座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆彼らは、主の恵みと、

2013年12月01日 15時51分32秒 | 聖書

人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。(詩篇一〇七・八)

もし私たちが不平を少なくし、賛美を多くしたら、もっと幸福になり、さらに神の栄光がたたえられることになるであろう。私たちは日ごとに、神のごく一般的な恵みを賛美しようではないか。神のごく一般的な恵み、それはきわめて貴重なものであり、それが奪われる時、私たちはすぐに滅びる。私たちの太陽を見る目、外を歩む健康と力、食するパン、着る衣服のゆえに神をあがめよう。私たちが望みなき者たちの中に入れられず、有罪とされる者たちの中に閉じ込められていないことを覚えて、神をたたえよう。自分に与えられた自由、友人、家族、そして慰めのゆえに神に感謝しよう。神の恵み深い御手より受けたすべてのもののために神をたたえよう。私たちはそれに値しない者であるのに、豊かに与えられているからである。
しかし、愛する者よ。私たちの賛美の歌のうち、最も楽しく調子の高いのは、贖いの愛の歌である。選ばれた者たちに対する神の贖いのみわざは、とこしえに、彼らの最も愛好する賛美の主題である。もし私たちが贖いの意味するところを知っているなら、感謝の歌をさしひかえないようにしよう。私たちは自らの腐敗の力から贖い出され、生まれながら投げ込まれていた罪の底から引き上げられた。私たちは、キリストの十字架に導かれた。私たちの罪のかせは破壊され、私たちはもはや奴隷ではなく、生きておられる神の子どもであり、しみや、しわや、そのようなものの何一つない状態で、御座の前に立たせられる時を楽しみ待つことができる。今でも、信仰によって、私たちはしゅろの枝を振り、私たちのとこしえの衣服である亜麻布をまとっている。
私たちは、私たちの主、贖い主に対して、不断の感謝をささげなくてよいだろうか。神の子どもよ。栄光の相続人よ。沈黙していることができるか。新しい月を新しい歌をもって始めよう。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」

 


◆知恵という消化酵素

2013年12月01日 08時19分58秒 | 聖書

愚かな者は怒りをぶちまける。
しかし知恵のある者はそれを内におさめる。(箴言二九11)

昔読んだ本の中にあった話です。ある青年武士は、「百足おくれ」というあだ名で呼ばれ、ばかにされていました。今のことばでいえば「蛍光灯」でしょう。ぽかりと頭をたたかれて、三日たってから痛いと言います。どんなに公衆の面前ではずかしめを受けても怒らず、どんなことをされても怒鳴りません。ところが相手が忘れたころになって、「あの時はどういうわけで、あのように拙者をはずかしめられたのですか。教えてください」と言うことがあります。
実はその青年は、以前は人一倍かんしゃく持ちだったのです。そこで、一人の老人に教えを請いました。その老人は、このように言ったということです。「人は死ぬまで生きるだよ。何をされても怒るでねえ。怒りたくなったら、三日我慢しろ。三日たってもまだ怒りたかったら、三月我慢しろ。それでだめだったら三年我慢しろ。それでだめだったら、まあ怒ってもええ。」この武士は、まじめにそれを実行したのでした。
ところが、怒りを三日、三か月、三か年と内に収めておくと、人の心の中には知恵という消化酵素があるので、大部分は消化吸収して、自分の栄養にしてしまいます。そして、消化できないものは、いつの間にか排泄してしまうわけです。「百足おくれ」の青年武士は、他の仲間がぐれたり背いて討たれたりしていく中で、藩の中で側用人として重く用いられるようになったという話でした。
人の上に立つ人は、愛と信仰という、この知恵の消化酵素を働かせて、怒りを内側で消化しなければなりません。いっしょになって怒ったり怒鳴ったりしても、家庭も社会も国も治まるはずがありません。神を恐れる知恵を持ち、人を愛し、人を信じる力を神からいただく人こそ、自分を治め、人をも治められる人ではないでしょうか。

 


◆あなたは……

2013年12月01日 08時19分06秒 | 聖書

夏と冬とを造られました。(詩篇七四・一七)

