歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

岩手県金ヶ崎町・鳥海柵遺跡 9世紀末の緑釉陶器ながど出土

2011年02月18日 | Weblog
 岩手県金ケ崎町教委は17日、鳥海柵(とのみのさく)遺跡(同町西根)から、9世紀末の緑釉陶器と土師器が出土したと発表した。
 竪穴住居跡で発見された緑釉陶器は直径約18cm、高さ約5cmで、唾壺(だこ)の口縁部と思われ、土師器は直径約16cm、高さ約4cmで香炉の蓋とみられる。
 唾壺や香炉は当時の役人など特権階級が使う装飾品で、鳥海柵から南東約1.5kmにある胆沢城(802年~10世紀半ば)に出入りできた有力者の住居だったと推測している。 鳥海柵が、安倍氏が有力者の住居跡に柵を築き権勢を誇示した可能性が高まったとする。
 18日から27日まで、同町中央生涯教育センターで2つの器を公開する。
[参考:河北新報、岩手日報]

過去の関連ニュース
 2010.7.24・鳥海柵遺跡 律令制下の末端行政組織「五保」を記した墨書土器が出土
 2009.11.27 鳥海柵遺跡は安倍氏が前九年合戦で築いた柵
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大分市・羽田遺跡 平安末期の大型の羽釜の鋳型が出土

2011年02月18日 | Weblog
 大分市教委は17日、羽田遺跡(同市羽田)の発掘調査で深さ約1・2mの地中ら、平安時代末期(12世紀後半)に使用されたとみられる大型の羽釜の鋳型(土製、直径約70cm、高さ約70cm)が、ほぼ原形のまま出土したと発表した。
 同じ土坑からは溶解炉の破片も出土した。 見つかった鋳型は外型で、日常生活で使う羽釜より大きいため、寺社の神事など特別な用途で使われたとみている。
 羽田遺跡は1964年に発見され、これまでに弥生時代から古墳時代にかけての集落跡などが見つかっている。
[参考:読売新聞、毎日新聞]
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高知県いの町・バーガ森北斜面遺跡 弥生時代中期末の竪穴建物跡6棟などが出土

2011年02月18日 | Weblog
 高知県埋蔵文化財センターが17日、いの町是友(こりとも)の丘陵地で見つかった弥生時代中期末(1世紀前半~2世紀)の「バーガ森北斜面遺跡」で、新たに竪穴建物跡6棟や周囲に巡らした柵跡などが出土したと発表した。
 同遺跡は、1957年に仁淀川支流の宇治川左岸の標高約40~80mに広がっているのが見つかった。 これまで竪穴建物跡は4棟だったが、昨年5月以降の調査で、標高42~58mに建物跡6棟と柵などの柱穴314基が出土。集落の範囲が東西450m、南北300m、13万5000㎡あることが分かった。 東の山には同時期の朝倉遺跡(高知市)などがあり、山伝いに集落が広がっていったことが考えられるという。 四国の高地性集落では最大級の紫雲出山遺跡((しうでやまいせき、香川県)などに匹敵するという。
 斜度約40度ある急斜面が、4段に造成され、標高約40~80m周辺で4棟の竪穴建物跡が出土した。竪穴建物跡は直径3~5mの6つの穴。 のろしを上げるための炉、石鏃や鉄鏃、直径3~5cmの石の「投弾(とうだん)」約200個などが見つかった。同時に、煮炊き用とみられる炉や約1万点の土器片(壺・高杯等の弥生土器)が出土し、日常的に人々が生活していたことが分かった。農具とみられる鉄斧も見つかった。尾根上の竪穴建物跡では工房跡とみられ、砥石や石材などが見つかった。
 鉄斧は国産品の形で、近くに鉄製品を作る工房があった可能性も出てきた。 土器の9割は四国南部特有のへらで装飾したものだったが、瀬戸内地方の甕などもあり、他地域との交流をうかがわせる。
 現地説明会は19日午後1時半~3時に開かれる。(小雨決行)。
[参考:読売新聞、毎日新聞、高知県文化財団埋蔵文化財センターHP、高知県HP]

過去の関連ニュース・情報
 2008.9.25いの町・天神溝田遺跡 律令制から荘園制への変換がたどれる遺跡

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釜山広域市加徳島新港予定地から、8千年前の新石器時代共同墓地を確認し、人骨26体が出土

