのんびりと気持ちが良い。雲は微かに分かる程度に少しずつ変化をしていて、いつまでも見ていられる感じ。
「白い雲は流れ流れて/今日も夢はもつれ…」という歌があったな(フォーク・クルセダーズ「悲しくてやりきれない」サトウハチロー詞)。ぼくはいま悲しくもわびしくもないけれど、白い雲を見て思い浮かべるのはいつも、この歌と、昭和前期の詩人伊藤静雄が戦後すぐに書いた詩「夏の終り」だ。
一時間ほども見上げている間にも、雲は少しずつ広がり、青い部分を侵食してふさいでゆき、初めはほんの少しだけだった雲の下部の灰色の影がだんだんあちこちに現れ、それが集まって次第に大きな厚い黒っぽい影になってゆく。
魔法瓶の熱いコーヒーを飲む。家を出るときに冷蔵庫に氷がなかったのでやむを得ず熱いのにしたのだが、炎天下でなければコーヒーは熱いほうが美味い。
比較的近くに若いカップルがシートを広げて話し始めたので、芝生をもう一往復して帰ることにした。
緑と青、といえば2日前の夢の、暗いモノトーンの中でそこだけ鮮烈に原色だった稲田と空の色がまだ心に引っ掛かっているのだが、もしかしたらそれが無意識の底の方にあって、ぼくはここに来たのかもしれない。それならそれで良いことにしよう。
帰りに受付で年間パスを買った。広い芝生の広がり、といえば葛飾の水元公園か立川の昭和記念公園も時々行くが、ここの方がずっと近い。家から約一時間。貧乏人のぼくはここなら交通費がタダで来られるので、有難い。
練馬区大泉学園にある牧野記念庭園に行った(5日)。昭和の始めから30年ほど牧野が亡くなるまで住んだ住居跡で、60m×40mほどの小さい施設だ。駅から暑い道を5分ほど行ったところにある。
住居の門をそのまま再現したのだろうか、落ち着いた感じの良い門を入ると、右に管理室と休憩室(研修室)の棟。左奥に胸像。武蔵野の林を残した庭はいくつかの小道で区切られ、林床にはキツネノカミソリとヤブランがたくさん咲いてゐる。小さな庭だが、当時は庭の外の周り中が武蔵野の自然の中だったのだろう。
庭の奥に真新しい展示室。その右奥にコンクリートの建屋の中に保護された、書斎と書庫の建物。書斎は3畳。障子一枚隔てた書庫は8畳(書庫は3つあったうちのひとつ)。古い和室で、当時は棚も畳も資料や標本が足の踏み場もないほど積み重ねられていたのだろう(彼はその標本の山の中のどこに何があるかすべて記憶していたそうだ)。書斎の坐り机は小さく、ひどく低い。ここで何時間も、あるいは幾晩も、背を屈めて研究していたのだろう。
展示棟は彼の生涯をコンパクトにまとめた常設展示室とその奥の企画展示室。そちらでは船崎光治郎という画家の南樺太の植物画展をやっていた。
常設室で、若い男性が学芸員の女性に質問していた。「彼は研究のためとはいえ、親の財産を食いつぶし、妻や子にひどい貧困生活をさせ、なぜ勘当も離縁もされず、勝手放題をできたのですか?」というようなことを。学芸員は「彼の研究が素晴らしいものだということを家族は理解していたからでしょうか」というようなことを、躊躇いながら答えていた。
その質問の仕方に腹が立って、呼び止めて話をしようかと思い声をかけたのだが、ぼくの声が尖っていたためだろうか、彼は振り向きもせずに出て行ってしまった。ぼくの言いたかったのは、以下のようなことだと思う。
牧野がものすごく真摯で研究一筋であれば、そして誰もがその人柄を愛さずにはいないような人物であれば、彼の生きていた時代ならば、酷い苦労の中で時には反発もあったにしても、家族は彼を理解することができ、支えることができた、ということはあり得たのではないだろうか? 家族の人たちは、そういう選択をしたのだ。今の時代ではどうか分からないが。
記念庭園を出て、歩き足りないので、隣の駅で降りて石神井公園の池をのんびり回って帰って来た。暑い日ながら、池の畔の散策のあいだ、彼の小さな庭園の与えてくれたさわやかな思いにぼくは包まれていた。
