座間コミニティー

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◆見よ。

2013年12月26日 15時51分14秒 | 聖書

わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ二八・二〇)

主イエスは、ご自身の教会の真ん中におられ、金の燭台の間を歩まれる。主の御約束は「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」である。現在もたしかにイエスは私たちと共におられる。肉体をもってではないが、まことにイエスは私たちと共におられる。
これは幸いな真理である。イエスがおられるところには愛が燃え上がるからである。この世のすべての人の心を燃え立たせるもののうち、イエスのご臨在にまさるものはない。主の香り高い御衣からしたたる没薬、アロエ、肉桂の香りさえ、病める者、弱い者を強くする。私たちがほんの一瞬でも主のあわれみ深い御胸に自分の頭をもたせかけ、主の御愛を私たちの貧しく冷たい心に受け入れるならば、私たちはもはや冷ややかでなく、セラフィムのように燃え立ち、あらゆる任務に耐え、どのような苦しみもいとわなくなる。
もし私たちが、イエスが共におられることを知るならば、私たちのすべての力は明らかにされ、すべての恵みは強められ、全心、全霊、全力を傾け尽くして主の御用に献身するであろう。ゆえに、キリストのご臨在こそ、すべてのものにまさって望ましい。
キリストのご臨在は、主に最もよく似た人々の中に実現される。もしあなたがキリストを見たいと思うなら、あなたはキリストに似た者にならなければならない。聖霊の力により、あなた自身をキリストの願い、動機、行動の方針と結び合わせなければならない。そうすれば、主に愛されるであろう。
主のご臨在が得られることを覚えよ。その御約束は昔も今も変わりなく真実である。主は、私たちと共にあることを喜ばれる。もし主がおいでにならないならば、それは、私たちが無関心によって主を妨げているからである。主は私たちの熱心な祈りに応えてご自身を現され、私たちの嘆願と涙によって、あわれみ深くも私たちのもとにとどまられる。なぜなら、これらは、イエスとその民を結び合わせる黄金の鎖だからである。

 


◆愛  と  献  身

2013年12月26日 07時31分32秒 | 聖書

夫の心は彼女を信頼し、
彼は「収益」に欠けることがない。
彼女は生きながらえている間、
共に良いことをし、悪いことをしない。(箴言三一11―12)

すばらしい妻の第一点として、夫が心から信頼できる妻、徹頭徹尾、夫に善意をもって仕える妻が語られています。
悪妻に悩まされている人も多くいます。「叱りゃすねるし、ぶちゃかみつくし……」と、江戸時代の端唄にいわれています。結婚生活二十六年目の人妻から、離婚の相談を受けました。「主人は、ごはんを食べる時、犬みたいにがつがつ食べるのです。もう我慢ができません。」「ご主人は、このごろそうなったのですか。」「いいえ、結婚した時からです。」その話を聞いて、背筋を冷たい風が通るような気がしました。
しかし、「私の妻はすばらしい」と心の底から感謝しているご主人も、案外多いことでしょう。結婚生活六十年にして妻に先立たれたある方は、彼女のために石碑を建てて、こう刻んだそうです。「彼女は常に家庭を幸福にしてくれた。」人間ですから、だれにも欠点はあります。「うちの女房、気がきかない。掃除がへたで料理がまずい。手がのろいし、口ベただ。」そんなことを言いながらも心の中では、この箴言のことばのように「うちの女房は真実だ。信頼できる。徹底的に、おれによかれと仕えてくれる」と、たいてい思っているのではないでしょうか。
そんなすばらしい夫人は、どこにいますか。どうしたら、そんなすばらしい夫人になれますか。
第一は生まれつきです。そして生まれつきは、神の賜物です。第二は、夫がつくります。どんな人でも、大切にすると大切な尊いものになります。夫の愛と真実が、よい妻・すばらしい妻をつくるのです。しかし第三に、神を恐れ、神を愛し、神から愛をいただいた女性は、だれでもすばらしい妻になれるのです。

 


◆最後のアダム……。

2013年12月26日 07時30分40秒 | 聖書

Ⅰコリント一五・四五)

イエスは、選ばれた者たちのかしらである。ちょうどアダムが、行いの律法の下にあって人類の契約の締結者であり代表者であったために、すべての血肉の子孫は彼と個人的関係をもったように、恵みの律法の下において、すべての贖われたたましいは、天から降られた主と一体である。なぜなら、主は第二のアダムであり、新しい契約の下において選ばれた者たちの保証人、あるいは代理人だからである。
ヘブル人への手紙の著者は、メルキゼデクがアブラハムに会ったとき、レビはアブラハムの腰の中にいたと言う。永遠の昔に恵みの契約が定められ、批准せられ、永遠に確定されたとき、信者がイエスの腰の中にいたことは確実な真理である。このように、イエスがなされたことはすべて、教会全体のためであった。私たちは主にあって十字架につけられ、主と共に葬られた。さらに驚くべきことに、私たちは主と共によみがえらされ、共に天の所に座らせられたのである。こうして、教会は律法を成就し、「愛する御子によって受け入れられた」のである。そして義であられる神は、満足して教会をご覧になるのである。なぜなら、神は教会をイエスにあって見るのであり、契約のかしらであるイエスと別なものとは見られないからである。
イスラエルの油注がれた贖い主であられるキリスト・イエスがもたれるもので、教会と関係ないものは一つでもなく、主の所有されるものはすべて教会のためのものである。アダムの義は、彼がそれをもち続ける限りは私たちのものであった。そして、アダムが罪を犯した瞬間に、彼の罪は私たちのものとなった。同様に、第二のアダムは私たちの代表であるため、第二のアダムとその行為はすべて、主のものであるとともに私たちのものである。ここに、恵みの契約の基礎がある。
殉教者ユスティノスは、この代表と身代わりの恵みに感動して、「おお、聖なる転換よ。甘美なる交換よ」と叫んだ。これこそ救いの福音の土台であり、強い信仰と無上の喜びをもって受け入れるべきものである。