2011年02月17日 | Weblog
 韓国文物研究院は17日、釜山江西区城北洞加徳島(부산 가덕도)の釜山新港浚渫土投棄場事業敷地東端を発掘した結果、新石器時代早期あるいは前期に作ったと見られる集団墓域を確認し26体に及ぶ人骨を発見したと発表した。
 埋葬方式で見ると、伸展葬が3体、屈葬が7体見られ、頭は全て北側か北東に置かれていた。
 土器をはじめとして石器と玉などの副葬品が共に発掘された。
 割った土器を死体の下に敷いたり、周辺に敷いたり、また死体の上に覆った事例もあった。
 人骨の左側腕のそばからは朱砂や酸化鉄系統と考えられる赤色顔料が出土したりもした。
 大型玉製品を着用した人骨も発見された。 発見された玉製品は、江原高城・文岩里遺跡(注1)で出土した玉玦(옥결、けつ状耳飾)と同じように、今まで韓半島で発見された最も早い時期の玉製品とみられる。
 出土した隆起文や押印文土器等からみて墓地が造成された時期は約8千年前頃の新石器時代早期あるいは前期に見ることができるとしている。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2010.10.5 大田原市・片府田富士山遺跡 縄文時代草創期のけつ状耳飾りが出土

(注1)国立文化財研究所が2002年に発掘調査した江原高城郡文岩里遺跡から、八千年前頃の新石器時代の墓から翡翠製の玉玦(外形約3.5cm、内径約1.5cm)が収集された。 [参考:聨合ニュース]
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木津川市・馬場南遺跡 三重塔跡とみられる遺構が出土、「神雄寺」跡?

2011年02月16日 | Weblog
 木津川市教委は16日、幻の古代寺院「神雄寺」跡とされる京都府木津川市の馬場南遺跡(奈良時代中期~後期)で新たに同時代の柱、礎石などの塔跡が見つかったと発表した。同遺跡ではすでに仏堂(本堂)跡や礼堂(礼拝堂)跡が確認されており、今回の発見で寺の主要な建物跡がそろい、全体像が明らかになった。
 塔跡は本堂跡の西約35mから出土。基壇のない特殊な構造で、塔の下部は一辺1・8m。中央の心礎を含め花崗岩の礎石が計3個残っていた。遺構の規模から高さ約10mの三重塔ないし五重塔があったとみられている。
 心礎周辺では焼け焦げた粘土の塊も複数見つかり、心柱を箱状の粘土壁で囲んだ上で、興福寺(奈良市)の五重塔のように、方角を司る弥勒、薬師、釈迦、阿弥陀の「四方仏」が祀られていた可能性もあるとしている。ほかに、和同開珎も出土した。
 現地説明会は19日午前10時、11時、午後1時の3回開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 木津川市・馬場南遺跡
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光州南区良瓜洞 6世紀の葺石封土墳3基を発見

2011年02月15日 | Weblog
 大韓文化遺産研究センターは、光州広域市南区良瓜洞(광주 양과동)で6世紀頃の三国時代に墳墓の上に石を敷いて覆った葺石封土墳(즙석봉토분)3基が群れをなして築造されていることが確認されたと発表した。
 3基ともかなり破壊が深刻であるが、空から見下ろした平面形状は、それぞれ円形、方形、そして梯形の3つであった。
 1号墳は、円形形状で封土半分程度が毀損されているが、その下に埋葬施設が残っている可能性が大きいとしている。また、葺石列を基準とすると、直径が約20mに達し、その周辺から周溝跡も確認された。
 2~3号墳は封土大部分が破壊されていたが内部から破損された状態の土器類が発見された。 
 今回の調査で収集した土器類は107点で、壺形土器が半分近くあり、ほかに受け台、短脚高杯、杯など祭祀と関連した土器が多いという。
[参考:聨合ニュース]
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落合文化村 佐伯祐三と中村彝のアトリエ

2011年02月15日 | Weblog
 
上段、新しく整備された「佐伯祐三アトリエ記念館」(2011.2撮影)
下段 旧佐伯公園 (2007.9撮影)