最近ぼくは自然の中を歩いている時だけ、心が晴れる。
一昨日は、急に思いついて、たまたま上京していた友人のA夫妻を誘って、舞岡を散策してきた。
彼は体調の問題で現在あまり長距離は歩けないので、尾根道は行かず、坂下口のバス停からゆっくり谷戸の上まで農道を歩いて、バラの丸の丘から小さな流れ沿いの脇道をバス停に戻った。途中、中の丸広場のテーブルで昼食。いつもに比べてすごくのんびりした散策だったが、緑を満喫できてとてもよかった。こんな風に歩くのはとても良いものだ。いつもぼくは山に行くとき、ロングコースを歩き切ろうとせかせか歩きすぎるのだろうと以前から感じていた。どっちか片方でなく、両方あったほうが良い。
舞岡では、時間がゆっくり流れる。そこで過ごすぼくたちも、そのゆっくりの時間を体感することができる。夫妻と歩いていると、ぼくがふだん見落としているものが見えてくる。
木も草も梅雨の雨をたっぷり吸収して、一年でいちばんみずみずしく美しい季節だ。今までぼくが舞岡で過ごした中で、最も豊かな時間だったかもしれない。
お昼を食べている間、そのあと休んでいる間も、テーブルの後ろの林では何匹ものタイワンリスが何か大きな声を出しながらエサを食べたり、鳴きかわしていたりした。リスがこんなに大きな声で鳴くなんて知らなかった。なかで二匹で盛んに何か言い交わしていたのは、縄張り争いだろうか、それとも求愛だろうか?
また、田植えが終わったばかりと思われる田んぼの横の茂みでは、比較的大きな鳥が数羽、人が近くにいるのを恐れる様子もなく、大きな声で囀っていた。ムクドリより少し大きいかなという大きさの鳥だ。目の周りに京劇の役者の隈取のような目立つ大きな白い模様がある。ガビチョウ(画眉鳥)という、中国原産の、特定外来生物に指定されている鳥なのだそうだ。
(中国では昔から鳴き声を愛でる愛玩動物として飼われていて、日本でも一時は流行ったのだが、声が大きすぎて日本人の好みには合わず、ペットショップから野外に放鳥されたのが増えてしまったのらしい。ツグミなどの在来種を駆逐する恐れがあるのだそうだ)。
彼は植物写真の専門家で、彼女はずっとそのアシスタントをしてきた人なのでぼく一人で歩いたら通り過ぎてしまう草や木に立ち止まって「ふむふむ、山形より季節が一カ月早いな」とか会話したり、ぼくにいろいろ見るべきものを教えてくれたりするので、とてもありがたい。昨日はクサレダマ、チダケサシなどいくつかの花の咲いている植物の名を教えてもらった。
一緒に歩いているとほんとにぼくは何も知らないということを改めて思う。ナチュラリストクラブにいるときに、観察会の運営とかでなく、まず自分が植物や昆虫や鳥を学ぶということをきちんとすればよかった。このごろ残念と思うことばかりだ。もっと自分の生き方を豊かにできたろうに。
とりあえず昨日は、二人のおかげでいつになく心豊かな時間を持つことができたから良いのだが。
クサレダマ(腐れ玉でなく、草レダマ)
チダケサシ(乳茸刺)
ヤマハギ
クサフジ
広い静かな水の広がりの
向こうの緑を見ていると
ぼくの眠るべき場所が
あのどこかにあるような
気がしてくる
もうぼくの目は茫々として
森と草地との境いさえも
よく分からないのだが
あの草地の奥
森に少し入りこんだあたりに
ぼくの帰還を待っている
人がいるような
気がしてくる
古風な音の笛が
微かにイギリス古謡を
奏でている
この季節に風に乗って
流れてくるあれは
何か人外のものが
吹いているに違いない
忘れていたことを
ぼくに思い出させるために
ぼくはもう半分ほどは
ここにいない存在に
変ってしまったようだ
ちかごろどうも
ぼくの記憶はかなりあいまいになっているようで
君とこの丘を歩いたのを
こんなにありありと思い出すのに
そんなはずはないよな とも思うのは
記憶違いだろうか?
