座間コミニティー

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お帰りなさい

2013年12月10日 19時03分32秒 | その他

外は(仕事は)寒かったでしょう。

ホットウイスキーを

http://www.youtube.com/watch?v=DPYJ45ExNbw

http://www.youtube.com/watch?v=aT4iDWb09vo

http://www.youtube.com/watch?v=fYU0WEBn73o&feature=player_detailpage

http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=mF5Qq2YheTg

http://www.youtube.com/watch?v=kdfdjXtrxc4&feature=player_detailpage


◆主は彼女の心を開いて……。

2013年12月10日 15時46分00秒 | 聖書

(使徒一六・一四)

ルデヤの回心には、多くの興味深い点がある。
それは摂理によってもたらされた。彼女はテアテラ市の紫布の商人であった。しかし、折りよくピリピにいて、パウロの話を聞くことができた。恵みのしもべである摂理が、彼女をちょうどよい場所に導いた。
さらに、恵みは彼女のたましいを、祝福のために備えていた。――恵みが恵みのために備えをした。彼女は救い主を知らなかった。しかし、ユダヤ人であったので、イエスを知るためのステップとなる多くの真理を知っていた。彼女の回心には手段が用いられた。彼女は、安息日に、いつも祈る時刻に出かけた。そして、そこで祈りが聞かれたのである。決して恵みの手段(説教と聖礼典)を無視してはならない。私たちが神の家にいない時にも、神はたしかに私たちを祝福されるが、神の聖徒と交わっているとき、神に祝福されることを望むはるかに大きな理由をもつのである。
「主は彼女の心を開いて……」とあるのに注意せよ。彼女は自分で心を開いたのではなかった。また彼女の祈りがそれをしたのでも、パウロがそれをしたのでもなかった。私たちに平安を与えるものを受け入れるためには、主ご自身が私たちの心を開かなければならない。ただ主のみが、戸の鍵穴に鍵を差し入れて戸を開き、中に入ることがおできになる。主は心の造り主であられ、また心の主人であられる。
開かれた心の、最初の外面的な証拠は服従であった。ルデヤはイエスを信じると、すぐにバプテスマを受けた。神の子どもが、さばきを恐れる利己的な動機からではなく、主に対する従順と交わりから、救いには本質的でない命令に喜んで従うのは、その心が謙遜にされ、砕かれている証拠である。
また、次の証拠は愛であった。それは使徒たちに対する感謝の行為となって現れた。聖徒に対する愛は、常に真の回心者のしるしであった。キリストのため、その教会のため、何もしない者は、「開かれた」心の非常に心細い証拠を示しているにすぎない。
主よ。常に私に開かれた心を与えてください。

 


◆知恵ある者の祈り

2013年12月10日 07時06分02秒 | 聖書

二つのことをあなたにお願いします。
私が死なないうちに、それをかなえてください。
不信実と偽りとを私から遠ざけてください。
貧しさも富も私に与えず、
ただ、私に定められた分の食物で
私を養ってください。
私が食べ飽きて、あなたを否み、
「主とはだれだ。」と言わないために。
また、私が貧しくて、盗みをし、
私の神の御名を汚すことのないために。(箴言三〇7―9)

二つの祈りをかなえてあげようと神に言われたとしたら、あなたは何と祈るでしょうか。ギリシャのミダス王は「私の手が触るものを、みな金にしてください」と願って、身の破滅を招きました。
この箴言を記したアグルは、二つのことを祈りました。第一は、私が偽善者にならないで、いつも真実でいられるように、第二に、極端に富んだ人にしたり、極端に貧しくしたりせず、足りることを知って生きさせてくださるようにと願ったのです。すぐれた祈りだと思いませんか。よく調べると、この二つの願いには、三つのポイントがあると思います。
・ 不信実と偽りからの救い。
どんなにけがれ、挫折していても、本気で自分をさらけ出す真実さえあれば神の真実な愛のいのちに一〇〇%つながって、新しいいのちの道を再出発できます。悔いた魂の真実こそ、いのちにつながる断面なのです。
・ 飢え渇きを忘れた自己満足からの救い。
富みすぎて、神と、その愛といのちの力もいらないと思うようになったら、人間おしまいです。「主とはだれだ」とうそぶき、神に対して無関心になる時、人間の魂は死ぬのです。
・ 悪の誘惑からの救い。
イエス・キリストも、主の祈りの中で「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」(マタイ六13)と祈れと教えられました。神を離れる人は、いつ罪を犯すか分からない、小さい弱い者です。

 


◆このようにして、私たちは、

2013年12月10日 07時04分08秒 | 聖書

いつまでも主とともにいることになります。(Ⅰテサロニケ四・一七)

