県立橿原考古学研究所が9日、明日香村の飛鳥京跡で、天武、持統両天皇の飛鳥浄御原宮(672~694年)の北限とされてきた溝の北側から、大型建物跡など2棟が出土したと発表した。
飛鳥寺南門跡の南約100m付近を計約300㎡調査した。2007年に見つかった石組みの東西溝の東側で同様の溝が見つかり、その北側で小さな建物跡が出土。さらに東約60mで、東西15m以上、南北7m以上の大きな建物跡や砂利敷きの広場を確認した。
大型建物跡は東西15m、南北7m分が確認され、南側に庇をもつ切り妻造りとみられる。建物跡の南側には砂利を敷き詰めた広場(東西8m、南北約15m)が見つかり、政治的儀礼が行われたと推定される。
大型建物跡の西側には、東西方向の長さ8m分の精巧な石組み溝を検出。幅1・8mで、両側には60cm大の石を2~3段積み重ね、底にも石を敷き詰めていた。同様の溝は、2007年に西約40mの地点でも見つかっており、長さ60m以上にわたって宮内を延びていたことが分かった。
これまで、宮の規模は、石組み溝を北限とする南北約800m、東西約500mの範囲ともみられる一方で、石神遺跡を含む南北1・4kmに及んだ可能性も指摘されてきた。ただ、今回見つかった大型建物跡方向に北東側だけ張り出した特異な構造との指摘もあり、議論を呼びそうだ。
現地説明会は14日午前10時30分~午後3時30分。(小雨決行)
[参考:毎日新聞、読売新聞、産経新聞]
飛鳥浄御原宮の北に大型建物跡…想定超える規模を確認(読売新聞) - goo ニュース
2007.2.6
飛鳥浄御原宮は南北800m=北端?の石組み溝を発見-奈良
奈良県立橿原考古学研究所は6日、天武、持統両天皇の都だった飛鳥浄御原宮(672~694年)の北端とみられる7世紀後半の石組み溝を見つけたと発表した。
現場は飛鳥寺南門跡の南西約150mで、石組み溝は、河原石を並べた構造で幅1.5~1・7m、深さ0.5~0・7mで東西に約13m分を検出。天皇の正殿があった「内郭」の北約400mで見つかった。20~70cmの巨岩と小石を積み分けた2段構造。溝の南側には、南北の石組み溝(長さ2.3m、幅40cm、深さ35cm)が直角に築かれていた。水流調整のため溝と溝の合流地点で深さを変えるなど高度な設計。近くを流れる飛鳥川への排水路とみられる。同宮には正殿のほか、官庁街や大庭園の「苑池(えんち)」などが造られた。二つの溝はたい積土の状況などから同時期に造られ、藤原京遷都(694年)に伴って埋められたという。
同宮は、天皇の住まいの内郭と役所の外郭からなる。外郭の東端からは石組み溝と、その5m内側に板塀跡が見つかっている。土地の形状などから、南端は内郭の南東で出土した「大極殿」遺構の南側、西端は飛鳥川と推定されている。この石組み溝を北限とすると、鳥浄御原宮は推定で南北約800m、東西は最大で約500mとなり、飛鳥盆地全体に広がる大規模な宮だったと推測される。
飛鳥浄御原宮は、中国にならって造営した日本最初の本格的都城とされる藤原京(694~710年)に先立つ都で、その構造を知る貴重な手掛かりとなる。
[参考:2007.2.6 毎日新聞、朝日新聞、読売新聞、時事通信]
飛鳥寺南門跡の南約100m付近を計約300㎡調査した。2007年に見つかった石組みの東西溝の東側で同様の溝が見つかり、その北側で小さな建物跡が出土。さらに東約60mで、東西15m以上、南北7m以上の大きな建物跡や砂利敷きの広場を確認した。
大型建物跡は東西15m、南北7m分が確認され、南側に庇をもつ切り妻造りとみられる。建物跡の南側には砂利を敷き詰めた広場(東西8m、南北約15m)が見つかり、政治的儀礼が行われたと推定される。
大型建物跡の西側には、東西方向の長さ8m分の精巧な石組み溝を検出。幅1・8mで、両側には60cm大の石を2~3段積み重ね、底にも石を敷き詰めていた。同様の溝は、2007年に西約40mの地点でも見つかっており、長さ60m以上にわたって宮内を延びていたことが分かった。
これまで、宮の規模は、石組み溝を北限とする南北約800m、東西約500mの範囲ともみられる一方で、石神遺跡を含む南北1・4kmに及んだ可能性も指摘されてきた。ただ、今回見つかった大型建物跡方向に北東側だけ張り出した特異な構造との指摘もあり、議論を呼びそうだ。
現地説明会は14日午前10時30分~午後3時30分。(小雨決行)
[参考:毎日新聞、読売新聞、産経新聞]
飛鳥浄御原宮の北に大型建物跡…想定超える規模を確認(読売新聞) - goo ニュース
2007.2.6
飛鳥浄御原宮は南北800m=北端?の石組み溝を発見-奈良
奈良県立橿原考古学研究所は6日、天武、持統両天皇の都だった飛鳥浄御原宮(672~694年)の北端とみられる7世紀後半の石組み溝を見つけたと発表した。
現場は飛鳥寺南門跡の南西約150mで、石組み溝は、河原石を並べた構造で幅1.5~1・7m、深さ0.5~0・7mで東西に約13m分を検出。天皇の正殿があった「内郭」の北約400mで見つかった。20~70cmの巨岩と小石を積み分けた2段構造。溝の南側には、南北の石組み溝(長さ2.3m、幅40cm、深さ35cm)が直角に築かれていた。水流調整のため溝と溝の合流地点で深さを変えるなど高度な設計。近くを流れる飛鳥川への排水路とみられる。同宮には正殿のほか、官庁街や大庭園の「苑池(えんち)」などが造られた。二つの溝はたい積土の状況などから同時期に造られ、藤原京遷都(694年)に伴って埋められたという。
同宮は、天皇の住まいの内郭と役所の外郭からなる。外郭の東端からは石組み溝と、その5m内側に板塀跡が見つかっている。土地の形状などから、南端は内郭の南東で出土した「大極殿」遺構の南側、西端は飛鳥川と推定されている。この石組み溝を北限とすると、鳥浄御原宮は推定で南北約800m、東西は最大で約500mとなり、飛鳥盆地全体に広がる大規模な宮だったと推測される。
飛鳥浄御原宮は、中国にならって造営した日本最初の本格的都城とされる藤原京(694~710年)に先立つ都で、その構造を知る貴重な手掛かりとなる。
[参考:2007.2.6 毎日新聞、朝日新聞、読売新聞、時事通信]
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