それともあれは
いつか知らぬ前の世のこと
だったろうか?
あの時はたしか春まだ浅く
タンポポが咲き始めだったが
今はもう半分以上が綿毛になって
ヒメオドリコソウに押されている
実れなかったサクランボの赤ちゃんが
ベンチに無数に散っている
生垣にカラタチが美しい
あのとき君は大病のあとで
ぼくたちはゆっくりゆっくり
君の体調を気遣いながら
歩いたつもりだったが
君はじつはこんな感じだったのだな
今日はぼくが病み上がりで
息切れやめまいと相談しながら
ゆっくりゆっくり歩く
今はかたわらにいない君に
話しかけながら
散歩の途中で見つけたアーモンドの花。アルジェリアの海岸地方でこの時期(雨季の寒気が緩み、短い美しい春が来る頃)春が来る頃)よく見かけたが、日本では初めてかもしれない。花は直径4cmぐらい。薄紅色が可憐だ。さくらによく似ている。木肌も桜そっくり。写真のは、やや盛りを過ぎているようだ。
アルジェリアの春については、20/09/03「砂と緑」を読んでほしい。
昨日の記事にUさんからコメントをいただきました。考える手掛かりになるコメントです。ありがとうございます。少し考えてみたいと思います。
「銀河鉄道の夜。ジョバンニとカンパネルラ。賢治もそういう、宇宙に飲みこまれるような不安をいつも抱いていたかもしれません。」
ここでは賢治には触れず(それはテーマが大きすぎるから)、鉄道についてだけ考えることにする。
銀河鉄道は死の鉄道だ。といってキツければ、死者を乗せた鉄道だ。カンパネルラも、難船した二人の子供と青年も、サウザンクロス駅で降りた多数の乗客も死者だ。降りずにさらに行く人たちも死者だ(死者っぽくない鳥捕りも灯台守も死者だ)。彼らは、それぞれの信仰によって定められた、死後の場所に向かう。だから銀河鉄道は片道鉄道だ。汽車は向こうからこっちには決して来ない。
カンパネルラは、「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか。」以下の言葉から推測するに、自分がすでに死んでいることを知っている。自分がどこに行くのかも知っている
ただ一人ジョバンニだけが、生きたまま汽車に乗っている。だから彼の切符は、何処まででも行ける、何処でも勝手に歩ける通行券だ。そして彼は、それが死者の乗る汽車であることを無論知らない。どこに向かっているかも知らない。でも行き先の分からない汽車にいつの間にか乗っていることに不安を感じてはいない。彼はただ、カンパネルラと旅をすることがうれしいのだ。彼はその汽車の旅で出会うすべての人に、すべての出来事に心を開いて、新鮮な驚きと関心を持ち続ける。
ジョバンニが初めて恐れを感じるのは、“石炭袋”を見た時だ。それは死者が赴くべき天上に開いた虚無だ。だが彼はすぐに言う「ぼくもうあんな大きな暗(やみ)の中だってこはくない。きっとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く」と。その直後に彼は、カンパネルラがいなくなってしまったことを知って激しい衝撃を受ける。
彼は友達と一緒だったら、死者の鉄道だって何だってどこまでも行けただろう。だが、友を失って現実世界に帰ってくる。誓いを地上で果たすために。
さて、ここからはぼくの問題だ。
ぼくはこの手の夢を頻繁に見る。それはなぜか?
