歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

愛知県幸田町・本光寺 深溝松平家東御廟の墓から大量小判などが出土

2009年05月17日 | Weblog
 幸田町にある瑞雲山本光寺(曹洞宗)は大永3年(1523)に深溝(ふこうず)松平家の初代当主松平忠定によって建立され、深溝松平家の菩提寺となった。境内に咲くあじさいが実にきれいなところである。
 本光寺深溝松平家東御廟所調査会(代表・赤羽一郎愛知学院大講師)が14日、第2代島原藩主(島原藩深溝松平家3代)を務めた7代当主の松平忠雄(1673~1736年)の墓所の木棺から慶長小判を含む小判43枚などが見つかったと発表した。
 昨年8月に集中豪雨で浸水、墓石が傾いたことから調査が始まった。墓所の地下約3.5mに掘られた石室(約1.5m四方、深さ1.3m)の中に六角形の木棺(縦横高さ約1m)を納め、墓誌を刻んだ平石で蓋をする構造。木棺の中には、遺体が座位で安置されていた。副葬品は木棺内に小判や太刀、木棺外にグラスや化粧道具、香道具、煙草道具、印籠、眼鏡などが納められていた。
 慶長小判を含む小判計43枚、小判のほかに享保・正徳などの一分金117枚、日本刀の飾太刀四振り、蒔絵印籠、蒔絵化粧道具箱、銀製の銚子、西洋製とみられるガラス製グラス、香道具、銀製のポットなど多数の副葬品が出土した。
 大名の墓から副葬品の小判が確認された例としては、盛岡の南部家(12枚)、仙台の伊達家(10枚)などを上回り過去最多とみられる。
 ほぼ完全な状態で出土したグラスは高さ約15cmで、青地に西洋の男女の姿が色付きで描かれ、製作年とみられる「1599」の文字が書かれていた。こうした西洋的な副葬品は、深溝松平家が島原藩主として長崎の監督を務めたことが関係している可能性が高いという。
 小判を除くコップなど出土品の一部は、6月の毎土・日曜、本光寺宝物館で公開される。
[参考:中日新聞、読売新聞、朝日新聞、産経新聞、毎日新聞]

 【慶長小判】徳川家康が1601(慶長6)年に発行。1695(元禄8)年までに約1470万枚が鋳造された。楕円(だえん)形で縦約7センチ、横約4センチ。重さ約18グラム。1枚の価値は1両。金含有率85%前後と高い。現在は150万-200万円で取引される場合が多いが、鋳造年や保存状態によっては1000万円の値が付くこともある。[参考:中日新聞]

別の写真:本光寺は「あじさい寺」と呼べるくらい、たくさんの見事なあじさいが咲く。特に、早朝6時くらいに行くと、人も少なく、時には朝露がかかったしっとりとした様子が見られる。
 本光寺境内のあじさい
関連記事:
 大名の墓から小判43枚、一分金117枚…愛知(読売新聞) - goo ニュース
 小判43枚、副葬品ザクザク…大名の墓から出土 愛知(朝日新聞) - goo ニュース

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東大阪市・新上小阪遺跡 弥生時代中期後半の方形周溝墓確認

2009年05月15日 | Weblog
 府文化財センターは、新上小阪遺跡(東大阪市新上小阪地内)で弥生時代中期後半(今から約2000年前)の方形周溝墓を見つけた。
 方形周溝墓は、約7m四方。墳丘の端には、土器棺(長さ約70cm)1基が据えられていた。既に埋め戻された別の調査区からも2基の方形周溝墓が見つかっており、一帯は当時の墓域だったとみられる。周溝からは、流水紋と呼ばれる模様が入った珍しい弥生式土器や、台付きの鉢などをほぼ完全な形で検出。当時の中河内の文化力を裏付けるような流麗な土器という。
 23日午後1~3時に、現地と出土遺物を公開する。(少雨決行。)
[参考:毎日新聞、2009.3大阪市文化財センターHP]
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交野市・私部南遺跡 古墳時代中期の集落跡を確認

