新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

最澄と空海

2017年01月08日 | 日記

 年末、比叡山延暦寺を訪れた。東側の坂本からケーブルカーでのぼった。前日に降った雪が上に行くほど深くなる。
 最澄が最初に築いたとされる一条止観院、のちの根本中堂は改修工事中で、ご本尊をまつる建物がコンクリートの床面に置かれ、参拝者が上からご本尊を見下ろすという異常な配置になっていた。
 最澄がここに庵を結んだ理由を知りたい。なんだか司馬遼太郎になった気分だ。
のぼってみて分かった。東を見渡せば、琵琶湖とその周辺に広がる広大な地域が広がる。ここはむかし穀倉地帯だったに違いない。そして今回は行けなかったが西側へ回れば京都の町が一望できるはずだ。まさに日本の2大中心地を睥睨する位置にある。いうまでもなく京都は政治の中心地だし、琵琶湖は水瓶であり、水産物の宝庫だ。琵琶湖周辺は豊かな穀物地帯とあって、だれにとっても比叡山以上のロケーションは望めない。信長がこの地をやっかんで焼き討ちにしたのも、将来はここに自分の城を建てようとしたのではないかと勘ぐりたくなるほどの好位置だ。さらに比叡山麓に位置する坂本は、琵琶湖とその周辺でとれる穀物や漁獲物が集まる一大マーケットの様相を呈していたはずだ。

 いっぽうの空海は奈良、高野山に金剛峰寺を開いたにもかかわらず、そこに留まることをせず、全国を行脚したとされている。この違いはどこから来るのか。
 かつて司馬遼太郎「空海の風景」を読んだ。その書き出しがいまも脳裏に鮮明に焼きついている。四国、讃岐平野を一望するとそこかしこにため池がある、という書き出しだった。ため池は雨水をため、必要に応じてそこから水を供給するために人工的に作られた池だ。どうやらこのため池を雨の少ない地域に作らせたのが空海だったらしい。水が安定的に供給されれば農業生産は増大し、人びとの暮らしは安定する。私が生まれ育った播州平野にもため池は珍しくなかった。幼いころ農業用水とはつゆ知らず、泳いで遊んだものだった。
 また空海が発見したといわれる温泉が全国に散らばっている。温泉は第一義的には湯治を目的にしたものであり、いまのように娯楽、癒しのためだけのものではなかった。つまり病気の人が快癒することを願って温泉療法をしていた。  
 全国を行脚しながらため池を作る指導をし、温泉を発見していったことに典型的に見られるように、空海のおもな目的は人びとの生活の質(QOL)を向上させることにあったといえる。精神的支柱を確立することだけに留まらず、人びとの生活全般に強い関心を抱いていたのが空海だった。





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