「沈黙の列車」は死の列車であるかどうかは、何も手掛かりがないから分からない。乗っているぼくは、いつの間にか乗っていることに、何処に行くのかわからないことに、たった一人であることに、暗闇が迫ってくることに、ひどく怯えている。そして戻りたがっている。だがどこに戻ったらよいのかわからない。
ジョバンニとぼくとの違いは明確だ。そして上の疑問の答えも明確だ。
ぼくは、他者と共感を持つように努めたらよい。どこへ行くのかを過度に恐れず、新鮮な驚きと関心を現実生活の中で持つべきだ。そうすれば夢の中の列車に乗客や乗務員や駅員が現れるようになるはずだ。
そして、戻ろうとばかり焦らないほうが良い。小さな自分にばかり張り付いている意識を離れて、「みんなの本当の幸いを探しに行く」と思えるようになれば良いのだ。そうすれば夢の汽車の旅が不安ではなくなるはずだ。
川岸の段丘は
小さな棚田の連なり
去年の稲架が
陽炎を立てている
枝を払われた桑の
地面から突き上げた握り拳
同じ方向を向いて浮かぶ
枯れ残った薄の疑問符
倒れかけた番小屋
きらめきながら小石の間を流れる
浅い川水
山かげに残る雪の中に
苔むした数個の石塔
雑木林の上
空に向かって伸びた幼い枝の一つ一つを
くまなく輝かす
朝の
光
8時間はしっかり寝たはずなのに、なんだか寝足りない。朝ご飯を食べて洗濯機を回しているあいだ二度寝をして、干してから三度寝をしてしまった。単にものぐさ老人なだけだとも思うが、これはひょっとして春が始まったのかもしれない。
「春眠暁を覚えず」という名詩もあったが、ぼくが今朝思い出したのは懐かしい童謡だ。
とろろんとろろん 鳥がなく
ねんねの森から 目がさめた
さめるにゃさめたが まだねむい…
4番までの歌詞の何処にも書いてないが、これも、気分はぜったい春の朝だ。
春の朝はなぜ眠たいのだろう?
素人考えだが、全身の緊張が安心して緩むからだろう。冬の間、ポケットに手を入れながら外を歩いていて、いつの間にか肩を上げて上半身を固めていることに気が付くことがよくある。筋肉を緊張させて放熱を抑え、寒さに対抗しようとしているのだ。
体の感覚というのは精妙なもので、今日のような朝、「あ、寒さが緩んだな」と意識のレベルで思うより前に体が感知していて筋肉の緊張を解くのだ。それで気持ちも緩んで、ほっとして、「もっと眠りたいな」、ということになる。
こういう日には、安心してぐうたらを決め込むのが良い。なんせ、冬の間ずっと縮こまって耐えてきた体なのだから、ご苦労さま、だ。
ところで、春一番ももう吹いたそうだし、暖かくなるのが早いことそれ自体はありがたいのだが、良いことばかりではないですね。花粉症が始まるし、何よりも、夏の台風や豪雨水害が今年は一体どうなるのだろう?