2009年05月15日 | Weblog
 府文化財センターは、私部南(きさべみなみ)遺跡(交野市私部南2など)で古墳時代中期(約1500~1600年前)の集落跡を確認。
 かまどの痕跡が残る竪穴住居跡や木製の腰掛けの一部を見つけた。
 第二京阪道の建設が進む私部南遺跡では、竪穴住居跡(約4m四方)2基を検出。1基には、内部で煮炊きしたかまどの跡が残っていた。周辺からは、滑石製の子持勾玉(約7cm)や、木製の組み合わせ式腰掛けの脚部分(高さ20cm、最大幅12cm)を発見。脚の表面には刃物で削った跡が残っていた。祭祀に使われた可能性もあるという。
 16日午後1~3時に、現地と出土遺物を公開する。(少雨決行。)
[参考:毎日新聞]

 前年度の発掘調査では、古墳時代中・後期の竪穴建物や掘立柱建物をはじめ井戸や溝などが発見され、それに伴い、滑石製子持勾玉が出土している。
[参考:2008.3大阪市文化財センターHP]
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松山市・中村松田遺跡

2009年05月15日 | Weblog
 松山市埋蔵文化財センターは14日、中村松田遺跡(同市中村)で3~4世紀(弥生時代後期~古墳時代前期)の人工的な溝が見つかったと発表した。石手川から水を引いて農業用水路などに使われていたとみられ、同時期の用水路としては県内最大という。
 同センターは、松山でも、この時代に大規模な土木工事が行われていたことを示す貴重な遺構としている。
 16日午後2時から現地説明会が行われる。
[参考:読売新聞]
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瀬戸市・紺屋田A窯跡 100個を超す四耳壺が出土

2009年05月15日 | Weblog
 瀬戸市文化振興財団・埋蔵文化財センターが12日、瀬戸市紺屋田町にある同市で最大級の窖窯(あながま)跡である鎌倉時代(13世紀前半~14世紀初頭)の紺屋田A窯跡から、100個を超す「四耳壺(しじこ)」が見つかったと発表した。
 紺屋田A窯跡は、5つの窖窯があり、中でも3号窯は、長さ約23m、幅3・4mと鎌倉時代のものでは市内で最大。窖窯は市内で約600基が確認されているが、紺屋田A窯跡のようにまとまって出土した例はなかったという。
 出土した四耳壺は、高さ30cmほど。中国・宋時代の白磁四耳壺をまねて、瀬戸地方では中世で唯一、灰釉を施した陶器の「古瀬戸」として生産された。本来は薄緑色の釉がかかっていたが、出土品では釉がはげ落ちているのが目立っていた。
 この時代の四耳壺は、墓の蔵骨器として出土する以外は、ほとんどが神奈川県の鎌倉市周辺から見つかっている。
 同センターは「耳型の飾りも何のためかよくわからないし、どんな用途だったかもはっきりしない。ただ、瀬戸から当時の都の鎌倉に向け大量に供給されたとみられるため、置物として権力者の力を示す『威信財』として使われた可能性もある」と話している。
[参考:朝日新聞]
過去の記事・情報
 瀬戸市・音玄窯跡、門前B窯跡 中世(13世紀)の瀬戸窯跡を発掘調査


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中野市・柳沢遺跡 シカ絵土器が出土

2009年05月14日 | Weblog
 県埋蔵文化財センターは13日、中野市の柳沢遺跡からシカを描いた弥生時代中期後半(紀元前1世紀ごろ)の弥生土器が出土したと発表した。県内で弥生時代の絵画土器が出土するのは初めて。シカを含む絵画土器は奈良県での出土が多く、同遺跡で出土した青銅製祭器「銅戈(どうか)」、「銅鐸」と同様、近畿地方との結び付きの強さを裏付けるものになりそうだ。
 出土した絵画土器は、主に東北信地方の千曲川水系に分布している栗林式土器で、弥生時代中期後半の型式、壺の形をしている。銅戈、銅鐸が出土した地点から北側に150mほど離れた竪穴住居近くで昨年11月30日に他の土器片とともに見つかった。その後、復元作業を進めていた。半分程度が残り、口径11cm、高さ約31cm、胴の最大径は約23cmと推定される。銅戈、銅鐸とほぼ同時期のものという。
 描かれたシカはともに雄で、頭と胴体が逆S字形の弧を描いており、左を向いて2頭前後に並んでいる。大きさが確認できるシカの体長は7cm程度。1本の線で胴体を描き、前脚と後ろ脚、角が2本ずつの線で簡素に描かれている。シカは弥生時代の土器と銅鐸に最も多く登場し、稲の成長を表すという説があり、豊作をもたらす霊力を持つものと考えられていたという。
 同センターによると、シカは豊作をもたらす霊力を持つと弥生人に信じられていた学説がある。
 同時代の絵画土器は全国で約600点見つかっており、シカの絵の土器は東日本寄りの出土例が日本海側の石川県、太平洋側の神奈川県までだった。同センターは「近畿地方から銅戈、銅鐸と一体になってシカの絵画が伝わり、農耕祭祀が行われていたことを裏付ける証拠になる」としている。
 同遺跡では昨年度までの発掘で、青銅製祭器の銅鐸5点と銅戈8点が東日本では初めて同時に出土している。
 出土した絵画土器は16日から6月14日まで、中野市立博物館で展示する。
[参考:中日新聞、信濃毎日新聞、読売新聞]
過去の情報・記事
 柳沢遺跡
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総社市・上原遺跡 紀元前3世紀ころの人頭をかたどった土製品の一部が出土

