【写真はクリックすると拡大します】
2016年1月30日(土)
JR九州ウォーキング2016年初歩きは熊本駅からである。今日のコース一帯のことには疎い。メイン池辺寺などについて荒木精之他著『熊本の伝説』には、
「昔、肥後国の国司道君首名が造った味生の池には、悪い竜がいて人畜を害するので、道君は朝廷に救いを乞うた。朝廷ではさっそく僧真澄を派遣された。
真澄が池のほとりで法華千部会を開いて悪竜退散を祈願したところ、竜は天に昇りそれ以来なにごとも起こらなかったという。そこで真澄は、和銅三年(710)、池のあたりに寺を建て池辺寺と名づけた。(中略)
その後、弘法大師が唐に留学の時(804-806)日本に向かって投げた独鈷・三鈷・五鈷のうち、独鈷が山の木にとまったので独鈷山というようになった。」
とある。
同行者と熊本駅で会い10時前にスタート。
(受付でいただいた説明書)
(工事中の交通センターにあった「おてもやん像」が迎える)
花岡山の仏舎利を眺めて、万日山のトンネルをくぐる。西回りバイパスを横切り、井芹川を渡って少し上ったところに池上日吉神社がある。由緒には「池辺寺の守護社」とある。池辺寺(ちへんじ)の住職墓などがあった。
(熊本駅横の花岡山)
(その横の万日山)
(万日山トンネル)
(金峰山)
(天満宮)
(池上日吉神社)
(池上日吉神社)
(池上日吉神社)
(池上日吉神社)
(池上日吉神社)
そこから、また少し上って味生池(あじうのいけ)展望所に出る。味生池推定地の向こうには熊本城など現在の熊本市街が見える。
熊本は国府が今の城南町、出水町国府、二本木町と移転している。展望所から見える山の向こうは熊本駅付近二本木の国府が置かれていたと思われる地点である。
眺めていると、国府の国司として奈良の都から派遣された道君首名(みちのきみのおびとな)が和銅年間(708-715年)に造った味生池は、国府とその周辺を護る灌漑用の池だったのではないかと思える。
17世紀の始め、加藤清正が熊本を治めるに灌漑工事を行ったのは有名な話だが、8世紀の始めすでに熊本を治める灌漑工事が時の政権によって行われていた。
(味生池推定地)
(味生池推定地)
(道沿いで)
(道沿いで)
そんなことを考えながら更に上っていくと池辺寺跡に着いた。広場で地元の皆さんのおもてなしで猪の肉をいただく。池辺寺跡が整備されている展望広場へ。
(池辺寺跡広場で)
池辺寺の創建は味生池が造られたと同じころ奈良時代の和銅年間と伝えられている。ここ池辺寺跡は平安時代初めの遺跡である。
先に訪れた池上日吉神社はその後に池辺寺が移転し、池辺寺として明治初めまで存在した場所であるようだ。
展望広場に立って眺めると、本堂跡の斜面に並ぶ百塔跡に目が行く。こんなのは初めて見た。百塔跡は後の人たちは塚と思ったらしいが石塔である。
一辺2.4mの石積が10×10で並んでいる。灯りなどそんなになかった時代、百の塔に火が灯った時の光景をどんな思いで人々は見ていたのだろうか。
(池辺寺跡展望広場)
(池辺寺跡百塔)
(池辺寺跡百塔)
(池辺寺跡本殿)
(池辺寺跡本殿)
(池辺寺跡)
ここから西の方を眺めると花岡山が見える。花岡山の直ぐ横が熊本駅でそのあたりに国府が置かれていたとすると、国府から真東の地点に池辺寺はあったことになる。国府と何らかの位置関係があったのだろうか。池辺寺は衰勢を繰り返しているようだが、ここの池辺寺が衰退していったのは国府が無くなっていくのと関係しているのだろうか。
(西側は花岡山)