 久しぶりに、佐伯祐三公園(新宿区中落合2-4-21)に行ってみた。
 昨年4月に、残っていたアトリエを「佐伯祐三アトリエ記念館」として整備されていた。
 風情としては、ちょっと下がった感があるが、保存と見学を目的としているので止むをえないのであろう。
 佐伯祐三(1898-1928)は、中村彝(1887-1924)を慕って落合に住むわけだが、中村彝のアトリエ(下写真)もまだ近くに残っている。長年保存運動が続いていたが、その努力が実って昨年7月に保存が決定したという。実にうれしいことである。来年のオープンを目指しているらしい。

[落合文化村map]

 また、この2月19日(土)より、新宿区立歴史博物館で行われる「新宿中村屋に咲いた文化芸術」で、中村彝の作品が2点展示される。一つは重要文化財になっている『エロシェンコ氏の像』と当時の中村屋の創業者夫妻の長女俊子を描いた『少女』である。同じ落合にアトリエを持った鶴田吾郎の『盲目のエロシェンコ』も展示される。出展数は多くはないかもしれないが、実に楽しみである。
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小田原市・小田原城跡 戦国時代の弓胎弓が出土

2011年02月13日 | Weblog
小田原市・小田原城跡 戦国時代の弓胎弓が出土
 小田原市教委文化財課によると、小田原城跡(小田原市栄町)の発掘調査で、15~16世紀のものとみられる「弓胎弓(ひごゆみ)」と呼ばれる漆塗りの弓が出土していたことがわかった。昨年1~3月の発掘調査で、江戸時代に「幸田口(こうだぐち)」と呼ばれた場所で、戦国時代に作られた深さ約2・4mの堀底に積もった粘土質に埋まっていた。
 弓胎弓は、竹や木の片を組み合わせた芯を用いて威力を増したと考えられる。 弓は長さ約1mで、やや反った形状。 両端が折れてなくなっていた。本体が見つかるのは珍しいという
 中世には木の表裏に竹を張り合わせた三枚打弓(さんまいうちゆみ)が一般的だったが、近世に弓胎弓に取って代わられたという。 弓胎弓は文献上、江戸時代に使われていたことがわかっているが、戦国時代からすでに使われていたことを裏付ける貴重な発見としている。 戦国武将・上杉謙信(長尾景虎)が1561年、小田原城の攻め口にしたとの記録がある。
[参考:読売新聞]
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新宿区・曹洞宗長善寺(笹寺)と、もう一つの浄土宗長善寺

2011年02月12日 | Weblog

 雪の降る昨日、新宿歴史博物館で行われた「生誕100年 岡本太郎展」関連文化講演会(講師:東京国立近代美術館主任研究員大谷省吾氏)を聴講の前に、近くにある笹寺(長善寺)に立ち寄った。

 現在、江戸東京博物館で開催されている特別展「2011年NHK大河ドラマ特別展 江姫たちの戦国」(~2月20日)で、同寺の「めのう観音像」(新宿指定文化財)が展示されている。同特別展の図録(資料1)では、「秀忠か崇源院(江姫)の念持仏を秀忠の死後、夫人(江)から寺に寄進された」としているが、ガイドブック 新宿区の文化財(資料2)、さらに境内の説明板(下の写真)、新宿歴史博物館(新宿未来創造財団)のホームページなどそれぞれの記載が若干異なっている。 それは、秀忠(1579-1632、在位1605-1623)より崇源院(江姫、1573-1626)が先に亡くなっているにもかかわらず、「秀忠の死後、崇源院から・・・」と間違って伝わってきたからであろう。