私たちが主のすばらしい訪問を受けることがあっても、それはなんと短く、はかないものであろう。私たちは主にまみえる時、表現できない喜びと栄光に満たされるが、しばらくすると主の御姿を見失う。なぜなら、私たちの愛する方は、私たちから身を引かれるからである。主は、かもしかや若い鹿のように山々をとび越えてかなたに行かれる。主はゆりの花の間で群れを飼うことをやめて、香料の国へ行かれるのである。
 もし今日、主が私たちを祝し
 罪赦されたとの感を与えられても
 明日はまた、私たちを悲しませ
 たましいに苦悩の感を与えられる
私たちが主を遠くから見るのでなく、顔と顔とを合わせて見る日を思うのは、なんと楽しいことであろう。その時、主は私たちを一夜の宿を求める旅人のようにではなく、とこしえにその栄光の胸に抱きしめられる。私たちはしばし主を見ないであろう。しかしやがて、
 私たちの驚きの目は
 永遠に救い主の美しさに注がれ
 私たちは絶えることなく
 主の奇しい愛をほめたたえる
天国においては心労や罪で煩わされず、涙のために目がかすむこともなく、地上の雑事が幸いな思いを乱すこともない。私たちは何ものにも妨げられず、疲れない目をもって、永遠に義の太陽を見つめるであろう。
もし時折主にまみえることさえ、この上なくすばらしいことであるとすれば、雲によって妨げられることなく、とこしえに御顔を拝し、再び悲しみの世を見ることのない状態に置かれるのは、なんと大いなる喜びだろう。幸いな日よ。いつそれは来るのか。沈むことのない太陽よ、昇れ。その時、たましいに大いなる改革のみわざがなされ、感覚的な喜びは私たちを離れ去る。もし死が主との不断の交わりに入ることであるとするならば、それは私たちにとって益である。その時、黒いしずくは勝利の大海にのみ込まれるのである。

 


士師記13章15-23節

2013年12月10日 07時02分30秒 | 聖書

13:18 主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」
13:19 そこでマノアは、子やぎと穀物のささげ物を取り、それを岩の上で主にささげた。主はマノアとその妻が見ているところで、不思議なことをされた。


マノアは主の使いに、その人の名前を聞きました。

主の使いは、単に、彼に対して自分の名前は「不思議という」と告げました。

そして彼等の見ている前で、不思議なことをされました。

それは20節をみますと、こう語られています。

「13:20 炎が祭壇から天に向かって上ったとき、マノアとその妻の見ているところで、主の使いは祭壇の炎の中を上って行った。」

それはまさに、夫妻が祭壇で犠牲をささげていた時、そこから上がった炎の中を主の使いが天に昇っていったという、不思議が示されたのです。
 
「その名を不思議という」というのは、人にとって不思議なことをしてくださるということです。

不思議ということは、思いもしなかったすばらしいこと、ということです。

神様はその様なことをして、人を助けてくださるのです。


ヨハネの黙示録4章1-2節(ゼパニヤ書1章)

2013年12月10日 07時00分18秒 | 聖書

 ★  その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、

■O:今日のコラム

ヨハネはさらに啓示を受けていきます。ラッパは預言の象徴であり、この声は、初めの声とあるので、イエス様の声です。主の言葉によってヨハネは天に引き上げられました。

啓示は御霊により、それは、天からの言葉です。『よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ。』(出エジプト記25章40節)ともある通り、高い所から受け取るともいえます。

主を待ち望む者は、新しく力を得、わしの様に翼をかって高く舞い上がることができます。そして高く舞い上がるからこそ、今まで見えなかったものが見え、今まで気づかなかったものに気づくようになります。

面倒なことを書きましたが、ここにそれらのために大切な、信仰者の姿勢があります。それは見るということです。

天に開いた一つの門の一つの解釈は、『私は門です』と言われるイエス様です。

神の御声を聞くため、主の啓示をより確かに受けるため、私達はイエス様を見つめ続ける事が大切です。それは、霊的な意味でであり、絶えずイエス様を意識し、敬い続けることです。イエス様という開かれた門を通して、私達は天からの良き物を受け取ることができます。

イエス様を見つめ続ける中に、主の恵みと力は、どれほど注がれるのでしょうか。信仰とは、どんな時にも、どんなことの背後にも、イエス様を見つめ続けることです。

私達は物質的な祝福や成功や奇跡が与えられると、そちらを見つめてしまいそうになります。それらを誇りたくなったり、それらに満足したり。そんな時も見つめるべきは、イエス様です。

■A:考えてみよう

イエス様を見つめ続ける歩みをし、日々の啓示を受け取る。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。