環境経済学者のレスター・ブラウンが2003年の著書「プランB」ですでに、気候変動による深刻な問題を予言している。巨大ハリケーンで上海やニューオリンズは壊滅的打撃を受けること、温度上昇で光合成能力が阻害されて穀物の収穫が減ること、氷床や氷河が解ける一方で乾燥化・砂漠化が進み、地下水脈は枯渇すること…などなど。
彼はそれに対する対策を提案しているのだが、20年ほど経った現時点では、「プランB」でさえ事態に追いつかないのではないかと思えてならない。
あーあ、ウトウト考えていたら眠気がさめてしまった。おちおち春眠を楽しんでもいられないよな。
今は 二月 たつたそれだけ
あたりには もう春がきこえてゐる
だけれども たつたそれだけ
昔むかしの 約束はもうのこらない
私の詞華集36 立原道造「浅き春に寄せて」より
立 春 大 吉
ここ数年、年賀状を書かずにこの時期にご挨拶をさせていただいています。
今年に限っては「大吉」と言えるのかどうか…でも、希望を込めて、やはり「大吉」と言うことにしましょう(今年の立春は2月3日午後23時59分だそうです)。
今日一日に、今に、美しいもの、美味しいもの、愛おしいものを見つけていきたいです。
このごろ長い文を書く気力が衰えて、ブログに行分けの老いのつぶやきを書き散らしています。楽器や歌がやや遠くなって、本を以前よりはたくさん読んでいます。
山登りに行きにくいご時世で、近所をウロウロ彷徨しています。自然が少ないのが寂しいです。この夏は、去年は行けなかった北・南アルプスに登れるかな?「五輪」とかでなく、競技でないスポーツをもっとたくさんの人が楽しむようになると良いですね。コロナが収まって、機会があれば、ご一緒できたらうれしいです。
皆様方のこの一年のご健康と
ご多幸をお祈りいたします
(年賀状を頂いた方への寒中御見舞いのはがきの文です。)
よく散歩に行く林試の森も自然教育園も、大きな木が育って自然豊かなのだが、その分日影が多い。それで今日はあまり麗らかなので、チャリで多摩川に行ってみた。子供の頃は大岡山や奥沢や田園調布を通って、上ったり下ったりして行ったものだが、それはもうきついので目黒通りをまっすぐ行くことにする。それでもけっこう、緩いアップダウンはある。環八を越えて川に向かって急坂を下り、土手にぶつかったら左折して丸子橋を渡り、川崎側のサイクリングロードを二子橋に向かう。
思い立って家を出たのが遅かったので、二子側へ1/4ほど進んだあたりで、枯草の土手にチャリを寝かせ、お茶を飲み、コンビニのお稲荷と羊かんを食べる。ここらは春になると土手の桜と菜の花が美しいところだ。
眼下のグランドで子供らがボールを蹴り、その向こうに川が光る。その向こうは環八から下ってくる傾斜地なので、家々が積み重なって見える。右は古墳群のある多摩川台の森まで、左は二子玉川のビル群まで、左右に視界の切れるまでずっと。残念ながら、まことに美しくない。これが北アフリカの海岸の町あたりなら、所々に丸屋根を交えた白い壁の家々の重なりが美しいことだろう。あるいは、もう少し南に行けば、サハラの砂と同じ赤茶色の家々が、そう、“砂漠の薔薇”と呼ばれる鉱物の結晶と同じ色に美しいことだろう。
暖かくて風が心地良い。陽射しは春のようだ。静かならばうたた寝なんかしたらいいだろうが、なんせ、人がいっぱい通る。散歩の家族、ジョギングやサイクリングの人。自分もその一人なのだから仕方がない。「自粛」で家にこもっているよりははるかに良い。家にいる人たちに「みんな出ておいで」と呼びかけたいくらいだ。
道を続ける。川崎側は道が整備されていて走りやすい。スピードを上げてみる。それでも、メットをかぶってスポーツタイプに乗った人たちにどんどん抜かれてゆく。散歩の老人ややママチャリの間を全く減速せずにすり抜けていく人もけっこう多い。事故は起こさないのだろうか? せめて減速するのがマナーだよね。
左手から南風が強い。うっかりしていると体が振られそうだ。横で大きな工事をしているところもあって、砂が巻き上げられて目がチクチクする。でもおおむね、気分は爽快だ。ここは歩いて通ることの方が多い。その時は電車で新丸子か多摩川まで来る。右岸か左岸を上流に向かって歩く。和泉多摩川までは約2時間。土手を歩いたほうが展望は良いし風も気持ちよいのだが、車の通行の多い道路がすぐ横を走っているので、河川敷を歩くほうが楽しい。ただしかなりくたびれる。同じ2時間なら山道のほうがずっと疲れないのはなぜだろう。
