祈りの課題をお預かりしてみんなでお祈り致しますのでお知らせ下さい。
すべての者が共にこれを見る。(イザヤ四〇・五)
私たちは、全世界がキリストのもとに帰る幸いな日を心待ちにしている。その時、異教の神々はもぐらやこうもりに投げやられ、三日月(イスラム教)は形を失い、その有害な光を再び諸国民の上に投ずることはない。諸国の王は平和の君の前に頭をたれ、すべての国民は贖い主を賛美する。
ある人々はこの話に失望する。彼らはこの世を、壊れ果てて再び浮かび上がらない船のようなものと見る。私たちは、世界とその中にあるすべてのものはいつの日にか焼き尽くされ、その後、新しい天と新しい地の来ることを知る。しかし私たちは、
「イエスは、大空を渡る太陽の
照らす限りを支配される」
という確信がなければ、聖書を読むことはできない。私たちは、主がおいでになるのが遅くても、失望はしない。主が教会に与えられた長い時の中で、私たちの戦いがほとんど成功せず、大部分が敗北であったとしても、私たちは落胆しない。私たちは信じる。神は、かつてキリストの血が流されたこの世界が、常に悪魔のとりでとなるのを決して放任されることはない、と。
キリストはこの世界を憎むべきやみの力から救うために来られた。人と天使が声を合わせて、「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた」と叫ぶのは、いかにすばらしい光景であろう。
その日、戦いに参加した者、敵の弓矢を折ることを助けた者、私たちの主が勝利を得られるのに力のあった者の満足は、どれほどであろう。この常勝の主に自らをゆだね、主と共に戦い、主の御名と御力によっていくぶんかでもなす者は幸いである! しかし、悪の味方となった人の不幸はどうであろう。それは、敗者の側にあり、永遠に敗北し、失われた者となる。あなたはどちらの側につくか。
しっかりした妻を
だれが見つけることができよう。
彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。(箴言三一10)
箴言三一章一〇―三一節までは、「しっかりした妻」というより、むしろすぐれた妻の姿が描かれています。マシュー・ヘンリーは、「貴婦人の姿見である」と解説しています。
悪妻を持つと、「六十年の不作」とも「七十年の不作」ともいいます。今は、一、二年の不作くらい、日本ではそれほど重大なことと感じないかもしれません。しかし昔は、冷夏が二、三年続くと、ばたばたと飢え死にする人が出ました。ですから、「七十年の不作」とは相当な意味があります。
聖書では、しっかりした妻は夫の冠だが、恥をもたらす妻は、夫の骨の中のくされだとさえ言っています(箴言一二4参照)。また、争い好きな女といっしょに住むのは長雨の時に、雨もりがする家に住むようだとか、そんな妻といっしょに住むより屋根のすみにうずくまっていたほうがいい、荒野にひそんでいたほうがましだとも書いてありました(箴言一九13、二一919参照)。江戸時代の庶民の残した都々逸にも、「夢でもいいから持ちたいものは金の成る木とよい女房」とあります。
いったい、よい女房・すぐれた妻とは、どういう婦人でしょうか。昔も今も、男の人は、美しくてかわいい人を好んできました。「男は度胸、女は愛きょう」と、昔から言い習わされています。しかし、この標準がいいか悪いかは、はっきりしていますか。ある人は、これは相対的なもので、こういう婦人がいいというより、一人一人の男に合った人がいいと言います。「つり合わぬは不縁のもと」ともいいます。また、「われなべにとじぶた」などということばもあります。
すぐれたよい妻とは、どんな人であって、どうしたら見つかるのか。――これは、興味ある大切な問題です。続いて箴言を見ていきましょう。
(Ⅱコリント八・九)
主イエス・キリストは、永遠に富み、栄光ある、尊いお方であられた。しかし、「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました」。富んでいる聖徒は、自分の財産をもって貧しい兄弟たちの必要を満たすのでなければ、彼らと真の交わりに入ることはできない。(肢体を支配するのと同じ法則が、かしらをも支配する。)それと同様に、私たちの主なる神は、そのあふれる富を与え、私たちを富ませるためにご自身が貧しくなられるのでなければ、私たちと親しく交わることは不可能だったのである。
