この日は会の春のイベントだったのだが遅れに遅れているスケジュールを消化するためにはお付き合いなど無理であって保全作業が最優先である。まあ、イベントでは一人欠けても影響は無いけれど保全作業は一人欠けたら全滅なのであるからして仕方がない。
さて、ようやく開始した泥浚い、前日は上の池の泥溜まりだけをそそくさと済ませこの日は林接池の浚渫である。この池はタカネトンボの発生源となるように環境を整えてきた結果、ようやく定着して繁殖が確認されてきたところなので環境維持のためにも手入れは欠かせない。出水すれば泥土の流入で浅くなるし周囲の堤は威之志士様の跋扈蹂躙に遭う環境なので堤を盛れば盛る程、掘り崩される格好である。ましてや泥浚いで落ち葉や枯れ枝のたっぷり混じった泥を堤に盛れば、これはこれで格好の跋扈蹂躙のプレイランドになる事は泥を見る前からのお約束でもあるけれど、三途の河原の石積みと同じく力尽きるまで続けなければならないのが環境保全でもある。
まあ、姥捨て山は三途の河原脇におわしますゆえに何よりも受容と諦観が重要だ。それなくしては「やってらんない~っ!」とちゃぶ台返しになってしまいかねない。銭金はあの世にも地獄にも持っては行けないが、この環境も携行する訳にもいかず所有者の無い銭金金品は日を置かずして雲散霧消してしまうこの世、フイールド環境も全く同質で野となり藪となるのだし、だからこそ汗水たらして四苦八苦し続ける事で豊かさが涵養・維持されるのであって、かくして自転車操業・水商売は続く。
さてさて、まあまあ、我が人生の終末期、溜まり続ける泥土を浚い続ける我が人生の終末期などは夢想にもしなかったのだったがまあ、夢精はとうに無く無声氏はとうに去って、我が心筋骨格、五臓六腑の悲鳴や叫びはあの絵のように無声のままでも植生のそよぎと生物の相聞歌になって展開しておるわいな。「千の風」にはならずとも「千の相聞歌」のリアルの方がなんぼか良く眼福耳福と言うべきだろう。と妄想の果て、あの絵の表情は恐怖や苦悩ではない驚愕の驚きで歓喜爆発の寸前と思った方が鑑賞者の幸福である。