さて下ろう。竹林や木々の中を下っていく。昨日、一昨日の雨で足元がぬかるんでいる。ムシロなどを敷いて歩けるようにしてある。足元が悪くなければ気持ちのいいウォーキングコースだよなぁ、と思いながら下る。
(竹林を歩く)
(ワクド岩)
(木立の中を歩く)
途中、独鈷山(とっこさん)も眺められる。
(独鈷山)
下ったところは高橋西神社。
(高橋西神社)
そのすぐ側に、「河童に川に引き込まれそうになった馬がお寺に走り込み、河童も手綱に巻かれて寺内に引き込まれた。寺の良快法印が秘法で河童の神通力を封じ、叱ったところ、この地の人畜に水難のないように守護すると河童が詫びた。」というかっぱ封じの伝説がある高橋山聖徳寺。そこから折り返す。
(高橋山聖徳寺)
ここで寄り道。井芹川に架かる橋を渡り、高橋東神社へ行く。井芹川と坪井川が合流した地点に社が建ち、味生池を築いた道君首名を祭ってある。井芹川も坪井川も昭和40年代まではよく氾濫した。
神社には神々が祭られており、一個人が祭られているのは珍しい。菅原道真が大宰府天満宮に祭られているが、亡くなったのは903年で、その道真の怨霊を鎮めるために祭られた。道君首名はいつごろから祭られているのだろうか。道真より早く神社に祭られた個人になるのだろうか。
神社の大楠はパワースポットとして売り出し中である。
(坪井川と井芹川の合流地点にある高橋東神社)
(高橋東神社)
(高橋東神社)
コースに戻り井芹川沿いを上る。
(井芹川沿い)
(井芹川)
今日、スタートした熊本駅から在来線で上ると、上熊本駅、崇城大学前駅、西里駅と続く。崇城大学前駅と西里駅の間に6世紀後半ごろの有名な装飾古墳、釜尾古墳がある。こんなところに古墳、と近くを通って案内板を見るたびに思っていた。そこは、この井芹川の上流になる。今歩いているところを2kmほど下ると、5世紀後半から6世紀初め頃の装飾古墳群、千金甲古墳がある。そこから少し下れば有明海が広がる。釜尾古墳あたりに住んでいた人々は井芹川を利用して有明海に出て、多くの地域と交流していたのだろう。今、歩いていて納得できた。
その川の途中に8世紀の初め、灌漑用の池が出来た。今でいえばダムであろう。釜尾古墳あたりに住んでいた人々にはどんな影響があったのだろうか。伝説では「悪い竜がいて人畜を害する。」とあるが、天災や、工事の未熟さなどから決壊することもあっただろう。ダムが出来て上流に住む人々にとっては良くない影響があったら何らかの行動を起こした人がいたかもしれない。「竜」はそんなもろもろの事を指すのではなかろうか。
いろんなことを思いながら歩く。川を外れたところにある地蔵や法名が刻まれた二王堂の板碑を見学し、小学校の方へ曲がる角の空き地には地元の校区まちづくり委員会等が主体となって周辺の景観を1/500の大きさで復元されていた。池辺寺跡の広場でのおもてなし、下りの悪路にムシロなどを敷いて歩きやすくしてあったり、施設の説明などなど、地域の人たちのまちづくりの熱心さというか気合が入っているというかそのようなのを感じさせてくれる。
(二王堂の板碑)
(池上町模型)
池上(いけのうえ)小学校壁面には青龍・赤龍の模型が飾ってある。申し訳程度のものではない、実に立派な龍である。これも地元の人たちの熱意がこれだけのものになったのだろう。完成した時はテレビで放映されていた。
(池上小学校)
小学校横の「お菓しのあさい」で栗まんじゅうを買って食べながら歩く。13時15分頃熊本駅にゴール。熊本駅「えきマチ1丁目熊本」内の「HERO海」で海鮮丼とビール。お疲れ様でした。
(お菓しのあさい)
(金峰山)
(熊本駅)
(HERO海)
2016年1月30日(土)