 資料2と「江戸名所図会」(資料4)を参照して笹寺長善寺の縁起を整理すると、
 寺名は、曹洞宗 四谷山(しこくさん)長善寺。 現在の所在地名は新宿区四谷4-4であるが、名所江戸図会(資料4)によると、当時は四谷塩町三丁目である。「地図で見る新宿区の移り変わり(四谷編)」(資料3)によると、最も古く所在が分かる地図は延宝年(1673-1681)のものであり、やはり塩町三丁目となっている。 また、寺の地形も現在の北側部分が若干縮小しているものも殆ど変わっていない。
 同寺は、天正3年(1575)甲斐国武田氏の臣で「甲陽軍艦」の著者とされている高坂弾正昌信の居所に結ばれた草庵を起源とする。 開山は文叟憐学(ぶんそうりんがく)和尚(?-1632)。 当寺は笹寺とも呼ばれているが、この名は、大樹(徳川将軍)が鷹狩の途中ここに立ち寄り、境内に笹が繁っているのを見つけたものだといわれる。(寺伝) その由来をもってか、本堂の瓦にも笹紋(根笹)を使用している。ただし、一般の根笹紋と比べ左右反転をしている(下の写真)。 大樹が秀忠なのか、家光(1604-1651、在位1623-1651)のかも定かではない。 資料4では寛永(1624-1643)の頃としているから家光の可能性が高いが、資料2では先の「めのう観音」と合わせて考えると秀忠とする方が自然だとしている。

 名所江戸図会には、「四谷塩町3丁目の左側にあり。四谷山長善寺といへる禅林にして、篠寺はその異名なり。天正3年(1575)乙亥の草創にして開山は文叟憐学和尚。(略)寛永(1624-1643)の比、大樹この辺御鷹狩のとき、厳命ありて篠寺(ささでら)とよばせ給ひ、この地を寺境に賜ふより後、この名あり。(略)総門の額に笹寺と書せしは、永平寺承天和尚(注1、1655-1744)の筆なり。」と記されている。 現在、本堂に掲げられる寺号額(下写真)の最後に永平現地承天書と記されており、江戸名所図会に記された総門の額と同一のものだろうか。
(注1) 永平寺39世承天則地(じょうてんそくち)大清撫國(たいせいぶこく)禅師(1655-1744)


 笹寺長善寺の北西約500mのところに、同じ長善寺という浄土宗のお寺がある。
 資料2を参考に整理してみると、
 高月山瑞翁院長善寺(浄土宗、芝増上寺の末寺) 新宿区四谷4-33-2
 浄蓮社岌誉瑞翁直信和尚が開山、高月栄法比丘尼が開基で千駄ヶ谷名主太十郎(注2)の先祖にあたる人だという。元和9年(1623)神宮外苑付近に創建したと伝えられる。明治22年青山練兵場造成のため、当地へ移転した。
(注2)千駄ヶ谷名主太十郎家(西谷姓)は日蓮宗立法寺(杉並区和田)が現在の地に移る前の千駄ヶ谷の地(現、新宿区霞ヶ丘10)も寄進している。[参考:「新修渋谷区史」昭和41年発行]
 この寺が世に知られたのは、1mほどの銅造釈迦如来坐像があったためである。背に応永14年(1407)8月鋳造の銘文がある。豊臣秀吉が大阪城に安置していたと伝えられ、大坂の陣の名残りの鉄砲の弾丸跡が八ヶ所ほどあった。天和3年(1683)以来当寺に所蔵されていたというが、今はなくなってしまった。
 2011.1.28付けで記した「千駄ヶ谷村・霊山寺領 崇源院(江姫)の寄進によるもの」の中で、慶長11年(1606) に崇源院(江姫)が寄進した浄土宗・霊山寺領50石の3ヶ所の土地の一つである、千駄ヶ谷御焔蔵の東(新宿区霞ヶ丘2 神宮外苑グラウンド中央付近)の場所の北約100mの所、現在は聖徳記念絵画館の場所に、浄土宗・長善寺があったと思われる。 先の資料3の延宝年(1673-1681)の地図で記されており、明治22年までその場所にあったようである。


参考資料
 資料1. 「2011年NHK大河ドラマ特別展 江姫たちの戦国」展図録(NHK 2011.1発行)
 資料2. ガイドブック 新宿区の文化財(新宿区教育委員会発行)
 資料3. 「地図で見る新宿区の移り変わり(四谷編)」(新宿区教育委員会 人文社 1983.3発行)
 資料4. 江戸名所図会(斎藤長秋、莞斎、・月岑の著、天保年間(1830-184)に斎藤月岑が刊行)

崇源院(江姫)関連ニュース・情報
 崇源院(江姫)
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高崎市・六枚遺跡 「片岡郡」の名を刻む土器片が出土