2009年05月14日 | Weblog
 同市教委が14日、上原(かんばら)遺跡(同市上原)から、弥生時代前期後半(紀元前3世紀ごろ)の人頭を象った土製品の一部が出土したと発表した。
 JR総社駅の西約2.5kmの高梁(たかはし)川右岸で、茶褐色の素焼きの破片7点が出土。接合すると、頭頂部や額部分になった。
 現代人の頭とほぼ同じ大きさで、内部は空洞だった。土器と同様に焼かれ、内側も滑らかに仕上げられている。
 表面には眉毛と鼻が作られ鼻孔もあった。両瞼には入れ墨とみられる3本の線が刻まれていた。額から後頭部にかけては鳥の羽根を模したような高さ2.5cmの突起が伸びていた。突起を含めた高さは11.1cm、幅17.6cm、奥行き18.1cm、厚さ6mm。突起は「冠羽(かんう)」と呼ばれる羽根飾りと推測。
 当時、鳥は豊穣をもたらすとして神聖視されたり、鳥の霊を信仰の対象とする風習があったとされている。弥生時代の遺跡からは同様の羽飾りを付けた人面付き土器や、鳥の装束を着た祭司を描いた絵画土器が複数発見されている。
 農耕儀礼や祭祀の際に呪術師が被って踊ったのではないかと推測。
 人の顔をかたどった土器は縄文時代以降、出土例がある。弥生時代では岡山市の田益田中(たますたなか)遺跡で97年に出土した弥生前期の人面土製品が土器か仮面とみられ、最古級とされてきた。被る形の土製品は全国初とみられるという。
 出土した土製品などは14日~6月4日に、総社市役所1階ロビーで展示する。
[参考:朝日新聞、産経新聞、山陽新聞、中国新聞、時事通信、共同通信]

弥生のヘルメット 人頭かたどった土製品 岡山・総社(朝日新聞) - goo ニュース
弥生時代に人面「帽子」=全国初、農耕祭祀に使用か-岡山・総社(時事通信) - goo ニュース
岡山で頭にかぶる「人面土製品」 弥生前期の上原遺跡、全国初 (共同通信) - goo ニュース
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寒河江市・高瀬山遺跡 古墳時代の方形周溝墓が出土

2009年05月14日 | Weblog
 寒河江市教委は12日、同市寒河江の縄文~室町の複合遺跡「高瀬山遺跡」で、新たに古墳時代(300年ごろ)の方形周溝墓1基が出土したと発表した。縦横約11m四方の正方形で、外側に幅約1mの溝(深さ30~50cm)が掘られている。中央に南北約1m、東西約1・5mの穴があり、ここに遺体を埋葬したとみられる。
 方形周溝墓は、周りに溝をめぐらした方形の低墳丘墓で、弥生時代前期に近畿地方で出現し、東北地方には古墳時代になって伝わった。
 また縄文土器や縄文時代の石鏃や石斧なども出土した。
 12日、説明会が開催され、住民ら約200人が集まった。
[参考:毎日新聞]


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ドイツ・ホーレ・フェルス洞窟 世界最古のビーナス像を発掘

2009年05月14日 | Weblog
 ドイツ南西部シュヴァーベン・シュラ(The Swabian Jura)山脈地域のホーレ・フェルス洞窟(Hohle Fels cave)の遺跡から、約3万5000年前、後期旧石器時代の人類がマンモスの牙で作った「世界最古のビーナス像」を発掘したと、ドイツ・テュービンゲン大のニコラス・コナード(Nicholas Conard)教授が14日付の英科学誌ネイチャーに発表した。
 コナード教授は「彫像としても世界で最も古いとみられ、人類の芸術の起源を探るのに貴重な発見だ」としている。
 彫像は昨年9月、洞窟の入り口から20mほど奥の地中約3mの粘土層から動物の骨などとともに6つの破片に分かれて見つかった。
 これまでに古いものでは、ヴィレンドルフ(willendorf)のビーナスが有名であった。
[参考:共同通信、読売新聞、BBC News〕

