座間コミニティー

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◆わたしの民は、平和な住まい、

2013年12月09日 11時22分36秒 | 聖書

安全な家、安らかないこいの場に住む。(イザヤ三二・一八)

新生していない者には、平和と安心はない。それは、主の民の特別な所有であり、彼らのみに属するものである。平和の神は、ご自分に心を留めている者に対して、全き平和を与えられる。
人がまだ堕落していなかった時、神は人の安らかな憩いの場として、エデンの園の、花の咲き乱れたあずまやを与えられた。ああ、罪はなんと速やかに、この無心な者たちの美しい住まいを損なったことであろう。洪水が、罪ある人類を一掃して去った大いなる怒りの日に、選ばれた家族は箱舟の中で静かに守られていた。箱舟は彼らを、古い罪の世界から虹と契約の新しい地に運んだ。これは、私たちの救いの箱舟であられるイエスの型である。主が初子を打った時、イスラエル人は血潮を注いだエジプトの住まいにあって、安全であった。また荒野にあっては、雲の柱の陰と水のほとばしり出る岩が、疲れた旅人たちに快い安息を与えた。
今この時にも、私たちは神のみことばが真理と力とに満ちていることを知って、忠実な神の御約束に憩う。主のみことばの教義の中に憩う。それは慰めそのものである。私たちは、主の恵みの契約の中に憩う。それは喜びの港である。私たちは、アドラムのほら穴の中にいるダビデ、とうごまの下にいるヨナよりも、さらにまさる恵みを受けている。何ものも私たちの避け所に侵入したり、それを破壊したりできないからだ。
イエスのご人格は、その民の安らかな憩いの場である。そして私たちがパンを裂くことにより、みことばを聞くことにより、聖書を探ることにより、祈りにより、あるいは賛美により主に近づく時、その方法がどれであっても、結果として、私たちの霊に平安が与えられることを知る。
 私は愛のことばを聞き、血潮を見つめ
 力強い犠牲を見、神との平和を得る
 永遠の平和は主の御名のように確かで
 主の御座のように揺るがず
 とこしえに変わることがない

 


◆預けられたサイン入り小切手帳

2013年12月09日 08時24分29秒 | 聖書

神のことばは、すべて純粋。
神は拠り頼む者の盾。       (箴言三〇5)

人のことばには、偽りもあれば、間違いや思い違いもあります。クロロホルムの発見者ジェームズ・シンプソン博士といえば、当時、世界中の学者から尊敬と信頼を集めた学者でした。彼の甥のエジンバラ大学教授シンプソンのところへ、エジンバラ大学図書館から、「あなたの伯父さまの本を点検して、今では不要になったものを別に整理したいのですが、ご指導ください」との連絡がありました。甥のシンプソンは、よく調べた上で、こう言ったといいます。「十年以上たったものは、みんな抜き出して地下室へ移してください。」人のことばは、最も正確を期したことばであっても、十年たつと古びて当てにならなくなるのです。
ところが、聖書は違います。何千年も昔の古い書物なのに、一字一句ゆるがせにされず、古文書として扱われてはいません。神の誤りのない生きたことばとして、今も何千万何十億の人々の生活を生かし、力づけ、正し、導いているのです。驚くほかありません。イザヤ書はこう言います。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(四〇8)。イエス・キリストご自身は、こう言われました。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」(マタイ二四35)。
この私も、魂の苦悩やいろいろの悩みを通って、ある日、青天のへきれきのように、聖書のことばは「炉で七回もためされて、純化された銀よりも尊い、神の混じりけのない、きよい愛のことばだ」(詩篇一二6参照)と分かるようになりました。聖書は、私の魂を穴から救い出し、滅びから生かし、暗やみから光へ引き出し、私の偽善を両刃の剣のように鋭く映し出す、神のことばだったのです。それ以来聖書を、人生の教えの書どころではなく、神からそのまま預けられたサイン入りの小切手帳のように感じています。

 


◆それゆえ、

2013年12月09日 08時23分46秒 | 聖書

主はあなたがたに恵もうと待っておられ……。(イザヤ三〇・一八)

神はしばしば祈りに対する答えを延期される。聖書にはこの実例が幾つかある。ヤコブは、夜明けまで天使から祝福を得られなかった。彼はそのために夜を徹して格闘しなければならなかった。スロ・フェニキヤの貧しい女は、初めのうちは、一言の答えも得られなかった。パウロは「肉体のとげ」が取り去られるように三度も主に祈ったが、取り去られる保証は与えられず、その代わりに、「わたしの恵みは、あなたに対して十分である」との約束が与えられた。
恵みの門をたたき続けても、何の答えも得られないことがある。なぜ力強い創造主が戸を開いてあなたを中に入れてくださらないのか。父なる神は、このように私たちを待たせられる特別の理由をもたれる。
その一つは、神の力と主権を示すため、すなわち、主は与え、主は取られる権利をもつことを人々に知らせるためである。多くの場合、遅延は私たちにとって益となる。神は、遅延があなたの願望をさらに強いものとすることをよく知っておられる。私たちはこれにより、自分の必要をもう一度明確に自覚し、さらに熱心に求めるようになり、恵みの尊さをいっそう身にしみて感じるようになるのである。
別の理由としては、あなたのうちに何か悪いものがあって、主の喜びを与えられる前にそれが取り去られる必要のあることが考えられる。あるいは、神の福音のご計画についてのあなたの考えが混乱しているためかもしれない。あるいはあなたが、単純かつ全面的に主イエスにより頼むことをしないで、ある程度自分自身に頼っているためかもしれない。そのほか、神は最後にご自分の恵みの富をさらにあなたに示すため、その答えをしばらく猶予しておられるのかもしれない。
しかしあなたの祈りは、天においてことごとく記録されていて、絶対に忘れ去られることはない。ただちに答えられないにしても、やがては必ず答えられて、喜びと満足をもたらすであろう。失望して沈黙することなく、熱心な嘆願を執拗に継続しようではないか。

