座間コミニティー

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◆そのとき、

2013年12月05日 19時48分30秒 | 聖書

主は四人の職人を私に見せてくださった。(ゼカリヤ一・二〇)

この章に記されている幻の中で、預言者は四つの恐ろしい角を見た。その角は方々へ突進して、最も強い者、最も力ある者を倒していた。そこで預言者が「これらは何ですか」と尋ねると、「これらは、ユダとイスラエルとエルサレムを散らした角だ」という答えであった。彼は、神の教会を圧迫する力の象徴を目の前に見た。角は四つあった。教会は四方から攻撃されていたからである。預言者がろうばいしたのも無理はない。しかし、突然彼の前に四人の職人が現れた。彼は「この者たちは、何をしに来たのですか」と尋ねた。神はそれらの角を粉砕するためにこれらの人々を見いだされたのである。
神は常にそのみわざに必要な人々を見いだされる。しかもちょうど必要な時にである。預言者は何もすることがない時に、まず職人を見たのではない。まず「角」を見、そして「職人」を見たのであった。しかも、主は十分な人数を見いだされる。主は三人の職人ではなく四人の職人を見いだされた。角は四つあった。職人も四人でなければならない。神はまた適材を見いだされた。字を書くためにペンを持つ四人の者でも、設計図をひく四人の建築家でもなかった。神は荒っぽい仕事をする四人の職人を見いだされたのである。
安心せよ。神の箱舟のことを気遣う者たちよ。「角」が暴威を振るう時には、「職人」が見いだされる。どんな時にも、あなたは神の教会が弱いといって気を落とす必要はない。諸国民をゆさぶる勇敢な改革者が、ひそやかに成長しているかもしれない。貧しい人たちの中から、聖人が現れるかもしれない。主はしもべを見いだす場所を知っておられる。彼は無数の強い兵士を待ち伏せさせておられる。主の命令の一声で、彼らは戦いに出て行く。なぜなら、「この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから」である。そして主はご自身に勝利をもたらされる。
私たちは忠実な主に従っていよう。そうすれば、教会の危機にも、私たちの個人的な必要にも、神は折りにかなう守りを私たちのために起こしてくださる。

 


◆根  の  生  活

2013年12月05日 07時10分58秒 | 聖書

しもべをことばだけで戒めることはできない。
彼はそれがわかっても、反応がない。(箴言二九19)

部下の中には知恵のある者もいようが、愚かな者もいて、ことばだけでは分からない。むちで、こらしめて教えなければだめだという意味かもしれません。
しかし、人の上に立つ者が、いやおうなく体験することは、自分の子どもにしても、部下にしても、兵隊にしても、口先だけの命令や教えでは、けっして動かないということです。昔、軍律のきびしかった日本の軍隊でも、戦場で味方の兵に撃たれたきらわれ者の将校があったと聞きます。上に立つ者として、人をほんとうに動員することができる、育てることができる、教えることができる、訓練できるようになるために、必要なものは何でしょうか。
それはその人のことばではなく、ことばを裏づける生活・いのち・心の実態ではありませんか。大切なのは、人に聞かせる口先のことばではありません。人に見せる行為でもないのです。イエス・キリストは、人に見せたり聞かせたりするためにパリサイ人たちが街頭で行った長い祈りや施しや断食をきらわれ、そんなことは人の見ていないかくれたところでしなさいと言われました。
そうです。人に見られない、私たちのかくれた生活、――実は、これが人生の根なのです。人の目に、根は触れません。この根のような生活の部分が、人生を支え、人生をつくりあげ、人生の力の源となっています。ですから、ほんとうに人の上に立ち、人を動かすことができるようになりたいと思うなら、このかくれた根の生活を大切にしなければなりません。人の上に立つ者の力の源は、ここにあります。
あなたの人生の根の部分は、どうなっているでしょうか。

 


◆求めなさい。

2013年12月05日 07時10分08秒 | 聖書

そうすれば与えられます。(マタイ七・七)