日本の「縄文のビーナス」 大英博物館で展示が決まる
 長野県茅野市尖石縄文考古館が所蔵する縄文時代の土偶2点が、ロンドンの大英博物館で、9~11月に開かれる土偶の展覧会(文化庁など主催)に出品されることになった。
 出品されるのは、国宝「縄文のビーナス」と、国指定重要文化財「仮面の女神」の2点。貸し出し期間は、2009年6月下旬から翌10年3月末まで。
 「縄文のビーナス」は、茅野市米沢の棚畑遺跡から1986年9月に出土した縄文時代中期(約5000年前)の土偶。高さ約27cmと大型で、大きく張り出した腹など、妊娠した女性の様子を柔らかな曲線で表している。当時の精神文化を考える上で貴重な学術資料とされ、1995年に国宝に指定された。
[参考:2009.5.9読売新聞]

3万5千年前のビーナス像…クロマニョン人のペンダントか(読売新聞) - goo ニュース
世界最古のビーナス像発見 3万5千年前、牙に彫刻(共同通信) - goo ニュース
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我孫子市・前原古墳群 3世紀後半~末の方墳2基を確認

2009年05月12日 | Weblog
 我孫子市の手賀沼北岸の丘から、前期古墳時代(3世紀後半)の方墳(一辺15m)が2つ並んで見つかった。県北西部では最古級で、沼を見渡す15mの丘にあり、古代の水運に力のあった豪族の墓とみられる。
 我孫子市内には古墳が130数基発見されており、代表的なのは高野山にある水神山古墳、そこより200m北東にある。
 周囲の溝から祭祀に使ったとみられる直径約40cmの壺の土器片が見つかった。
 古墳時代に詳しい県教育振興財団の白井久美子・主席研究員(考古学)の推定で3世紀後半~同末に造られた古墳と分かった。
[参考:毎日新聞]


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名張市・琴平山古墳 出土品を初公開

2009年05月09日 | Weblog
 名張市周辺では最大最古の前方後円墳である琴平山古墳(同市赤目町檀)で発掘された冑や剣などの出土品が、名張市役所1階のロビーで、平成18年10月に見つかって以来初めての一般公開・展示されている。(29日まで)
 展示品は、後円部の横穴式石室から見つかった金属製の武具が中心で、奈良県の元興寺文化財研究所が錆止めや材質分析を行った。
 冑は直径20cm、高さ17cm。剣は長さ70cmの赤色で、糸が巻かれた柄がついている。刃に日本刀のように溝が彫られた全長128cmの直刀の一部分(41cm)もある。
 矢、矢筒の破片、鎧、小札や朝鮮半島で造られて運ばれてきた壺も展示されている。
[参考:産経新聞]

過去の記事・情報より
2006.10.26 中日新聞
 名張市教育委員会は24日、琴平山古墳の発掘調査を始めた。古墳内に3カ所ある横穴式石室の構造を約3週間かけて調べる。
 同古墳は6世紀前半の築造と推定。前方後円墳で全長約70m、後円部の直径約36m。

2006.11.7 毎日新聞
 名張市教育委員会は6日、「琴平山古墳」の発掘調査で副葬品として直径約20cmの鉄製の冑が見つかったと発表した。
 石室は玄室と羨道(長さ5m、幅1m)から成る。玄室は高さ2・5m、幅2・4m、長さ4・5mで、大きな岩ではなく、厚さ約10cmの小さな岩を積み重ねた珍しい型だったことが分かった。

2006.11.17中日新聞
 名張市教育委員会は23日、同市赤目町檀にある県文化財の琴平山古墳で発掘調査した成果を紹介する現地説明会を開く。
 横穴式石室はもう2つあるとみられたが、崩落しており詳細は分からなかった。
 横穴式石室と外部をつなぐ羨道からは、副葬品とみられる衝角(しょうかく)付冑、剣、直刀、直刀の破片の鉄器類4点が出土した。衝角付冑は鉄板を縦につなぎ合わせた竪はぎの技法が用いられている。
 竪はぎの冑は近畿地方一帯で十数例の出土例しかないという。

