倉敷ホーリネスチャーチ

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[真にさいわいな人]キリスト教礼拝メッセージ要約

2008年10月19日 | メッセージ
2008年10月19日、倉敷ホーリネスチャーチ主日メッセージ要約[真にさいわいな人]メッセージ要約をアップいたします。
聖書:ローマ人への手紙4章22~25節
抜粋:4:23 しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、4:24 わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。

<要約>
幸せを求める事(さいわい)、これは例外なく全ての人が持っている願望だと思います。しかし、人によって求める幸せが違うと思います。ある人はお金、また名誉、家族、仕事、家や車・・・
では、あなたの幸せとは何でしょうか?

ダビデは詩篇の中で、幸いについて述べていますが、彼の幸いとは何だったのでしょうか?
4:7に 「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、/さいわいである。4:8 罪を主に認められない人は、さいわいである」。とあります。自分が犯した罪をカウントされない人は幸いだと述べているのです。「そんな都合の良い事があるはずないじゃないか!」とお怒りの諸兄もおられると思いますが、その思いは私たち人間の考えの中のみに存在するもので、神の御心とは違うのです。ダビデが4:7で語った場面を聖書から見てみると、とんでもない罪を犯してしまった後の歌なのです。部下の妻に横恋慕したダビデは何とか策を巡らせますが意にそぐわず、結局夫である部下を激戦の場に行かせ、殉職させてしまうのです。これは消し去る事が出来ない(と、人間が思う)罪です。が、その時にダビデは「罪をカウントされない」幸いを神に感謝しているのです。

またアブラハムは100歳の時に子供を授かりますが、もはや妻サラは月のものが終わってしまった体。常識では当然子供が出来る訳がありません。アブラハムもサラも神の言葉に対し、笑ってしまいます。しかしそんなサラが妊娠し、子供が生まれました。そうです、イサクです。イサクとは『笑う』という意味を持っているのもうなずけます。

この出来事の共通点は、『神に義とされた』事です。義についてはこれまでの要約で紹介していますが、行いにより義とされるのではなく、信仰により義とされるのです。今を生きる私たち、さてどうすれば神から義とされるのでしょうか?
何と幸いな事に、神は私たちのために御子イエスキリストをつかわしてくださいました。そしてその御子を信じる信仰により、救いようのない私たちを罪から解放してくださり、カウントされないようにしてくださっています。

「もう、私はダメだ。生きていてもなにもない!」など決して思わないでください。必ず逃れの道が用意されています。心から主によりたのみ、すべての重荷から解放されますように・・・

真にさいわいな人とは・・・主により罪をカウントされない人なのです。



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