日本の茶道は、精神文化で根底に、主客一体、利休七則、和敬静寂、一期一会などの哲学がある。
わびやさび、もののあわれも、内面的な情緒で外面にでてくるのは、その一部にすぎない。
したがって、外面にあらわれる形は、凝縮されて俳句の五七五調のように簡素化される。
おもてなしは、日本独自の精神文化で気遣いや気配り、思いやりという内の心があって、はじめて、親切や行儀、礼儀という外の形がでてくる。
韓国人の不親切や礼儀知らずについては、外国人がつとに指摘するところだが、韓国人はわれわれこそ、世界一礼儀正しい民族で礼儀を知らないのは日本人だと反論する。
この反駁が体をなしていないのは、韓国人が礼儀の根底にある、おもてなしという精神作用をもっていないからである。
恥や罪、謙虚や遠慮、節度や分も精神作用で、恥を知ってこそ恥ずかしくないふるまいができる。
精神作用は、外の象徴と内の抽象が対になるような心の働きである。
この精神作用がなければ、客人に一生に一度、最期のつもりで茶を点てるという、一期一会の茶道は成立しない。
それが、茶道の“道“で、華道や柔道、剣道も、内に道という精神文化をそなえている。
道は、術が文化レベルにまで高まったことで、技術だけなら茶道ではなく茶術にとどまる。
敵を倒すだけの柔術が、柔道となったのは、嘉納治五郎によって、「精力善用」「自他共栄」という精神文化が持ち込まれたからで、剣道も宮本武蔵の「身をあさく思ひ世をふかく思ふ」という精神的高さがなかったら、敵を倒すだけの剣術にとどまっていただろう。
“道“という精神文化を見ずに、茶道も華道も柔道も剣道も、韓国が本家と言い立て、世界の笑いものになっているのが、韓国の精神文化の貧しさなのである。