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日々是好日・スローライフ(寅さんの柴又から発信)

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・家庭菜園 ・ めばえ・成長・収獲

昭和の写真展から その2

2014年09月08日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

 葛飾スポーツセンター付近は、むかし湿地でした

                            古い写真は、『葛飾区の昭和史 堀充宏・萩原ちとせ編』からお借りしました。

 

 
中川をさえぎる土手があり、さくらも植わっていた。
湿地には、たくさんの葦が茂り、よしず等に使われたと言います。
農家の人たちが使用した、サッパ舟も見ることが出来ます。


スポーツセンターの全景。、左が屋内体育館、右が陸上競技場。
河川で作業する浚渫船。川は川上から押し寄せる土砂で川底に堆積します。
この辺は住宅街が河川水面より低く、水害のとき少しでも早く水はけが良い様に川底の土砂を深く掘っています。


奥戸橋に登る歩道坂から撮影しました。


昭和12年頃
奥戸天祖神社裏の土手で一服する行商。
区内には、戦前まで天秤を担いだ豆腐の行商が来ていた。


奥戸天祖神社そばの水門当番の家。


奥戸2丁目天祖神社の番地。


奥戸天祖神社の裏の道路を隔ててスポーツセンター陸上競技場。

 

昭和22年の古い地図 
青い線が中川    
   黄色い線が奥戸橋    
            黄色い円が葛飾スポーツセンター

スポーツセンターの昔は、中川が入り江になっていて湿地で葦が生えていた。
これを埋め立てて、

現在のような建物が完成した。

 

コメ欄はお休みです

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昭和の写真展から その1

2014年09月01日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

高砂橋&奥戸橋

葛飾スポーツセンターで下記 ↓ の展示が催された。
懐かしい写真があり、ついついのめりこみ、現代と見比べてみた。
半世紀以上過ぎますと時代は大きく変わり、その昔が一変され分から諸所ばかり。
辿ってみました。

                                        古い写真は、『葛飾区の昭和史」 堀充宏・萩原ちとせ編から
               お借りしました



高砂橋 


昭和12年
高砂橋下から京成電車を見る。
橋下には葛西船が止まっていて船で生活している様子が洗濯物で分かる。

船の手前は、ゴカイを掘る人が見えます。

近世には、三都の糞尿を集め近くの農村に運ぶ糞船(くそぶね),肥船(こえぶね)が存在した。
江戸では葛西船(かさいぶね)と称する船がその代表であった。
このように,糞便は古くから農耕用肥料とされてきたが,神聖な神田には下肥を使用せず,
また神役も穢れたものとして糞尿に触れるのをさける習慣がある。…

現在の高砂橋


現在の斜張橋


現代は、土砂浚渫を運搬する舟、タグボートに引かれて進む


中川を往く軽油・石油等の運搬船

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 奥戸橋 


昭和15年、木製橋の奥戸橋
釣り船や川遊びに手軽に利用できるサッパ船が浮かぶのが見える。
笹の葉に似ていることからサッパ船と
呼ばれるようになった。

現在の奥戸橋


カミソリ堤防が設置された以外は、上の写真と場所的に同一であろう。


現在の奥戸橋と釣り船

一寸上流に50mほど進むとご覧の舟留まり

コメ欄は締めています。


 

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柴又そぞろ散歩 5

2014年07月26日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

 柴又の猿


柴又の参道脇にて

都合の悪いことや余計なことは,

見ない,聞かない,言わない,ことの意で使う。

 

*************************************

 

柴又帝釈天の猿は、もっと奥が深い

 むかしの暦、十干十二支で庚申(こうしん)の日というのがある。
誰の身体の中にも3つの神のしもべがいて(「 三尺(さんし)の虫(むし) 」、各人の行いを監視している。
庚申の日の夜に抜け出し、見たり聞いたりした悪事を天帝に報告するとか....ドキっ

 そこで頼むから黙っていてくれという願いを表したのが「見ざる、言わざる、聞かざる」。
そしてその3つの神が猿の姿になっているのは、
庚申の申(しん)が干支(えと)の申(さる)なので、それにも掛けてあるという。

へえー、そこまで掛けてあるとは、ちーっとも知らなかった

 

コメ欄はお休みです。 

 

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柴又そぞろ散歩 4のB

2014年07月23日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

帝釈人車鉄道・ (2の2)

1913年(大正2年)には柴又 - 金町間の人車の運行を行っていた。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                                       

