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立田自然公園へ【熊本城から歩く-2】

2020-10-16 | 熊本城
2020年10月11日(日)

熊本城から歩く2回目は細川家の菩提寺泰勝寺(たいしょうじ)跡「立田自然公園」へ行こう。

スタートは二の丸広場。



二の丸御門跡から百間石垣のところを通り、「新堀橋」を渡る。





新堀橋際にあるお地蔵さん。子供のころは橋からの自殺者の新聞報道が時々あった。



新堀橋からまっすぐ行って、すぐに右へ。信号を直進。「観音坂」を下る。
観音坂は急な坂で、子供のころは舗装はしてなく、石がごろごろしている坂だった。
この坂でもよく転んだ。
坂の上下途中に観音様はいない。昔はあったのだろう。



坂を下りて、少し寄り道しよう。右へ曲がる。すぐに左へ曲がり、中央高校(旧中央女子高)と壺溪塾の間の道へ。

「佐々友房生誕の地」の説明板がある。佐々友房は1854(安政元)年生まれ。西南戦争で薩摩軍に加わった。



何歩か歩くと、中央高校の敷地のところに「横井小楠生誕地と清正公井」の説明板がある。
横井小楠は1809(文化6)年生まれ。勝海舟、坂本龍馬など幕末に活躍した人たちに影響を与えた思想家。明治新政府に参与として招かれた。
清正公井は小楠が産湯を使ったと思われる井戸。その時代下級武士の家で使われていたと井戸の形式で復元されている。



通りへ出て左折すると、宮部鼎蔵邸跡の碑がある。
宮部鼎蔵は1820(文政3)年、現在の御船町生まれ。藩の兵法指南役の頃の住居跡。勤王等の重鎮で吉田松陰も訪ねてきている。



宮部鼎蔵邸跡碑に行く前に、通りへ出て右折。夏目漱石旧居跡へ行ってみた。熊本地震で損傷した建物の修復工事中であった。



夏目漱石旧居跡を背に宮部鼎蔵邸跡碑からまっすぐ進んで行くと壷川小学校が見える。右へ曲がる。壷川小学校は熊本市内で最も古い小学校の一つ。
幼稚園の運動会があっている。



熊本城長塀前を流れる坪井川に架かる橋を渡る。



まっすぐ歩いて、突き当りを左へ、すぐに右へと曲がる。バスもそのように進むが、広い道ではないので運転手さんは大変である。
熊本電鉄の踏切を渡る。



浄行寺の交差点をまっすぐに進み、子飼の商店街を横目に、子飼交差点もまっすぐに進むと熊本大学に着く。

赤門は旧制五高時代の正門で国指定重要文化財。



赤門を入って直ぐの右手に、熊本大学永青文庫研究センターがある。永青文庫から寄託された文書類を研究する機関。



五高記念館は、熊本地震で損傷を受け、修復作業中。
五高記念館は、1887(明治20)年に開校した第五高等中学校の校舎として、1889(明治22)年に建てらる。
第五高等中学校は、1894(明治27)年に高等学校令により第五高等学校に改称、1950(昭和25)年に閉校、熊本大学となる。

五高記念館は、国の重要文化財に指定され、記念館として五高の歴史の展示や、昔の教室で市民向けの講座などが開かれている。
講座に何回か参加したことがある。それらも、熊本地震で中止になっている。



上の写真の中門の近くにはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)のレリーフが建てられている。
小泉八雲は1891(明治24)年~1894(明治27)年、英語の教師であった。
当時は講道館の創始者・加納治五郎が第3代の校長を務めている。



夏目漱石像の建っているところはわかりにくい。
熊大に行くたびにキョロキョロするが見当たらない。
何度目かに学生さんに聞いた。
「あちらに、座っています。」と教えてもらった。
小泉八雲のレリーフよりも東の方、そこは何度か通ったことのある通路の横だった。
通路と銅像の間には植え込みがあり、座像なので目立つこともなく、わからなかった。
左手で頭をなでてもらうと頭がよくなるそうだ。