2006.11.23 現地説明会開催(2007.1.28発「行広報なばり」より)
 衝角付冑の正式名称は「竪矧鋲留冑(たてはぎびょうどめかぶと」)。直刀は県内では最長となる全長128cmであった。
 石室は、朝鮮半島の百済から影響を受けたと思われる初期の畿内型横穴式石室で、板石をレンガのように積み上げて造ったことがわかった。

2007.1.13 読売新聞
 名張市教委は、琴平山古墳の民有地を購入し、古墳全体をめぐる散策道や石室を見学できるよう整備する方針を固めた。
 昨年11月、市教委が石室内部を詳しく調査した結果、石室内から甲冑や鉄剣など鉄製武具一式が出土するなどしており、保存・整備を求める声があがっていた。
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小田原市 CGによる江戸時代の小田原城および城下町を再現

2009年05月09日 | Weblog
 小田原市は8日までに、三次元コンピューターグラフィックス(CG)で再現した江戸時代の小田原の姿を市ホームページ(HP)に掲載した。アドレスはhttp://www.odawaracastle.jp/
[参考:神奈川新聞]
小田原市役所のHPを見ると、4月30日に公開されたようである。
 早速、ダウンロードして操作をしてみた。なるほど、簡単にダウンロードできた。
 今のところ、直ぐ見たかったのは古郭であったが、それも簡単に操作・再現できた。
 イメージがより鮮明になる。堀跡がわかるように表示されるとより面白いのだが。

過去の情報
 小田原市・小田原城跡八幡山遺構群 第4次調査(障子堀)遺跡
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福山市・福山城 大手門の石垣遺構を確認

2009年05月08日 | Weblog
 福山市教委は7日、JR福山駅前広場(同市三之丸町)整備事業に伴う第3次発掘調査で、地下送迎場への進入路を設ける計画地の200㎡を3月から調査し、福山城の大手門へ通じる橋台の石垣遺構を確認したと発表した。また、出土した大手門東側の石垣を報道陣に公開した。
 福山市教委は、昨年5月の試掘で存在が確認されていた石垣の周辺を、南北20m、東西10mにわたって掘り下げ、西側に向かって通路の遺構(長さ約7m、幅約12m)を確認した。石垣は1619年の築城時に整備された大手橋の基礎部分に当たる。
 橋台の北側の石垣は高さ1・8m。堀底から2段目までが築城当時で、上部は過去の地図などから溝として利用するため大正期以降に築かれたとみられる。底部では粘土と砂地の軟弱な地盤を支えるために敷かれた石が目立つ。一方、南側は堀底から2段目までしか残っていなかった。
 一帯でこれまでに確認されている舟入状外堀や二重櫓と同様、さまざまな形の石を組み合わせた「打ち込みはぎ」と呼ばれる高度な技術が残る。
 市教委によると、一部が激しく損壊している上積み方が粗く、保存状態は必ずしもいいとはいえないが、古絵図などから大手門があったことを示す唯一の遺構。規模や石積みの状況が明らかになったと話している。
一般公開した後、中旬をめどに石垣の撤去を始める。撤去した石垣は保存するという。
 現地見学会は10日午前11時~午後3時。午前11時、午後1時、同2時の3回。
[中国新聞、山陽新聞、毎日新聞]

福山城
 元和5年(1619)、備後国・安芸国の二国を治めていた福島正則(1561-1624)が広島城を無届けで修築したことを咎められ改易となったため、 徳川家康の従兄弟である水野勝成(1564-1651)が計10万石を与えられ、大和国の郡山藩から転封した。入封時は備後神辺城に住んだが、やや内陸にあるため、この時期としては異例の新規築城が行われることになったといわれる。元和8年(1622年)に完成した。

福山市由来(福山市役所HPより)
 福山城があるところは,もとは蝙蝠山(こうもりやま)と称していたが、「蝠」は福に通じることから「福山」と称された。
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熊本県氷川町・大野窟古墳 全長約120mの前方後円墳の可能性と結論