英国には、だれでも希望するならパンをもらえる所がある。旅行者はだれであろうと、セント・クロス病院の戸をたたきさえするならば、いつでもそこにパンが用意されている。イエス・キリストもこよなく罪人を愛され、同じようにセント・クロス病院を建てられた。そのため罪人は、飢える時にはいつでもただその戸をたたきさえすれば、その必要を満たされる。
イエスはさらによいことをされた。主はそのセント・クロス病院に浴場を備えられたのである。黒く汚れたたましいは、いつでもただその浴場に行って入浴しさえすればよい。その霊泉は常に満々とたたえられていて、著しい効力を発揮する。これに浴した罪人の中で、その汚れを洗い落とすことのできなかった者は一人もいない。深紅の罪もすべて消え去り、罪人は雪よりも白くなる。
なお、これでもまだ十分でないかのように、主のセント・クロス病院には衣装部屋がある。そして、単純に罪人として申し出た者には、頭から爪先まで新しい衣が与えられる。彼がもし兵士になることを望むなら、普通の衣だけでなく、足の裏から頭の先までの武具をも与えられる。剣を求めるなら、それに添えて盾も与えられる。彼にとってよいものは何一つ拒まれることはない。彼の生きている限り、必要な金銭も供給され、さらに主の喜びに入る時には、光栄ある永遠の資産を受け継ぐ者とされるのである。
もしこれらのすべてのものが、単に恵みの戸をたたくことによって得られるとすれば、私のたましいよ、今朝、強く戸をたたけ。そして、恵み深い主に大いなることを求めよ。すべてのおまえの必要を主の前にくり広げ、信仰によって、これらのすべてが満たされたという確信が訪れるまで、恵みの御座を離れるな。イエスが招かれるゆえにためらうな。イエスが約束しておられるのであるから、不信仰によって妨げられるな。このような祝福が与えられようとしているのに、なお冷ややかな態度をもってそれを見過ごしてはならない。

 


士師記12章1-7節

2013年12月05日 07時08分48秒 | 聖書

12:1 エフライム人が集まって、ツァフォンへ進んだとき、彼らはエフタに言った。「なぜ、あなたは、あなたとともに行くように私たちに呼びかけずに、進んで行ってアモン人と戦ったのか。私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う。」


アモン人の所に行って戦いに勝ったエフタに対して、文句を言った部族がいました。

それはエフライムの部族でした。

彼等は大きな力ある部族でした。

それなのに、自分たちを無視して戦いに同行させなかったエフタにつぶやいたのです。

彼等にとっては、メンツをつぶされた思いであったようです。

これに対してエフタは、以前そのような求めをした時に、一緒に来てくれなかったという理由があることを告げました。

しかし、そのことに納得をしない彼等は、その力に依存してエフタに戦いを挑みました。

その結果、彼は自分の民であるギルアデの人々と一緒に戦い、また彼等の知恵に助けられて、エフライムの人々に打ち勝ちました。

 彼の生涯は、主に対して取引するのではなく、主に信頼することが大切であることを教えられた生涯でした。



ペテロの手紙 第二 2章19b-20節 (ナホム書2章)

2013年12月05日 07時07分10秒 | 聖書

 ★  人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。

■O:今日のコラム

私たちは今、何に、または、誰に征服されているでしょうか? 言い方を変えれば、私たちの心、時間を何に費やしていますか?

ここでペテロは、征服されるってことは、その奴隷になることだって言っています。

パウロもまったく同じことをローマ人への手紙6章16節で書いています。

「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷になって義に至るのです。」

仕事、上司、家族、食べ物、遊び、etc...
いろんな事、また、人が私たちを征服したり、自分の弱さのゆえに、征服されたりします。

そうすると、私たちの時間や心は、その事や人に費やされていきますよね?
実際的な奴隷もそうですよね? 自分の時間なんてありませんよね?

私たちが何に時間を費やしているのか、何に心を使っているのかによって、その奴隷となってしまっています。

パウロは「義の奴隷になろう」って言っています。(ローマ人への手紙6章19節)

義とは、イエス様のことです。だから、イエス様の奴隷になるってことです! 奴隷ってちょっと言い方がきついですけど、言い換えると「ここに私はおります。どうぞ、あなたが導いてください。」と従順することです。

■A:考えてみよう

皆さんは、何に、誰に征服されていますか?

イエス様に征服されていますか? イエス様で心がいっぱいになっていますか?

イエス様に征服されることを願うのであれば、そのお方と時間を共に過ごそう!!

■P:祈り

イエス様、私を征服してください! 私をあなたのものとしてください。

私はここにいます。どうぞ、あなたがなさいたい事をしてください。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。