夏目漱石は1896(明治29)年~1903(明治36)年まで、五高の英語の教師だった。
1897(明治30)年、第10回開校記念日に教員総代として読んだ祝辞の一節「夫レ教育ハ建国ノ基礎ニシテ、師弟ノ和熟ハ育英ノ大本タリ」が碑に刻まれている。



漱石の五高を詠んだ俳句の中から「秋はふみ 吾に天下の 志」の句碑もある。
漱石の俳句は約2400句あるそうでそのうち約1000句は熊本で詠んでいるといわれている。
熊本では、小説家漱石ではなく俳人漱石だった。



夏目漱石旧居から熊大まで来た道は、漱石も通勤に利用しただろうな、などと思いながら、熊大の中を東北の方の出入り口に抜けて、立田山の方へ向かう。

道沿いに「引導石」がある。
宮本武蔵は1645(正保2)年に62歳で生涯を閉じるまでの5年間を熊本で過ごした。泰勝寺の二代目春山和尚が、石の上に置かれた棺に成仏するよう引導を渡すと、にわかに雷鳴が鳴り渡ったと伝えられている。



歩きながら、先に「立田山」に登るか、「立田自然公園」へ行くか、決めかねていたら「森の展示館」の案内板がある。
ここに寄ってみよう。



国立研究開発法人森林研究・整備機構森林総合研究所森林総合研究所とは、「我が国の森林の多面的機能の高度発揮、林業の成長産業化の推進、次世代に向けた森林の充実と持続に貢献する」研究を行っている機関のようだ。

こじんまりとした展示館であるが、九州の森林の様子を知ることができる。



入ってすぐに迫力ある屋久杉が。



立田山の大半はこの研究所が管轄し、研究林になっているようだ。研究所からも立田山に登るルートがある。知らなかった。
山の案内図も用意してある。



立田山に登るのが先になった。











豊国台公園へ。



ここは、国指定天然記念物「立田山ヤエクチナシ」の自生地として指定されている。



公園の一角に、加藤清正が1599(慶長4)年豊国大明神宮(豊臣秀吉の霊)を祀った豊国廟跡がある。廟は徳川家の圧迫によりとり壊されている。
 


頂上へ向かう。学びながら山の散策ができる。



頂上の周囲は木が生い茂り、展望は開けていない。





下りは豊国台公園の横を通り、配水池の方へ。
立田山には登った記憶はあまりない。
3年前、行橋~別府100キロウォークに参加するため、坂の上り下りのトレーニングで登った。このとき久しぶりに登った。
下りは、100キロウォークの難所七曲峠の下り坂に少し似ている。
きつかった3年前を思い出しながら下り終える。

立田自然公園へ向かおうとしたら、明治32年生まれ熊本市出身のプロレタリア作家・徳永直の碑が目に入った。
「私たちはもっと労働について語らなければならない。労働のもつ内容は、現在語られている多くの恋愛よりも、インテリゲンチャのある種の悩みよりも、ないしは消費生活の絢爛さよりも、はるかに豊富で、人類を益するものである」と書いてある。

コロナ禍の自粛生活の中で、看護師、保育士、日常生活の品々を運送する人たち、お店のレジ係の人たちなどなどなど、休むことなく働いている人たちに感謝の言葉があふれていた。



ようやく、「立田自然公園(泰勝寺跡)」へ。
泰勝寺は細川家の菩提寺。明治維新の神仏分離で廃寺となった。
今では、自然公園として整備されている。



園内には初代細川藤孝夫妻、二代細川忠興夫妻の墓「四つ御廟」がある。



初代細川藤孝の墓



初代細川藤孝夫人の墓



二代細川忠興の墓



二代細川忠興夫人(ガラシャ夫人)の墓



「四つ御廟」から奥へと進む



と、宮本武蔵供養の塔と伝えられている塔がある。



戻って、10代細川斉茲の墓などを巡り、園内を一周して池を眺めながら休憩。



熊本大学前バス停へ戻り、今日の「歩く」を終える。


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