2009年05月06日 | Weblog
■10日に「大野窟古墳調査速報会」を開催

 氷川町教委は、6世紀後半の前方後円墳とみられる「大野窟(いわや)古墳」(同町大野字柴原)を調査した結果、古墳の全長は現存のものよりも15m以上大きい115m~120mあり、県内最大級だった可能性があるとする結論をまとめた。
 同町教委によると、阿蘇市にある全長111.5mの「長目塚古墳」を超え県内最大の古墳になるという。ただし、古墳全体が民有地であり全域を発掘確認できないため断定ではないとする。同古墳は直径約40mの円墳として、1984年に県の史跡指定を受けている。
 大野窟古墳の石室保存整備に向け、03年度から調査した結果、現在全長約100mある古墳は、前後が掘削されていたことが判明した。
 古墳は、現在はナシ畑に覆われているが、周辺には深さ約80cmの溝もあり、壺や器などの破片数百点が出土した。出土品は祭祀に使われたものとみられる。
 現在の氷川町一帯は、「日本書紀」などによると「火の国」の発祥の地とされており、「大野窟古墳」は一帯を治めていた豪族「火の君」の墓ではないかとみられている。
 10日午前9:30~11:30、氷川町文化センター・講堂で「大野窟古墳調査速報会」が開催される。
[参考:5/2NHK熊本、5/3朝日新聞、5/8西日本新聞]

長目塚古墳 (熊本県阿蘇市一の宮町中通上鞍掛)
 5世紀前半築造の全長111.5mの前方後円墳。前方部は河川工事で削り取られている。墳丘の周りから朝顔形埴輪や壷形埴輪などが採集され、埴輪が配列されていたようである。古墳には二つの主体部があり、前方部の竪穴式石槨には30半ばの成人女性が埋葬されていた。
 倭製内行六花文鏡・碧玉製管玉・ガラス製勾玉・メノウ製勾玉、直刀・刀子・矢筒に入ったままの鉄鏃・鉄斧などが出土している。

野津古墳群 (氷川町大野ほか)
 6世紀前半~中頃築造の4基の前方後円墳、物見櫓古墳(全長70m)・姫ノ城古墳(全長86m)・中ノ城古墳(全長98m)・端ノ城古墳(全長63m)がある。
 姫ノ城古墳から石製表飾品(石人石馬)、物見櫓古墳から純金製の垂飾付耳飾が出土している。また、陶質土器の出土から、朝鮮半島との関わりが高いとみられる。


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葛城市・石光寺 旧境内で白鳳時代の三重塔と見られる基壇跡が出土

2009年05月01日 | Weblog
 市教委が1日、葛城市染野(しめの)の石光寺(せっこうじ)旧境内で、白鳳時代(7世紀後半)の塔跡と見られる基壇跡が出土したと発表した。91年に見つかった弥勒堂(金堂)跡の南約30mの場所にあたる。
 現在の境内のすぐ南約20㎡を調査したところ、東西約4m、南北約2mにわたり土を固めた高さ約30cmの基壇の一部が出土した。
 基壇は一辺約8m、塔は一辺約5mとみられる。西側では雨落ち溝、基壇のものとみられる凝灰岩片、たくさんの白鳳時代の瓦などが出土した。基壇は上面が削られ、礎石は見つからなかったが、この場所が小字で「トウヤシキ」(塔屋敷)と呼ばれており、舎利孔のある塔心礎(170×135cm、厚さ60cm)がこの付近から出土したことから、遺構は三重塔の基壇の一部で、西端部分と判断した。
 16世紀の当麻寺(同市)の絵図に、同寺に当たる染野寺に本堂と三重塔が描かれていることなどからも、石光寺は創建時から塔、金堂をもち、中世末まで続く大寺院だったことが裏付けられたとする。江戸時代中期の地図には塔がなく、その間に失われたとみられる。
 当麻寺に現存する塔(国宝)よりひと回り小さい三重塔とみている。
 91年の石光寺境内の発掘では日本最古級の白鳳時代の石仏(高さ1・55m)が出土、文献通り同寺が白鳳寺院だったことがわかった。弥勒堂は東が正面とみられるため、石光寺は正面から見て右が金堂、左が塔の法隆寺式伽藍配置と考えられる。
 東が正面の法隆寺式伽藍は香芝市の尼寺(にんじ)廃寺などにもあり、葛城地方の古代寺院の特徴とも考えられる。
 同寺は天智天皇が創建にかかわったと伝えられ、国内最古級の白鳳期の石造如来坐像(凝灰岩製造、推定高さ155cm)が見つかっている。
 2日~6月21日に同市忍海の市歴史博物館で、遺構の写真パネルなどともに出土した瓦などが展示される。
[参考:産経新聞、朝日新聞、読売新聞、当麻石光寺と弥勒仏概報(奈良県立橿原考古学研究所編)/吉川弘文館]


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