佐倉街道(成田街道)たどると、
小岩(江戸川区〕に関所跡がある
地方史研究者は、お金にならないと、よく言われます。
それだけ読者が、一部の人のみに限定されるからでしょう。
葛飾区・江戸川区・市川市の方々には地名も分かります。
それ以外の方は、興味が薄いと思われますが、関心のある方はお読みください。
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佐倉街道は、水戸街道新宿(にいじゅく)から分岐して
佐倉藩や成田山新勝寺に向かう街道である。
庶民にとっては、成田山新勝寺への参詣道ということで成田街道となっていたが、
江戸幕府が公道として定めた「新宿~佐倉」間を指して、房総の諸大名の参勤交代の道であった。
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昭和25年(1950年)頃の
角屋旅館(江戸川区教育委員会設置の解説版より)。
角屋旅館の前から京成江戸川駅方面を見る
角屋旅館の脇に江戸川に通じる道路が有る。
これを進むと小岩関所跡に出る。
江戸時代に作られた『水戸佐倉道分間延絵図』には、
「元佐倉通り逆井道、江戸両国橋え道法三里」と記されています。
江戸から佐倉へむかう道筋には、千住から新宿(葛飾区)に至って水戸街道から分かれ、
小岩に至る佐倉道があり、江戸時代にはこちらが街道として利用されていました。
江戸を守るために江戸川には橋が架けられませんでした。小岩市川の渡しの小岩側に
小岩市川関所が置かれていました。
『新編武蔵風土記稿』の伊予田村の項に「対岸は下総国葛飾郡市川村なれば、
小岩市川の御番という」とあります。
これは、幕府の設けた関所の一つで、常時四人の番士が配属されていました。
上流の金町松戸関所とともに、江戸の出入りを監視する東の関門でした。
小岩関所跡から市川関所跡を見る
江戸川沿いの下矢切邑
寛政年間(1789~1801)には、江戸川沿いにあった寺もすでに高台へ移転したが、
民家の一部は依然として江戸川沿いに見うけられる。
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