2011年02月11日 | Weblog
 高崎市教委は10日、同市八幡町の六枚遺跡で、9世紀代の竪穴式住居跡深さ1・5mから見つかった須恵器の甕(胴の直径推定35cm)の破片4片(約15cm四方)を接合すると、「片罡郡」(片岡郡)の文字が刻まれていたことがわかったと発表した。 郡役所の公用の器であった可能性が高く、郡役所が近くにあったことを推測させる貴重な資料という。
 続日本紀・和銅四年(711)三月辛亥(六日)条に、
 「割上野國甘良郡織裳。韓級。矢田。大家。緑野郡武美。片岡郡山等六郷。別置多胡郡。」
とあり、片岡郡は当時の律令制の行政区画・郡のひとつ。高崎市南西部の観音山丘陵や烏川流域に広がり、当時約6000人が暮らしていたとされる。
 また、群馬県高崎市吉井町にある「多胡碑」(金石文)の碑文に、
 「弁官符上野國片罡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡 和銅四年三月九日甲寅宣、左中弁正五位下多治比真人、太政官二品穂積親王、左太臣正二位石上尊、右太臣正二位藤原尊」
とあり、「片岡」は当時「片罡」とも書いていた。
 市教委は、出土地の近くには6世紀末に観音塚古墳(全長約100mの前方後円墳)が築造されるなど勢力地とされ、奈良時代にも引き続き郡役所が置かれた可能性が高いとしている。
 出土した土器片は、3月6日午前10時~午後4時45分に群馬音楽センター(同市高松町28-2)で開催される多胡郡建郡1300年記念シンポジウム「多胡郡は何を伝えようとしたのか」会場で展示される。 その後、八幡町の市観音塚考古資料館で展示する見通し。
[参考:読売新聞、東京新聞]
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石岡市・瓦塚窯跡遺跡 新たに11基を発見、操業は10世紀まで継続か

2011年02月10日 | Weblog
 石岡市は9日、瓦塚窯跡遺跡(石岡市部原)で、新たに窯跡11基が見つかったと発表した。
 08年度から4年計画で発掘が続けられているが、これまでに見つかった13基と合せ24基となり、かすみがうら市の松山瓦窯を越え、県内最大の遺跡となった。関東最大とされる南河原坂窯跡(千葉市緑区)の20基に並び、関東地方でも最大級の窯跡であり、常陸国の瓦の生産拠点だったことをうかがわせるとしている。
 同遺跡は、8世紀半ばに創建された常陸国分寺(同市)の瓦を供給した窯跡で、これまでの調査で、国分寺の屋根の補修などに伴って築かれた窯跡であることや、地下式有段登り窯であることなどが判明している。
 本年度の調査で、初めて遺跡内に住居跡を確認した。
 昨年の調査では、9世紀後半まで瓦を大量に生産していたとされたが、今回調査の結果、出土した土器や瓦の文様から操業は10世紀まで継続して行われていた可能性がある。
 現地説明会が13日(日)午前11時と午後2時の2回開催される。
[参考:茨城新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.2.28瓦塚窯跡遺跡 5基の窯跡と創建期の瓦片が出土

瓦塚遺跡
 常陸国府(現在の石岡市内)に常陸国分寺と常陸国分尼寺が建てられたが、その屋根瓦を作り供給するための瓦工場だったとされる。1968年に山林を開墾中に7基の窯跡が発見された。「地下式有段登窯」で、灰原からは布目瓦など多くの遺物が出土した。
 
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明日香村・飛鳥寺西方遺跡 槻の木の広場を横切り飛鳥寺西門に続く参道跡とみられる石敷きが出土

2011年02月09日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が9日、明日香村の飛鳥寺西方遺跡で、645年に乙巳の変(大化改新)を起こした中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったとされる「槻(つき)の木の広場」のすぐ西側で、飛鳥時代の東西の道路跡と推定される石敷きが見つかったと発表した。
 石敷きは飛鳥寺西門跡の西約100mで、幅2・4m、長さ80cm分の石敷きを確認した。 表面が平らなこぶし大の石が敷かれ、人の頭ほどの大きさの縁石も残っていた。 さらに、約150m西には甘樫丘がそびえる。
 橿考研によると、飛鳥寺南門の参道の幅は2・2mで今回見つかった石敷きの幅に近く、石敷きは蘇我蝦夷、入鹿父子の邸宅があった甘樫丘方面から槻の木の広場を横切る参道だった可能性もある。
 また、その北55mでも石組み溝の底部とみられる石敷きが東西2・6m、南北80cm分、出土した。
 現地説明会はないが、橿考研付属博物館(橿原市畝傍町)の速報展(2月11日~3月6日、月曜休館)で紹介される。
[参考:産経新聞、共同通信、読売新聞]