JR九州ウォーキング2016年初歩きは熊本駅からである。今日のコース一帯のことには疎い。メイン池辺寺などについて荒木精之他著『熊本の伝説』には、
「昔、肥後国の国司道君首名が造った味生の池には、悪い竜がいて人畜を害するので、道君は朝廷に救いを乞うた。朝廷ではさっそく僧真澄を派遣された。
真澄が池のほとりで法華千部会を開いて悪竜退散を祈願したところ、竜は天に昇りそれ以来なにごとも起こらなかったという。そこで真澄は、和銅三年(710)、池のあたりに寺を建て池辺寺と名づけた。(中略)
その後、弘法大師が唐に留学の時(804-806)日本に向かって投げた独鈷・三鈷・五鈷のうち、独鈷が山の木にとまったので独鈷山というようになった。」
とある。
同行者と熊本駅で会い10時前にスタート。
(受付でいただいた説明書)
(工事中の交通センターにあった「おてもやん像」が迎える)
花岡山の仏舎利を眺めて、万日山のトンネルをくぐる。西回りバイパスを横切り、井芹川を渡って少し上ったところに池上日吉神社がある。由緒には「池辺寺の守護社」とある。池辺寺(ちへんじ)の住職墓などがあった。
(熊本駅横の花岡山)
(その横の万日山)
(万日山トンネル)
(金峰山)
(天満宮)
(池上日吉神社)
(池上日吉神社)
(池上日吉神社)
(池上日吉神社)
(池上日吉神社)
そこから、また少し上って味生池(あじうのいけ)展望所に出る。味生池推定地の向こうには熊本城など現在の熊本市街が見える。
熊本は国府が今の城南町、出水町国府、二本木町と移転している。展望所から見える山の向こうは熊本駅付近二本木の国府が置かれていたと思われる地点である。
眺めていると、国府の国司として奈良の都から派遣された道君首名(みちのきみのおびとな)が和銅年間(708-715年)に造った味生池は、国府とその周辺を護る灌漑用の池だったのではないかと思える。
17世紀の始め、加藤清正が熊本を治めるに灌漑工事を行ったのは有名な話だが、8世紀の始めすでに熊本を治める灌漑工事が時の政権によって行われていた。
(味生池推定地)
(味生池推定地)
(道沿いで)
(道沿いで)
そんなことを考えながら更に上っていくと池辺寺跡に着いた。広場で地元の皆さんのおもてなしで猪の肉をいただく。池辺寺跡が整備されている展望広場へ。
(池辺寺跡広場で)
池辺寺の創建は味生池が造られたと同じころ奈良時代の和銅年間と伝えられている。ここ池辺寺跡は平安時代初めの遺跡である。
先に訪れた池上日吉神社はその後に池辺寺が移転し、池辺寺として明治初めまで存在した場所であるようだ。
展望広場に立って眺めると、本堂跡の斜面に並ぶ百塔跡に目が行く。こんなのは初めて見た。百塔跡は後の人たちは塚と思ったらしいが石塔である。
一辺2.4mの石積が10×10で並んでいる。灯りなどそんなになかった時代、百の塔に火が灯った時の光景をどんな思いで人々は見ていたのだろうか。
(池辺寺跡展望広場)
(池辺寺跡百塔)
(池辺寺跡百塔)
(池辺寺跡本殿)
(池辺寺跡本殿)
(池辺寺跡)
ここから西の方を眺めると花岡山が見える。花岡山の直ぐ横が熊本駅でそのあたりに国府が置かれていたとすると、国府から真東の地点に池辺寺はあったことになる。国府と何らかの位置関係があったのだろうか。池辺寺は衰勢を繰り返しているようだが、ここの池辺寺が衰退していったのは国府が無くなっていくのと関係しているのだろうか。
(西側は花岡山)
さて下ろう。竹林や木々の中を下っていく。昨日、一昨日の雨で足元がぬかるんでいる。ムシロなどを敷いて歩けるようにしてある。足元が悪くなければ気持ちのいいウォーキングコースだよなぁ、と思いながら下る。