 


人車(客車)は6人のりで、長さ6酌幅4酌と長さ4.5酌幅3.8酌の二種類があったらしく、
最盛期には車64両と保線工事用トロッコ4輛を保有していた。 

片道5銭、往復9銭(当時、あんパン1個が1銭、牛乳1本が3銭)で、乗車券は金町行きが白、
柴又行きが赤、往復が青に色分けされていた。
 
この軌道では押し夫の事を「車丁」と呼んでいて、通常は一人(強風時は二人)で人車を押していた。

 


≪父ちゃんは押っぺししていた≫紙芝居

 



帝釈人車鉄道企画展に展示された”人車”

何れも松山人車、 長南茂原間人車の実物写



明治時代の帝釈天参り

 

金町柴又間は帝釈人車軌道人車の様子が分かります

 

引用参考文献  
 葛飾区郷土と天文の博物館編「葛飾柴又展」(1991年)と同館所蔵写真
 「人車鉄道の世界HP」を参考にしました。

 

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柴又そぞろ歩き 4のA

2014年07月23日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

昔の人車、今の鉄道・(2の1)

明治から大正初めにかけて、
現在の葛飾区内の金町-柴又間に人車鉄道が存在した。
「帝釈人車軌道」である。

 この人車鉄道は金町駅から題経寺(帝釈天)までの参拝客の輸送が目的であった。
1913年(大正2年)には柴又 - 金町間の人車の運行を終了し、
単線電化で電車の運行を開始した。

   

 金町駅・・・・⇔・・・・・・・現在の京成金町線・・・・・⇔・・・・・柴又駅 

 
京成線路の右は柴又街道、その右は、緑に覆われた都民の水瓶・金町浄水場


柴又駅に向う電車
その昔、電車でなく≪帝釈人車鉄道≫が通っていた。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

昔の人車鉄道  詳細は次回blogにて

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                                       

 

コメ欄はお休みです。

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柴又そぞろ歩き 3

2014年07月22日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

 境内に鉢植えの"ハス"

境内を一回りすると、本堂右手にハスの花が。
14~5鉢が置いてあった。

久方ぶりに見るハスの花、匂いを嗅ぐように顔を
そっと近づけた。

 


咲き終えたもの咲いているもの、蕾とさまざまでした。


芯の部分に、仏様が居るという・・・・・・・・?


周りの木々が、境内を包み込むように、緑に覆われていた。

 

 □ 生命の諸行無常ハスの花  (縄)

コメント欄は、締めてます。 

 

 

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柴又そぞろ歩き 2

2014年07月19日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

虎さんの故郷を何故?葛飾・柴又になったのか?(考察)
        早乙女勝元氏が柴又を案内??? 

 

「 私 生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天でうぶ湯を使い、
姓は車 、名は寅次郎

人呼んで フーテンの寅と発します」

何故!?葛飾柴又に故郷を、決めたかと言うことについて、
講演会で早乙女勝元氏(足立区在住)から、
こんな話を聴きました。


山田洋二監督と作家・早乙女勝元さんは、
若い頃切磋琢磨し、お互いに何でも言い合える中であったようです。
いつも情報を交換して作品作りにに役立てていた。


山田監督と二人で柴又に行ったときとても悦に入っていた。
胸の中に、柴又をしっかり刻み込んだのでしょう。
次は、柴又が舞台だ!!!

以下 ↓ の文章は、作家・早乙女勝元・フリー百科時点『ウイキベディア』による。
この中に、これ等を繋ぎ合わせると講演会との話が成る程という裏づけられる。

下欄に続きます
 

 
寅さんの名台詞


柴又帝釈天の二天門

 

以下 ↓ は参道を散策の描写


ビードロの中のセンベイ

 


寅さんシリーズに出てくるような商品を売っています




蔵出し画像です

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

↑ 上の冒頭部分より続きます


一部分を抽出した


早乙女勝元氏は
山田洋次に「下町の太陽」制作に際してアドバイスをしており、
また山田を初めて葛飾柴又に連れて行った。

下町の太陽』は1963年に松竹で制作された映画作品。

山田洋次監督の、寅さんシリーズ第1作は
1969年8月に発表

 

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柴又そぞろ歩き 1

2014年07月18日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

 寅さん・・は、
何故・・国民的アイドルであったか!?
そして、柴又を全国区に

 
           
無教養で、無責任で、貧乏で、容貌にも恵まれていない
寅さんの魅力は、いったい何処に有ったのか?

「ちょっと変わり者だけど、愛すべき性格なのよぉ!」ってのは他人だから言えることであって、
実際に寅さんが自分の親戚だとしたら、おちょこちょいな人間性と 義理人情あふれる、相当ヤッカイである。

純情でテキヤ稼業、女性に恋しては振られる,プイと家を飛び出しては不意に帰る、 

 いつも追いかける側の寅さんは、いざ女性の方からモーションをかえられると、
とたんに臆病になり、そそくさと逃げてしまう。


一般世間でも、”あの男、チョイ~・・ト”と抜けているが、なかなか活かす男なんだよなァ~・・と、
賢者より虎さん風の人が好かれる。

賢い人より、世間付き合いのうまい人!
理想の人間像を掲げたが、なかなか世間渡りがうまくいかぬ。

NO
天気な寅さんが天から降って湧いた
皆さん拍手喝采

しかし、俺には、寅さんのような人生出来ないんだよナァ~・・・


 
 

近くを通ったので、参道をぶらり・・・・・。
栄枯盛衰、寅さん全盛時代は、押すなオスなの人人人でした。
参道を往く人は、めっきり少ない。

 

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葛飾今昔まちあるき その3ーE (完)

2013年03月31日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

Y夫完歩、マグカップ
以外な結末

☆ 街歩き 親父駄目でも 妻(Y夫)完歩


11ヶ所のスタンプラリーを終え見事にY夫、景品をgetした。

ことの起こりは3月初旬、私にも・・≪葛飾まち歩き≫下さい。

Y夫に渡した。

あれからおよそ25日、仕事から帰ると
≪完歩しました、これが景品です≫
と差し出した。(3月29日)
アレ!アレ!・・・いつの間にかと、驚き、モモの木、山椒の木。
もう一つおまけに”気力”なり。

これ程まで心血を注いで歩いていたとは、”始めたら貫き通すY夫”

四谷・赤坂・麹町、チョロチョロ流れるお茶の水、粋なねえちゃん立小便、
田 へしたもんだよカエルの小便、見上げたもんだよ屋根屋のふんどし、
結構毛だらけ猫  ・・・・・・・・・・。

アッパレとY夫を讃えた。

 


完歩で貰った
マグカップ&エコバック

 


縄文人が歩いた時の、葛ハイの女性です

 ☆ 街歩き 後からはじめ テープ切る  (ウサギと亀)

≪葛飾今昔まち歩き≫
  Y夫の感想・・談

             1、灯台は下暗し、街歩きしたことにより葛飾区が明るくなった。
             2、葛飾区にも歴史が有り、あちこちに下町らしいよきところを発見できた。
             3、小菅駅に降り立ったとき、刑務所駅と暗い実感がした(小菅刑務所あり)
             4、景品を東京スカイツリーで頂く。あまりにも見物客が多くて逃げ帰って来た。
             5、歩くと町並みが分かる、人の息ずかいが分かる、暮らす人の様子が分かる。
             6、歩くことのすばらしさを体感した。
                
                *本来の万歩クラブの行事をキャンセルして、街歩きに専念したと・・・ポツリ。
                           4月からは万歩クラブにに専念すると・・・・談。

 

 

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葛飾今昔まちあるき その3ーD

2013年03月24日 | 紀  葛飾今昔街歩き(葛飾地図)

曳舟川と稲田

区民とのふれあいを求め、稲の一生を学びます。
その昔広大な水田が
ここを覆っていあた事を思いつつ、体験フィールドワークです。
 

 

  

 
掲出されていた稲の一生

 

 

 


田圃に入る水路

 


稲田の切り株
 

 


              区民のオアシス水田

 

曳舟川の稲田に関しては、
葛飾区郷土と天文博物館が中心となって、
田植え、草取り、収穫の農作業が行われている。

都市化した建物群のなかに、
代掻き田植えをし、秋になると黄金の穂を垂らす。

江戸の風景を思いつつ、区民にこよなく親しまれる曳舟川親水公園です。

 


郷土と天文博物館

 


 

 
葛飾区東立石 昭和10年頃の風景
葛飾区政80年写真展から

 葛飾区は灌漑の便がよく低湿地帯で大部分が水田として利用されていた。
米や蔬菜の栽培に終始し、葛西3万石の米どころと言われた江戸時代である。
                                                   (葛飾区の歴史から)

 

 

 

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