今日はチャリだから楽なものだ。スイスイ第三京浜をくぐって二子橋が近づく。でも川と家の往復が長いので、橋を渡って東京側を戻ることにする。こちらはサイクリングロードが途切れ途切れで、途中から横の車道を走らされる。そうすると、川は見えない。その前にもう一度土手で一休み。川原は一昨年の台風19号でひどくやられた。ホームレスの人たちはどうしただろう。避難して無事だったろうか? ブルーシートの住処はほとんど見えないままだ。
目黒通りに戻るのに、環八までは急な上り坂になる。ここが一番苦しい。が幸い、緩めの坂を見つけた。坂の途中に「六所神社」という大きな神社がある。疫病終息をお願いする(休めてうれしい)。その先に大きな前方後円墳もある。後円部がかなり大きい。この近くには野毛図書館があって、田んぼの中みたいなところで、それが好きで中学生の頃はわざわざよく来たものだ。今はもちろん何の変哲もない住宅地の中だ。環八は等々力渓谷の上を通る。こんなところで遥か下を歩いている人を見るのは不思議な気がするものだ。
家を出てから帰り着くまで4時間。3時間は走っている。足が張った。コロナな状況でも、まあまあ元気だ。動き回っている方が体調も気分も良い。毎日はできないけどね。
今年も花梨を焼酎に漬けた。
花梨は12月の初めに小石川の植物園に行って貰ってくる。受付の前に箱の中にたくさん置いてあって、「ご自由にお取りください」と書いてある。7年ほど前にいちど漬けてみたらなぜかものすごく苦いお酒になってしまって、しばらく敬遠していたのだが、一昨年恐る恐る再挑戦してみたらほろ苦く美味しくできたので、去年も浸けた。手元にあるレシピ本には書いてないのだが、レモンのスライスを入れると苦みが抑えられるようだ。
今の時期の小石川は紅葉がほぼ終わりを迎えて、でも入り口の近くのメタセコイアがオレンジ色に空に向かって燃え上がっていて美しい。日曜日に行ったのだが、紅葉の盛りが過ぎたせいか、静かに散策する家族連れや老夫婦がちらほらいるくらいで好ましかった。花梨園の花梨の実はほとんど落ちて、なぜか2本だけまだいっぱいに実を残した木があった。
花梨の実は硬くて生食はできない。表面が蜜でべとべとしているからビニール袋に入れて持ち帰って、洗ってザルに上げて3日ほど置いてから、氷砂糖と一緒に焼酎に漬ける。ザルに上げている間は、台所行くと花梨のさわやかな甘い香りがして気持ちが良い。
「一か月ぐらいから飲める」、とレシピには書いてあるが、3か月か半年くらい我慢して待っていたほうが芳醇になって美味しさが増すようだ。
今年は一昨年昨年の成功に気を良くして欲張って沢山もらってきたので、2瓶になった(ちょっと、ほかの人の楽しみを奪ったかな、と、気が引けているのだが、毎日たくさん置かれているのだと思う)。片方は、飲んでしまわないで何年か寝かせておいてみよう。「ぼくが死んだら、10年目まで取っておいてね」と言ったら、家族が「へっ?」と言っていた。「智恵子抄」の「梅酒」に倣ったのだ。
無論、10年後に無事、自分で飲むのに越したことはない。もし途中で死にそうなことにでもなったら、その前に飲んでしまうことにしよう。酔っぱらって旅立つのも悪くない。
やがて通り雨が収まり、興奮も収まって、びしょ濡れのぼくは我に返り、父と母にこっぴどく叱られるためにすごすごと勝手口から家に入る。
(激しい雨がじつは恐ろしいものだという知識がなかったわけではない。あの頃は今以上に豪雨や台風の被害は大きかった。故郷は球磨川・最上川と並ぶ日本三大急流の一つ富士川の流域にあった。もっとも、うちは笛吹川沿いで、氾濫を繰り返したのは主に釜無川とその支流の御勅使(みだい)川だったが。小学校5年生の時には狩野川台風も来ている。)
雨の降り始めた音や降り始める前の気配を感じるのも家族でぼくが一番早かった。縁側に近いところでなく勉強部屋で本を読んでいるかして、ぼくが気配を感じて「あ、雨が来る」というと、そのあと実際に降ってきたというのがしばしばあった。もっとも、父母は忙しく、弟妹はまだ幼く、祖父母は奥の部屋にいて、それは当たり前で、しかもぼくは集中できない子供だったというに過ぎないことかもしれないが。
いつからぼくは雨に対する親和性を失ったのだろう?