私のたましいよ。この冬の月をおまえの神と共に始めよ。冷たい雪、肌をさす風はすべて、神が日夜契約を守られる方であることを思い起こさせ、また神が、キリスト・イエスのご人格においてなされた恵みの契約を守られる方であることを確信させる。このあわれな罪に汚れた世界にも、四季の運行を誤ることがないほどみことばに忠実な神が、ご自身の愛される御子における契約に不誠実であられるはずがない。
たましいの冬は決して心地よい季節ではない。あなたが今それを経験しているならば、非常につらいであろう。しかし、ここに慰めがある。すなわち、それを造られたのは主であるということである。主は、鋭い逆境の風を送って、希望のつぼみをつみ取り、私たちの喜びの緑の牧草地に白い霜を灰のようにまき散らされる。主は氷を食物の一片のように投げて、私たちの喜びの流れを凍結される。これらすべてをなされるのは主である。主は偉大な冬の王であられる。だからあなたはつぶやくことはできない。損失、試練、重荷、病気、貧困、その他の数えきれない苦難は、主の送られたものであり、その賢明なご計画のもとに私たちのところに来たのである。霜は害虫を殺し、病毒を断ち、堅い土を砕き、地をやわらかにする。ああ、このようなよい結果が、私たちの苦難の冬の後にももたらされますように。
今はなんと火が尊い時であろう。燃えさかる火は心地よい。同様に私たちは、あらゆる悩みの時においても、不断の暖かさと慰めの源泉となられる主を尊ぼうではないか。主を信じ、主のうちに喜びと平安を見いだそうではないか。主の約束の暖かい衣に私たちの体を包んで、この季節にふさわしい労働に出ていこう。なぜなら、寒さのゆえに耕すことを怠るのは悪であるから。このような人は、夏が来れば無一物となって、人々に施しを請うようになるであろう。

 


士師記11章26-28節

2013年12月01日 08時17分14秒 | 聖書

11:27 「私はあなたに罪を犯してはいないのに、あなたは私に戦いをいどんで、私に害を加えようとしている。審判者である主が、きょう、イスラエル人とアモン人との間をさばいてくださるように。」


エフタは、さらにアモン人の王に言いました。

先祖の時からすでに300年もたっているのに、何故今頃になってこのようなことを言い出すのかと問うたのです。

 彼に取っては、このアモン人の王の言い分は、自分たちが力を持ったので、この地を奪い返そうとしている、そうした姿勢にしか映らなかったことを見るのです。

 そこで彼は、自分が正しいのか、それともアモン人の王の言い分が正しいのか、主に審判を委ねると告げたのです。

しかし王は、エフタが語ったすべての言葉に耳を傾けようとはしなかったと伝えています。

戦いというのは、自分でしたくはなくても、相手がしかけてくることによってなさざるを得なくなることがあります。

しかしその時にも、単に戦うというのではなくて、相手の言い分を聞き、またこちらの意見も語って、なお話し合うということの大切さを、エフタは実践したのです。



ペテロの手紙 第一 4章7節(ミカ書6章)

2013年12月01日 08時15分29秒 | 聖書

★  万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために心を整え身を慎みなさい。

■O:今日のコラム

こないだ、ある方の証を聞きました。ある時期に、祈っても祈っても、どうにもこうにも祈れなくなり、祈ってもなんだか天井があるような、異言も出てこないような、霊に蓋をしてしまったような感覚だったときがあったと聞きました。

それが何年も続き、あまりにも辛いので、「あと一ヶ月でなにもわからなかったら、クリスチャンを辞めます」と祈ったそうです。

しかし、その一ヵ月後に礼拝の中のミニストリーで、牧師先生を通して、神様から「わたしはあなたの中学生のときに契約を結んだ」という言葉があったそうです。

そして、記憶を辿ると確かに教会学校の時間に信仰告白を教会学校の先生の言葉のあとについて言っていたことを思い出したそうです。そのとき、その方は自分がいくら離れてしまっても祈れなくても、神様はとことん一方的に自分を覚えていてくださることを知ったそうです。

■A:考えてみよう

今日の御言葉には「心を整え」とありますが、「きちんと身じたくを整え、あかりをともしていなさい。(ルカによる福音書12章35節)」、「朝明けに、わたしはあなたのために備えをし、見張りをいたします。(詩篇5篇3節)」と、花嫁が主人を待つ姿が書かれているルカ12章や詩篇にも「備え」や「整え」といった言葉が使われているのを見つけました。

「あかりをともす」ことや「見張り」が賛美と祈りであるなら、「整え」や「備え」は、感情や気分に左右されてしまう魂をみことばでいっぱいにし、霊と魂ともに主を待ち望むことだと思わされました。

神様がどれだけ遠くに思え、現実がめちゃくちゃな方向に向かっているように見えても、冷静にイエス様が主であること、イエス様が十字架にかかったことですべての罪は許されたこと、

自分の一人子さえ十字架につけるほどに私たちを愛している全知全能の神が今も生きて働いていること、そしてイエス様が花婿として私たちに目を常に向けていてくださっているという真実に、みことばを通して、目を留め続けられることができるように祈ります。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。