過去の関連ニュース
 2010.3.18飛鳥寺西方遺跡 大化改新ゆかりの「槻の木広場」か、石敷き跡が出土
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赤穂市・有年牟礼・井田遺跡 古墳時代後期末の鍛冶炉跡が見つかる

2011年02月09日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館は8日、弥生時代から古墳時代にかけての住居跡などが見つかっている赤穂市有年牟礼(うねむれ)の「有年牟礼・井田遺跡」で古墳時代後期末(6世紀末~7世紀初頭)の鍛冶炉跡(直径約40cmの焼けた土)を発掘したと発表した。 この地域での古墳時代鍛冶遺跡は、金子遺跡(佐用町)についで2例目。炉跡が見つかったのは初めてという。
 ほかに、覆い屋があったと思われる工房関連施設、消し炭のごみ捨て場などが見つかった。一緒に出土した須恵器などから、古墳時代後期末の遺跡とみられる。
 工房関連施設から鉄滓3点や直径2cmほどの鉄塊2点、釘の破片2点が、ごみ捨て場からは鍛造鉄片数点が見つかり、炉から約20m離れたところで土製の鞴(ふいご)の羽口片も見つかった。
 現地説明会は11日(土)午後1時半から開かれる。
[参考・毎日新聞、朝日新聞]
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岐阜県養老町・象鼻山古墳群 5世紀後半頃の円墳2基を確認 300年以上にわたり造墓

2011年02月09日 | Weblog
 養老町教育委員会は8日、象鼻山(ぞうびさん)古墳群(同町橋爪)の第5次発掘調査の結果、象鼻山(標高142m)が300年以上にわたって、70基の墳墓が造られた「聖地」だった可能性があると発表した。
 同古墳群は濃尾平野を中心とした複数の集団の統率者らを埋葬したと考えられている。これまでの調査で、墳墓は2世紀中頃(弥生時代後期)から造られ始め、その半数は2世紀中頃から後半頃に集中し、山頂部からは3世紀後半頃の墳墓も見つかっていた。
 しかし、今回の調査で、標高約80mの中腹にある墳墓2基(51・53号墳)が5世紀後半頃(古墳時代中期末)に造られたと判明。ともに、直径約14mの円墳とみられる。 これまでの整地をした後に盛り土して築造したのと違い、地形を活用し土木量を抑えた方法で築造していた。 さらに、この2基を含め周辺に同じ時期に造られた墳墓が約10基あり、新しい墳墓は、過去の墳墓を避けて造られていたことがわかった。 また、筒形器台や高杯、蓋などの須恵器片が出土している。
 11日(金・祝)13:00~16:45に養老町民会館(同町石畑)で「邪馬台国時代の象鼻山―古墳出現の背景を探る―」と題してシンポジウムが開かれる。
 また、19日(土)午後1時~3時、現地説明会が開かれる。
[参考:読売新聞、毎日新聞、中日新聞、岐阜新聞、養老町教育委員会HP]

過去の関連ニュース
 2010.11.27象鼻山古墳群 弥生後期築造の2基を新たに確認、同古墳群の築造は2世紀に集中
 2010.9.15象鼻山古墳群 2世紀後半の方墳と円墳を発掘調査
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市川市・権現原貝塚 4000年前の縄文土器にイノシシの線刻画が描かれていたことを発見

2011年02月08日 | Weblog
 千葉県市川市堀之内4の権現原貝塚(ごんげんばらかいづか)で1985年に出土した約4千年前の縄文土器に、イノシシの顔とみられる線刻画(縦約12cm、横約35cm)が描かれていたことが8日、市川考古博物館の分析で分かった。正面から見た目元、鼻、牙や、交差した線で体毛が表わされている。
 取っ手などにイノシシが模られた土器の発見例はあるが、尖がった道具で線を直接刻んでイノシシを描いた例はほとんどないという。
[参考:共同通信、毎日新聞]
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