(竹林を歩く)
(ワクド岩)
(木立の中を歩く)
途中、独鈷山(とっこさん)も眺められる。
(独鈷山)
下ったところは高橋西神社。
(高橋西神社)
そのすぐ側に、「河童に川に引き込まれそうになった馬がお寺に走り込み、河童も手綱に巻かれて寺内に引き込まれた。寺の良快法印が秘法で河童の神通力を封じ、叱ったところ、この地の人畜に水難のないように守護すると河童が詫びた。」というかっぱ封じの伝説がある高橋山聖徳寺。そこから折り返す。
(高橋山聖徳寺)
ここで寄り道。井芹川に架かる橋を渡り、高橋東神社へ行く。井芹川と坪井川が合流した地点に社が建ち、味生池を築いた道君首名を祭ってある。井芹川も坪井川も昭和40年代まではよく氾濫した。
神社には神々が祭られており、一個人が祭られているのは珍しい。菅原道真が大宰府天満宮に祭られているが、亡くなったのは903年で、その道真の怨霊を鎮めるために祭られた。道君首名はいつごろから祭られているのだろうか。道真より早く神社に祭られた個人になるのだろうか。
神社の大楠はパワースポットとして売り出し中である。
(坪井川と井芹川の合流地点にある高橋東神社)
(高橋東神社)
(高橋東神社)
コースに戻り井芹川沿いを上る。
(井芹川沿い)
(井芹川)
今日、スタートした熊本駅から在来線で上ると、上熊本駅、崇城大学前駅、西里駅と続く。崇城大学前駅と西里駅の間に6世紀後半ごろの有名な装飾古墳、釜尾古墳がある。こんなところに古墳、と近くを通って案内板を見るたびに思っていた。そこは、この井芹川の上流になる。今歩いているところを2kmほど下ると、5世紀後半から6世紀初め頃の装飾古墳群、千金甲古墳がある。そこから少し下れば有明海が広がる。釜尾古墳あたりに住んでいた人々は井芹川を利用して有明海に出て、多くの地域と交流していたのだろう。今、歩いていて納得できた。
その川の途中に8世紀の初め、灌漑用の池が出来た。今でいえばダムであろう。釜尾古墳あたりに住んでいた人々にはどんな影響があったのだろうか。伝説では「悪い竜がいて人畜を害する。」とあるが、天災や、工事の未熟さなどから決壊することもあっただろう。ダムが出来て上流に住む人々にとっては良くない影響があったら何らかの行動を起こした人がいたかもしれない。「竜」はそんなもろもろの事を指すのではなかろうか。
いろんなことを思いながら歩く。川を外れたところにある地蔵や法名が刻まれた二王堂の板碑を見学し、小学校の方へ曲がる角の空き地には地元の校区まちづくり委員会等が主体となって周辺の景観を1/500の大きさで復元されていた。池辺寺跡の広場でのおもてなし、下りの悪路にムシロなどを敷いて歩きやすくしてあったり、施設の説明などなど、地域の人たちのまちづくりの熱心さというか気合が入っているというかそのようなのを感じさせてくれる。
(二王堂の板碑)
(池上町模型)
池上(いけのうえ)小学校壁面には青龍・赤龍の模型が飾ってある。申し訳程度のものではない、実に立派な龍である。これも地元の人たちの熱意がこれだけのものになったのだろう。完成した時はテレビで放映されていた。
(池上小学校)
小学校横の「お菓しのあさい」で栗まんじゅうを買って食べながら歩く。13時15分頃熊本駅にゴール。熊本駅「えきマチ1丁目熊本」内の「HERO海」で海鮮丼とビール。お疲れ様でした。
(お菓しのあさい)
(金峰山)
(熊本駅)
(HERO海)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます