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◆生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。

2014年09月30日 16時14分46秒 | 聖書

(伝道者九・四)

いのちは尊い。それがどんなに卑しい形のものでも死よりはまさる。これは、霊的なことにおいてたしかに真理である。天国で最も小さい者となることは、天国の外で最大な者となるよりもまさる。恵みの最低の段階は、生まれ変わらない性質の最高の発展段階よりすぐれている。聖霊が神のいのちをたましいの中に植えつけられたところには、洗練された教育も匹敵できない尊いものがある。十字架上の犯罪人は、王座にいるカエサルにまさり、犬に囲まれるラザロは、元老院議員の中にいるキケロにまさり、さらに最も無学なクリスチャンは、神の目から見ればプラトンよりもまさっている。いのちは霊の領域において高貴さのしるしである。それをもっていない人々は、質の良い悪いにかかわらず、いずれもいのちのないものの実例であり、いのちを与えられる必要がある。彼らは咎と罪の中に死んでいるのだから。
生き生きとして愛に満ちている福音の説教は、無学で形式が整わなくても、聖霊の油と力のない最高に洗練された大講演にはるかにまさる。生きている犬は見張りをし、主人にとっては死んだ獅子よりも役に立つ。そのように最も貧弱な霊的説教者も、大雄弁家の、ことばがあっても知恵がなく、響きがあっても活力のないのに比べれば、どんなにすぐれているかわからない。私たちの祈りや礼拝についても同様である。もし私たちが、それらの中で聖霊によって力づけられているならば、神は、それをイエス・キリストによって受け入れてくださる。しかし、私たちの心のこもらない壮大な儀式は、死んだ獅子のようであり、生ける神の目から見れば、腐敗したしかばねにすぎない。
おお、いのちのない歌や、死んだ安静よりも、むしろ生きたうめき、生きた嘆息、生きた失望を得たい。どのようなものでも死よりはまさる。地獄の犬のうなり声は、少なくとも私たちの目を覚まさせる効果はもつ。しかし、人のもつことのできるのろいの中で、死んだ信仰と死んだ告白より大いなるものがあろうか。
おお、主よ。私たちを生かしてください。

 


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