中山道大湫(おおくて)宿は江戸日本橋から数えて47番目の宿。現在の岐阜県瑞浪市大湫町に当時の面影が残る▼旧宿場で語り継がれる出来事は1861年、徳川14代将軍家茂に嫁ぐ皇女和宮らの宿泊である。京からの一行は約5千人。宿場に招集された人馬は2万8千人と820頭に上った。4日間にわたって大湫宿に泊まったという比類なき大行列である▼53年のペリー来航以来、世は騒がしくなった。外敵と向きあうため朝廷と幕府が団結しようと、別に婚約者がいた和宮を将軍家に嫁がせることに。国策たる結婚である▼現代の国策たるリニア中央新幹線が地下を通過する予定の旧大湫宿で、井戸やため池の水位低下が相次いでいる。昔、旅人も飲んだ古い井戸も枯れたと聞く。リニア建設工事の影響らしい▼JR東海は代替水源となる深い井戸を掘り、トンネル掘削を一定程度進めてから工事を中断して詳しい原因を調べるというが、水位低下が見つかったのは2月。最近になって問題が報じられてから、バタバタと対策が示されたようにも映り「対応が遅い」といった声が地元で聞こえる。喫緊の課題は不信解消か▼国難を前に、江戸で生きる決意をした和宮の歌は知られる。「惜しまじな君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」。民らのため惜しむものなどない-。古今を問わず民の心を捉えるのは、そんな態度だろう。
日本人を「米食民族」と呼ぶことがあるが、むしろ「米食悲願民族」と呼ぶのが正しい。稲作文化に詳しい渡部(わたべ)忠世さんが著書で語っていた。長い歴史で皆が常に米を食べられる時代は最近に限られる。民は長く、もっと食べたいと渇望してきたという▼なるほど米は年貢であり、武士への給料であり、権力の基盤であったが、農家でも白米は特別な日のごちそうだったと聞く。一回でも多く食べたいと願う私たちの祖先は可能な限り田を開いた。山の斜面の棚田は、日本人の米への執着の象徴らしい▼奥能登・輪島の日本海沿いの棚田「白米千枚田(しろよねせんまいだ)」で田植えが始まった。地震で亀裂が入るなどしたが、1004枚のうち被災を免れたり修復したりした約120枚で植える▼作業をする地元有志団体の代表は田植え開始の式でマイクを握ると、途中で言葉を詰まらせた。寛永期に用水が開かれたという千枚田。今年も何とか伝統をつなぎ、思いがこみ上げたか▼千枚田に限らず奥能登の田の被害は大きいが、今年は無理でも来年はと修復に励む農家がいる。米への執着が絶えぬ人の存在に希望を見出(みいだ)したくなる▼渡部さんの本によると昔、海を望む佐渡の棚田を守る老人は「田植えの日は酒や餅などを供え、田を開いた知る限りの先祖の名を空と海に向かって叫ぶ」と語ったという。奥能登のご先祖様たちも見てくれているだろうか。
ベトナム戦争時、ナパーム弾の誤爆で服を焼かれ、裸で逃げる9歳の少女の写真が撮られ、優れた報道を称(たた)えるピュリツァー賞に選ばれた。世界の反戦機運を高めた1枚である▼撮影はベトナム出身の21歳のAP通信写真記者ニック・ウト氏。少女はやけどがひどく、撮影をやめバンに乗せ病院へ。命は助かった▼ニック氏にはAPの写真記者の兄がいたが、戦争取材中に27歳で死亡。遺志を継ぎ同じ道に進んだ(藤えりか『「ナパーム弾の少女」五〇年の物語』)▼今年のピュリツァー賞の特別賞に、特定の社や個人ではなくパレスチナ自治区ガザ情勢を取材する全ての記者らが選ばれた。「悲惨な状況下での勇敢な功績」があったという▼昨年12月配信の共同通信ガザ通信員ハッサン・エスドゥーディー氏の手記でも状況は分かる。20代。ガザで取材しエルサレム支局に伝える仕事で両親や兄もガザにいる。「16階にあるオフィスの窓からは空爆の炎や黒煙が見え、市民の泣き叫ぶ声が響く」。殉職した同業者もいる。さらに数カ月たち状況は深刻化したことだろう▼ニック氏の兄は生前、過酷な現実を写真で世界に伝えベトナムに平和を、と願った。ニック氏はナパーム弾の現場を撮った際に「この写真で、今度こそ戦争を終わらせてほしい」と言われた気がしたという。ガザにはあとどれぐらい、写真や記事が必要なのだろう。
水俣病患者らが損害賠償を求める熊本地裁の第1回口頭弁論(1969年)で、裁判長は原告側の最前列にいた当時13歳の女性胎児性患者に法廷の秩序を乱したとして退廷を命じた。理由は声だった▼生まれつき話せぬ娘さんはあー、あーと声を出したそうだ。水俣病問題に取り組んだ作家の石牟礼道子さんが退廷は間違っていると書いた。その声こそが患者の置かれている現実。「唄だったかもしれぬ。泣き声だったかもしれぬ」。まぎれもなくその声はこの法廷にふさわしい声だったのに-と▼水俣の「声」をめぐる最近の国の仕打ちがやりきれぬ。水俣患者・被害者団体と伊藤信太郎環境相との懇談で被害者側の発言中、環境省の職員が一方的にマイクの音を切ったという。声を消した▼1団体3分間の発言時間を超過したためと環境省は説明する。時間に限りはあろうが、消したのは病の苦しさや、亡くなった家族を思う言葉の数々である。3分ではおよそ語り尽くせぬ胸の内である▼最高裁は水俣病の被害拡大を防止しなかった国の責任を認めている。国は被害者の声に真摯(しんし)に耳を傾けなければならない立場にあるはずだ。時間を超えたからと声を奪う冷酷な方法が国への不信を招く暴挙であることになぜ、気づかなかったのか▼伊藤環境相が被害者側に直接謝罪した。反省が続くのはまさか、3分間ばかりではあるまいな。