昨年六月の岩手宮城内陸大地震による、達谷西光寺の被害は思いのほか大変だったようです。
達谷西光寺・お知らせ
写真は、1昨年4月に撮影したものです。毘沙門堂と岩面大佛が1枚に収まっています。どこを探しても、このような形で写っている写真は滅多にありません。2枚の写真を合成しています。
達谷窟
「たっこくのいわや」と読む。岩手県一関駅からは約10km、奇岩、怪岩のある美しい渓谷で有名な厳美渓には3km、毛越寺には5kmの距離にある。延暦20年(801)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が毘沙門堂を建立したと伝えられる。吾妻鏡には、文治5年(1189)9月、源頼朝が奥州合戦の帰路に、坂上田村麻呂が建立したこの毘沙門堂を参詣したことが記される。巌毘沙門堂の左(西)に描かれる岩(面)大佛は、前九年後三年の役で亡くなった武者の諸霊を供養するために、陸奥守源義家(頼朝の高祖父(曾々祖父))が馬上より弓張(ゆはず)を以って彫り付けたと伝えられている。大日如来との伝えが残るが、岩面大佛の下に立つ「文保の古碑」(1317)には、阿弥陀種子(キリーク)が刻まれるし、姿からも阿弥陀如来とするのが正しいと思われる。
達谷西光寺・お知らせ
写真は、1昨年4月に撮影したものです。毘沙門堂と岩面大佛が1枚に収まっています。どこを探しても、このような形で写っている写真は滅多にありません。2枚の写真を合成しています。
達谷窟
「たっこくのいわや」と読む。岩手県一関駅からは約10km、奇岩、怪岩のある美しい渓谷で有名な厳美渓には3km、毛越寺には5kmの距離にある。延暦20年(801)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が毘沙門堂を建立したと伝えられる。吾妻鏡には、文治5年(1189)9月、源頼朝が奥州合戦の帰路に、坂上田村麻呂が建立したこの毘沙門堂を参詣したことが記される。巌毘沙門堂の左(西)に描かれる岩(面)大佛は、前九年後三年の役で亡くなった武者の諸霊を供養するために、陸奥守源義家(頼朝の高祖父(曾々祖父))が馬上より弓張(ゆはず)を以って彫り付けたと伝えられている。大日如来との伝えが残るが、岩面大佛の下に立つ「文保の古碑」(1317)には、阿弥陀種子(キリーク)が刻まれるし、姿からも阿弥陀如来とするのが正しいと思われる。
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