もし主が栄光の御座にとどまり、私たちが主の救いを受けることなく、堕落の廃墟の中にいたとするならば、交わりはどちらの側にも不可能であったろう。ベリアルとキリストとに何の調和もないように、私たちは堕落の結果、恵みの契約なくして神と交わることは不可能となった。それゆえ、交わりをなすためには、富んだ贖い人が貧しい親族に財産を分けることが必要であった。また義である救い主が、罪を犯している兄弟に、その完全を分かち与え、私たちのようなあわれな罪人が、主の満ち足りた恵みを受け入れるようにすることが必要であった。
このように、与え、また受けることによって、一つは高きより下り、他は低きより上って、互いに真実な心からの交わりの中に入ることができる。貧しい者は無限の富をもたれる方との交わりに入る前に、その方によって富む者とされなければならない。たましいがきよい交わりをなす前に、内にある罪は、転嫁された義、与えられた義の中に消失しなければならない。イエスは、その民をご自身の衣で包むのでなければ、彼らを栄光の宮に迎え入れることができない。主との交わりに入るには、彼らはあまりにも汚れているために、主はご自身の血潮で洗わなければならなかった。
信者よ。ここに愛がある。あなたのために主イエスは「貧しく」なられた。それは、あなたが主との交わりに入れられるためであった。
16:19 彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、ひとりの人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。
サムソンは、デリラに自分の力の元を教えたからといって、彼女が自分の髪の毛を切るとは思っていなかったかもしれません。
ですから、デリラの膝の上でぐっすり寝たのです。
しかし、彼女はお金に目がくらんでいました。
愛よりも、お金であったのです。
彼女はペリシテ人の領主達を呼び寄せ、自分膝の上でサムソンを寝かせた後、一人の人を呼んで、彼の7つに編んでいた髪の毛を皆切り落とさせてしまいました。
ペリシテ人は、今度は容易にサムソンを捕らえることが出来ました。
彼の目をえぐり取り、盲目にしてしまいました。
また、足かせをつけて、彼をガザの町に連れて行き、そこで石臼を動かす奴隷として重労働につかせたのです。
こうして彼等は、もうサムソンによって煩わされることがないと思ったことでしょう。
したがって、また自分たちがイスラエルの民の上に力を及ぼすことが出来るようになったと思ったことでしょう。
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★ すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
■O:今日のコラム
火を支配する権威を持った御使いは、祭壇から出てきました。15章から出てくる7人の御使いは、それぞれに特定の権威を与えられているようです。
分かり易いのは、第二の御使いは海の水を血に変え、第三の御使いは、水源を害し、第四は太陽、第五は闇、第六はユーフラテス川、第七は地震。15章と8章を見比べてみてみると面白いですよ。
この七人は、特別な7人の御使いなのだと思います。
15章の6節には、彼らは光り輝く亜麻布を着ていた、とあります。下のフットノートを見ると亜麻布ではなく石と書かれているものもある、とあります。アメリカのスタンダードバイブルは、これを採用しているようです。
石とは、宝石を表していると思われます。エゼキエル書28章13節には、ルシファーの姿が書かれていますが、彼も9つの宝石で飾られていました。そして金の帯は(黙示録1章13節)によるとイエス様と同じ帯です。
それはさておき、当然といえば当然ですが、火は祭壇にあるのです。御使いは霊ですが、物質的にも霊的にも、火は祭壇にあるのです。私達が燃やされ、また燃やされ続けるには、祭壇が重要なのです。
祭壇は何をするところでしょう?
それは、いけにえを捧げるところです。新約の最も重要ないけにえは、自分自身です。あなたがたの体を生きた聖い供え物としなさい、とありますから。
私達は、「自分の中で、これだけは捧げられない」とすると完全燃焼することはできません。自分の体を捧げる者は、自分の全てを捧げるものです。
自分の全てを捧げる。シンプルなことですが、簡単なことではありません。しかし、自分は、この心を力強く持つ、ある決まった時間があります。それは、祈りの時間です。主に近づく者を、主は完全にお救いになられます。
■A:考えてみよう
燃やされ続けるために、今日も主の御前に近づいて行く時間を持ちましょう!
自分の全てを捧げましょう!
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。