毎週月曜日に通っている池袋の歴史講座の帰り道、遠回りして5ヶ所ほど神社・寺院を見て回った。
そのうちの一ヶ所、池袋駅から800mのところにある曹洞宗の寺院・祥雲寺。
山門の入口に説明板があり、
「祥雲寺は後北条氏の重臣江戸城主遠山隼人正景久によって、永禄七年(1564)に江戸城和田倉門内に駒込吉祥寺の末寺として創建されたのが始りで、開山は吉祥寺安充和尚である。当初は景久の室(北条上総介綱成の娘)の菩提所として法号にちなみ浄光院と称し、永禄七年に戦死した景久の法号から瑞鳳山浄光院と号した。
天正十八年(1590)後北条氏滅亡にともない遠山氏も退転したため、しばらく吉祥寺の隠居所となり、神田(駿河台)、小日向金杉、小石川戸崎台と移転した。寛永六年(1629)に信州松本藩主戸田氏が檀越となり、数度の火災の復興に際しても多大な尽力をした。宝永六年(1709)、五代将軍徳川綱吉の死により御台所が落飾して浄光院殿と称したのち憚り、戸田氏最初の檀越康長の法号により瑞鳳山祥雲寺と改号した。
当地への移転は明治三十九年であり、重宝類は昭和九年の火災に焼失した。現在の本尊の薬師如来は胎内銘によれば、天正十七年(1589)の造立になるという。墓地には戸田家代々の墓、酒豪として知られた三浦樽明、首斬り浅右衛門の七代山田浅右衛門などの墓がある。
昭和五十六年三月 東京都豊島区教育委員会」
と記されている。
注: 遠山隼人正景久
遠山氏は、利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派で、もとは、文治元年(1185)加藤次景廉が源頼朝より遠山庄の地頭に補任されたことに始まる。景廉の嫡男景朝はここに住み、遠山を名乗り、岩村城を築いてその本拠とした。明知遠山氏の影保の子・直景より武蔵遠山氏と云われる。直景、綱景と続き、綱景の嫡子に系図では実名の現れない隼人佐がいるが、それが、遠山隼人正景久のことか。
小田原衆所領役帳(永禄2年)には、「買得 拾五貫文 江戸下平川 遠山隼人佑」と記載が見える。
他に、遠山丹波守、左衛門、藤六、彦四郎、弥九郎の名前が記されている。
丹波守はたくさんの所領を持ち、綱景のようである。左衛門は相模遠山氏の康光に当てられる。その他は不明である。
祥雲寺のHPより、内容を年表に直してみた。
■天文元年(1532) 遠山隼人正景久が、吉祥寺の2代目であった大州安充大和尚を招いて和田倉門内に開山した。
■永禄3年(1560) 景久の妻(北条綱成(1517-1587)の娘)永眠し、浄光院殿花蔭宗順大禅定尼として当寺に葬られた。
■永禄7年(1564) 寺院の堂や塔、伽藍が全て完成し、文殊菩薩・普賢菩薩を脇士に、釈迦如来を本尊とした。
同 年 景久は正月8日、北総鴻台における北条里見の合戦で、父丹波守直景(注)と共に戦死し、瑞鳳院殿月渓正円大居士として当寺に葬られた。浄光院と瑞鳳院の二人の号を取り、当寺を瑞鳳山浄光院と名付けた。
注: 北条里見の合戦(第二次国府台合戦)で、遠山綱景(1513?-1564)と子の隼人佐が戦死したとされる。直景は、隼人佐からすると祖父にあたり、ここでは綱景が妥当かと思われる。
■天正18年(1590) 徳川家康が江戸に入城し城郭を拡張修繕するにあたり、当寺は神田台に移動を命ぜられた。
■慶長3年(1598) 神田台が駿河衆の御用屋敷となったため、小日向郷金杉村への移動を命ぜられた。この時、当寺を開いた遠山氏は没落したが、信州松本城主戸田丹波守康長・遠州堀江城主大澤左衛門佐基胤、両者の後援を受けて運営された。
■寛永13年(1636) 金杉の土地もまた、武家用地となったしまったため、戸崎台(文京区白山)へ移転することになった。
■寶永6年(1709) 5代将軍綱吉公が亡くなり、御台所である鷹司氏は出家して、浄光院殿と呼ばれるようになった。それにより、当時第13世笑翁宜悦和尚は、当寺の名前が鷹司氏の法号と同じであることに遠慮し、同年お伺いをたてた上、新しく当寺の大檀越となった戸田康長の法号、祥雲院殿一運宗智大居士に因んで、この時から浄光院を改めて祥雲寺と称するようになった。
■明治36年(1903) 第29世善翁篤友和尚は、祥雲寺を池袋原に移すことを決意し、移転を開始。
■大正4年(1915) 移転が完成。
■昭和9年(1934) 不慮の災難に遭い、堂塔は全て無に帰した。
■昭和10年(1935) 第30世篤仙頼應和尚は、伽藍の復興に努め、旧伏見宮家御別邸を譲り受けて東御殿を書院に、西御殿を方丈に移築した。
現存している名墓としては、戸田家歴代の墓をはじめ、大澤基胤(遠州堀江城主)、木寺宮定姫(基胤の妻)、野々山庸義、友成貞吉、近藤友周(以上松本藩家老)、太田資同朝比奈弥太郎(水戸藩士)、三浦樽明(酒徳院殿酔翁樽枕居士)、山田和水(首斬浅右衛門)、また最近では、石ノ森章太郎(漫画家)の墓がある。 [祥雲寺HPより]
石ノ森章太郎氏の墓(写真)
墓石には小野寺家と家紋「丸に蔦」が刻まれていて、同氏が描いた数々のキャラクターたちに見守られている。
新鮮な供花がいつも飾られている様子がうかがえる。
過去の関連ニュース・情報
石森館跡(いしのもりたてあと)