 


士師記13章8-14節

2013年12月09日 08時22分18秒 | 聖書

13:8 そこで、マノアは主に願って言った。「ああ、主よ。どうぞ、あなたが遣わされたあの神の人をまた、私たちのところに来させてください。私たちが、生まれて来る子に、何をすればよいか、教えてください。」


 マノアは、妻が主の恵みによって子供を授かるということを知りました。

しかし、その子が主に用いられる者となるということも、同時に知らされました。

そこでマノアは、改めて主に願って、その召しに答える子供となるために、自分たちは何をしたら良いのかと聞きました。

そこで主は、主の使いを遣わして、彼等がなすべき事を語りました。

 それは妻に対してすでに告げたこと、すなわち、葡萄酒や強い酒を飲まないこと、また主によって汚れたものとされている物を一切食べないということでした。

子供もそれぞれ、将来の働きは違います。

それにもかかわらず、それぞれ子供を育てていく時に、注意すべき事があります。

ここでは、そのことを聞いているのです。

私たちも主の前に、御言葉から、子供を育てる時の注意を聞くべきなのです。



ヨハネの黙示録3章17節(ハバクク書3章)

2013年12月09日 08時20分27秒 | 聖書

 ★  あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

■O:今日のコラム

黙示録2-3章には、7つの教会に向けた、主からのメッセージが書かれています。また、これらは現代の教会や信仰者たちへの預言的メッセージでもあります。

冒頭のみことばにあるように、7つ目のラオデキヤの教会は、イエス様から厳しくいさめられています。

当時のラオデキヤの教会は、交易路に面した裕福な都市にあり、経済的な豊かさを誇っていました。

しかし、この教会は、もはや主と共に戦う教会ではありませんでした。

鈍く、生ぬるく、無関心な状態にありながら、自分たちの現状には気づいておらず、イエス様が教会の外に立っておられると言われるほど、信仰的に堕落し、悔い改めが必要な状態にありました。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(20節)

5つ目のサルデスの教会と同様に、このラオデキヤの教会は、「私たちは順調だ、何の問題もない」と思い込んでいました。自分たちの豊かさを誇ってさえいました。

ところが実際には、教会はみじめで、哀れで、貧しく、盲目で、裸のような状態だったのです。

ラオデキヤの教会へのイエス様の言葉は、2章にあるスミルナの教会への言葉とは正反対のものでした。

スミルナの教会は、外側からは貧しく惨めに見えましたが、実際には豊かでした。

それは、苦しみと貧しさという試練の中で、金より尊い主への信仰を彼らが抱き続けていたからです。(「スミルナ」とは、英語で「Smyrna」、意味は「Myrrh」、「没薬(もつやく)」という意味です。クリスチャンがイエス様のために苦しみ、迫害に会う時、それは、何よりも香ばしい香油を放ちます!)

ラオデキヤの教会はイエス様にとって口から吐き出したくなるほど役に立たない教会でした。それは、冷たくも熱くもありませんでした。

冷たい水には、それならではの大切な用途がありますし(熱中症の時には冷たい水が必要ですよね)、熱い水の場合も同様です。

しかし、置きっぱなしになった生ぬるい水は、使い道がありません。当時の理解では、生ぬるい水を飲むと健康を害するという理解があったそうです。

ラオデキヤの教会はまさにこの生ぬるい水のような教会でした。

それは味気がなくなり、神様から与えられている使命を果たすことが出来なくなった教会の姿です。

現代の教会の多くは、このラオデキヤの教会であると言えるかもしれません。

豊かで物が十分に溢れているので、イエス様に頼らなくてもなんとなく生活出来てしまうのです。教会よりも世の方が魅力的に思えるものが溢れているので、主を熱心に求めることもしなくなるのです。

この終わりの時代にある大きな誘惑は、生ぬるさ、というものです。

しかし私達は、この生ぬるさから抜けだして、熱心な悔い改めを持って主を求めましょう。

富よりも金よりも尊い信仰を抱き続けましょう。

衣を水で何度も何度も洗うことで真っ白にするように、御言葉を何度も何度も繰り返し味わい、聖められる事を求め続けましょう。

悪がはびこる終わりの時代にあって、絶えず真理の目が開かれ続けるように、目に塗る目薬を主から買いましょう。

飢え渇いて聖霊様を求め、日々新しく作り変えられ続けましょう。

そうする時に必ずこれから起こる大リバイバルの時に、私たちは、それを担うために十分に役立つ器となる事が出来ると信じます!

■A:考えてみよう

鍋の中に入れたカエルは水がだんだん熱くなってもそれに気づくことはありません。しかし、一定の温度以上になると、カエルはどうにもできず、徐々に死んでいきます。

これと同じように、私たち人間も、「豊かさ」という鍋の中で、霊的に衰弱し、気がつかないうちにイエス様を自分の生活の外に追い出してしまう危険性があります。

神様との関係を回復しないままの人は、生きていても死んでいる状態です。この朝、悔い改めをもって熱心に主を求めよう。

■P:祈り

主よ。私こそが主の口から吐き出されるような生ぬるい者です。熱心になって悔い改めます。

もう一度、初恋の情熱をもって主を愛します。永遠に私を主の心臓の中に留まらせてください。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。