自分があまり丈夫でない体を持っていることを知っていた宮沢賢治は、雨を恐れ、また同時に、雨に惹かれていたのらしい。長編詩「小岩井農場」の中で彼は野を歩きながら雨が降る気配を気にしているが、結局はびしょ濡れになり、その冷たい透明な雨の中ではじめて、時空を超えた「遠い友達」、「ユリア」や「ペムペル」に会うことができる。
子供が何かにあんなに夢中になれるのは、子供自身はそう感じていないとしても、その何かが自分を、家庭や学校の中での様々な制約の中で生きている自分、自分自身が限界を設定している自分、日常の世界でのありかたに縛られている自分、をその限界の外に連れ出してくれるものだからだ。
自分を自我の外に連れ出しに来てくれるものとしての遊び、冒険、あるいは雨。
生涯、苦しみながらも子供の心を失わなかった賢治は、雨や嵐の中を夢中で農家の支援のために駆けずり回り、体を壊し、結局は死に至った。
「雨ニモ負ケ」ない「丈夫ナカラダヲモチ」という晩年の彼の願望は、困窮した人々を助けるけるために雨や嵐の中をいくら駆け回っても大丈夫な体力を持ちたい、ということだ。
ぼくはおそらく、6年生になる春に東京に越してきて以降、子供の心をなくしてしまったのだろう。新しい生活になじめず、自分が異世界に流されたように感じ、仕事がうまくいかない父は荒れ、そのせいではないがぼくは暗い心を抱いていろいろ悪いことを覚えた。だがそのことはここには書かない。
その年の秋、伊勢湾台風が来た。ぼくはすでに雨の中を走り回ることはなくなっていた。父が買った安普請の家は窓ガラスがちゃんと枠に収まっていなくて、夜中に次々に割れて飛び散った。雨風の恐ろしさを手酷く実感させられる一夜だった。
…前にも書いたが、最近ぼくは再び雨の中を歩くのが嫌でなくなり始めている(体力は衰えているのにもかかわらず)。ゴアテックスの上下の雨具で完全防備してではあるが。
失ったものをひとつ思い出しつつあるようだ。
おととい丸一日降った雨のおかげで、森はしっとりと潤って、でも蒸し暑くはなく、むしろ涼しいくらいの爽やかさだ。この時期あまり花は咲いていないが、ゆっくりと歩くこと自体を楽しむ。何でもないことがすごく嬉しいのは、やはり長い蟄居の副産物だ。
ドクダミだけは行く先々で咲いている。濃くなった緑の茂みの中で、白い十字形の花(本当は、総苞片)は静かで良い感じだ。あまり密集していなければ、の話だが、ここのは比較的つつましくて好ましい。
ヤブレガサ(破れ傘)の頭状花がもう半分黒く変色して残っている、これは春先に葉が傘状に開き始めた頃に摘んで天ぷらにして食べると美味なのだ。
トラノオは、虎というよりは真っ白い子猫のしっぽのようでかわいい。
池のほとりにはピンクのブラシ状のチダケサシと強い橙色の六弁の真ん中だけ筋状に色の薄いノカンゾウと紫のクサフジが咲いている。
クサフジはフジに似てさらに可憐なマメ科の花だ。チダケサシ(乳茸刺し)は変な名前だが、長野の方で乳茸というキノコを収穫する時にこの草に差す習慣があるのだそうだ。なぜかは知らないが。
ノカンゾウは春先に摘んで酢味噌和えにすると、ほのかな甘みがあって美味だ(教育園のを摘むわけにはいかないが)。ユウスゲやニッコウキスゲもそうだが、この仲間は一日だけしか咲かないのだそうだ。次の日に同じところで見つけても、それは昨日とは違う花だ。