 


士師記16章28-31節

2013年12月26日 07時29分22秒 | 聖書

16:28 サムソンは主に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」


 サムソンの目は、ペリシテ人によってえぐられていました。

彼は、復讐をしたいと思っていました。

そこで神様に、この一時でも私を強めてくださいと願いました。

自分で復讐をするということは、旧約の時代も新約の時代も、主の御心ではないと告げられています。

レビ記の19章18節では「 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。」と言われ、
また、ロマ書の12章19節では、「 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。」と、語られています。

ですから、サムソンがしようとすることは、本来良しとされることではありませんでした。

 しかし、神様は遊女と遊んだり、やたらと多くの人を殺したりして、縦横無尽な歩みをしてきたサムソンを受け入れてくださって、その願いを聞いてくださいました。

真に哀れみ深い方であることを知るのです。


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ゼカリヤ書12章3、8節 (黙示録16章)

2013年12月26日 07時27分06秒 | 聖書

 ★  その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう。

■O:今日のコラム

先月、シャロームでイスラエルに詳しいベンジャミン・オー先生がいらした時に、ユダヤ人、またイスラエルについて、このような事を言っていました。

「ユダヤ人、イスラエルを心に抱くことは、サボテンを抱くことだ。」と。。。

サボテンは抱くと、トゲが突き刺さって痛いですよね。それと同じく、ユダヤ人達を愛し続けていくことは、心がグザグサになるみたいです。

というのも、全員ではないですが、ユダヤ人たちは、異邦人である私たちとは関わりを持ちたくないので、異邦人には、冷たく扱うのです。けど、サボテンのトゲがない葉ってどうですか? 柔らかいですよね? それと同じように、ユダヤ人たちも、心を開いてくれると、ものすごく誠実な方々で優しいと言っていました。

今日の箇所にも、エルサレムが重い石となり、それをかつぐ者はひどく傷を受けると書かれています。ここの解釈は、多くの場合、エルサレムを攻撃する国々が重い石をかつぐ者であり、そのような国々は主から裁きを受け、ひどく傷を受けるというものです。

ですが、もう一つの解釈をしてみたいと思います。それは、エルサレムを私たちがかつぐ時、それは、私たちがエルサレムを愛し、エルサレムを担う時、私たちもひどく傷を受けるということです。

これからの時代、エルサレム、またイスラエルが、クリスチャン界だけではなく、一般的にもかなりの注目を浴びる時になってくるでしょう。聖書に預言されているように、多くの国々はエルサレム・イスラエルの敵になってきます。

それと同時に多くの人々、私たちの周りの方々も、イスラエルについて、強い意見を持つでしょう。今は遠く感じるイスラエル。
けど、イエス様の再臨に向けて、イスラエルは、一般の方々でも近く感じる話題になっていくと私は思います。

そして、サタンはメディアとかいろんな手を尽くし、人々にイスラエルは存在する必要がない、また、「イスラエルは、なんていう国だ!!!」という批判などを入れてくると思います。

その中で、皆さんは、イスラエル、エルサレムをどのようにかつぎますか?

主がかつぎ抱いているように、何があっても、エルサレムを愛し、守り、祈っていきますか?

そのように、主と共にエルサレムをかつぐなら、ひどく傷を受けますよ。なぜなら、周りがいろんな攻撃をしてくるし、サタンもこのような選択をした私たちをそのまま放っておくことはしないからです。それでも、主が愛したように、イスラエル、エルサレムを心に抱きますか?

■A:考えてみよう

今日、主の心を求めて祈っていきましょう。主がどのように、イスラエル、エルサレムを抱いているのかを、教えてもらいましょう。

私たちの力じゃ、彼らを愛し、また祈ることは到底無理なことです。だから、聖霊様に、天のお父さんの心が私たちに与えられることを祈り、それから、イスラエル、エルサレムの為に、とりなしていきましょう。

■P:祈り

主よ、私をあなたを愛しています! だから、あなたの心にあることを祈りたいし、あなたの心と同意したいです。あなたの瞳であるイスラエル、エルサレムについて教えてください。

周りが敵になったとしても、あなたを愛するがゆえに、あなたが愛しているものを愛していきたいです。

聖霊様、どうか、私の心を作り変えてください! そして、あなたが愛しているように、とりなしているように、私もイスラエルを愛しとりなしていきたいです。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。