園の一番奥の武蔵野植物園では、小さな池に小さな黄色の五弁の水草、アサザが咲いていた。地下茎が泥の中を這い、水面に葉と花を浮かせる。これも可憐な花だ。
ぐるっと回って戻る途中の水路沿いにアジサイとガクアジサイがたくさん咲いていた。先日大磯で見たガクアジサイは深く鮮やかな青色だったが、ここのは真っ白だ。青いのは土壌の酸性が強いからだが、家に帰って調べたら、白いのにはアントシアニンという色素がないのだそうだ。どちらも美しい。
ついでに調べたら、クサフジも春先には食べられるのだそうだ。これは知らなかった。
白金台駅の近くの八百屋の店先にすごく大きくて美味しそうなアメリカンチェリーを見つけた。佐藤錦にはなかなか手が出ないが、これなら大丈夫。山のように買って家に帰って氷水で洗ってワシワシ食べた。
なんだか、食べる話が主になってしまった。
時々お会いしてエネルギーを分けていただくUさんと、お会いするのは5,6年ぶりになるだろうか、地元に住むNさん。そのNさんの運転する車で東海道の松並木を通ってまず旧吉田茂邸跡の公園へ。小さなバラ園の先に、手入れの行き届いた明るい日本庭園。その奥の住まいにはコロナ禍の時節柄、上がることはできなかったのが残念。
菖蒲の花の終わりかかった池の向こうの丘の上に。吉田の銅像が立っている。庭園からは見えない位置にあるのが顕示的でなく好ましく思う。西郷隆盛と同じようなずんぐりがっしりした体形。でも上野の森の西郷の像よりはずっと品のある、穏やかな顔とたたずまい。丘の下には湘南の海が広がり、その手前に西湘バイパス。下をひっきりなしに車が通る喧噪の中で、吉田は静かに横を向いて立っている。その顔は講和条約を結んだサンフランシスコの地を向いているのだそうだ。
現代の政治家にもこのような品と温和さと腰の坐った落ち着きがあって欲しいものだ、と思うのは無いものねだりだろうか(唇をゆがめて尖らせて偽悪的な攻撃的な口調で話す大臣は孫だ)。
ついで、東海道を挟んだ山側の、旧三井別邸跡の城山(じょうやま)公園。うっそうと茂る木々の間のスロープを登っていくと視界が開けて、丘の上に東屋のある展望台。ここで海を見ながら並んで座ってお昼を食べた。
あいにく富士山は雲の中だが、箱根の山々が見え、その左手に(たぶん)真鶴岬と伊豆半島。輝く海。海からの涼風が照葉樹林の樹上を越えてきて、まことに心地よい。
樹々は、同じ緑にもこんなに色のグラデーションがあったのかと驚くほど、それぞれ自分の色に美しい。落葉広葉樹と違って照葉樹林は樹の下に光をあまり通さないから林内は暗い感じがするのだが、高い位置から見ると樹冠の広がりはこんなにも陽光をいっぱいに受けて輝いている。もともと葉っぱに光沢があって照り輝いて見えるから照葉樹というのだったな、と改めて思う。百万色の緑とでも言おうか。
人も、仮にそれぞれの生の中に暗いものを秘めているのであっても、陽の光を浴びてそれぞれに自分自身の緑に輝くことはできる。
お弁当を食べて、二人のレディーは朝ドラで話題になっているという「船頭可愛や」を歌ってくれた。技巧たっぷりでない素朴な歌い方をすると、節回しの美しい良い歌だ。
久しぶりに、清々しいのんびりとした時間を味わうことができた。
(明日、続きを少し書くつもり)