鉄卓のブログ「きままに」

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「鉄道敷跡」から「万田坑」に会う【JR九州大牟田駅 鉄卓のフォト・ウォーク2016-20】

2016-11-08 | JR九州ウォーキング
2016年11月3日(木)


(今日のマップ)

JR九州ウォーキング大牟田駅コースに参加。

久しぶりに鹿児島本線で北上する。以前は、玉名駅から長洲駅間で見える雲仙の姿で今日の天気を予感していたが最近はPM2.5の影響かぼんやりした姿が多い。今日もそんな姿をしている。


(列車から雲仙の山並み)

JR大牟田駅は西鉄大牟田駅と隣り合わせ。


(JR大牟田駅。向こうの列車は西鉄大牟田駅ホームの電車)

9時過ぎにスタートし、三池カルタ・歴史資料館に行く。ポルトガルから入ってきた「カルタ」は16世紀に日本では「天正カルタ」と呼ばれ筑後の三池地方(現大牟田市)で作られるようになった。日本では「貝合わせ」が古くからの遊びとしてあった。それが「カルタ」の四角い紙を使った遊びとして今日の「かるた」のようになってきたのは江戸時代の事のようだ。種々のカルタが展示してある。山頭火の句のカルタもあった。館内は撮影禁止。


(道沿いで)


(三池カルタ・歴史資料館)

昭和40 (1965)年、夏の甲子園で優勝した三池工業高校の横を通り、国指定重要文化財「早鐘眼鏡橋」へと歩く。大きな道から少し入ったところの橋を見た瞬間、立派な石橋だなと感じる。「三池藩が延宝2(1674)年に早鐘池の用水を通すために、大牟田川にかけた石造アーチ型水路橋で、この様式ではわが国で一番古いものです。」と説明板にあった。


(三池工業高校)


(早鐘眼鏡橋)

戻った大きな道には、「宮原坑・鉄道敷」の大きな看板がある。そこから鉄道跡横を歩いて、宮原坑に着く。宮原坑は明治31(1898)年に坑外施設が完成したから昭和6(1931)年の閉坑までの歴史がある。その間、囚人を採炭労働に使役させるため近くに三池集治監が置かれたりした。


(宮原坑・鉄道敷看板)


(鉄道敷跡)


(宮原抗)


(第二竪坑巻揚機室)


(第二竪坑櫓)


(第二竪坑巻揚機室)


(第二竪坑巻揚機室内)


(第二竪坑巻揚機室内)

少しまわり道をして、三池炭鉱専用鉄道敷跡を歩く。三池炭鉱専用鉄道は、明治11(1878)年に大牟田川河口の大牟田港と大浦港の間に開通した馬車鉄道が始まり。三池炭鉱専用鉄道本線は、明治23(1890)年から敷設工事が始まり、明治38(1905)年には三池港までの全線が開通した。
線路跡にはゴムマットを敷いて歩きやすいようにしてあったが、前日の雨で水が溜まったりして歩きにくいところもあった。


(道沿いで)


(三池炭鉱専用鉄道敷跡へ)


(三池炭鉱専用鉄道敷跡)


(三池炭鉱専用鉄道敷跡を歩く)


(旧万田駅ホーム)


(県境?)

鉄道は、その後も支線の整備や路線の複線化、蒸気機関車から電気機関車へと変遷し、一時期は地方鉄道として旅客輸送も行われた。駅のホームも残っている。石炭鉱業の衰退とともに縮小され、平成9(1997)年には、三井化学内を走る一部の路線を残して、炭鉱に関わる路線は廃止されている。
線路跡を歩いて行くと、線路跡歩きの一番の見どころ万田坑が見えてくる。


(万田坑)

宮原坑は福岡県大牟田市だが万田坑は熊本県荒尾市になる。歩いてきた線路跡に県境があるはずだがそのような標識は見当たらなかった。坑道は地中深くにあり、県境など関係なく掘られているだろうし、福岡県大牟田市と熊本県荒尾市は同じ炭鉱町として経済圏も一体化している。
この日、万田坑はフェスタが行われており、大勢の人出で賑わっていた。小学生の子どもたちが描いた絵を見せながら、それぞれの場所で説明してくれた。写真はカット。


(万田坑)


(万田坑)


(万田坑)

ウォーキングで万田坑に最初に行ったのは2010年だった。開放され始めの頃だったと思う。その時は事務所の中も見学できた。万田坑は明治35(1902)年から出炭を開始し、平成9(1997)年に閉山したが、閉山して働いていた人々が去って、そのままの姿が机やロッカー、休憩室にあった。映画などの過去を振り返るシーンで、その当時の場面がモノクロで映し出され、ざわざわとした声が聞こえはじめ、人々が現われ、カラーに変わって、過去の場面に変わっていく。そんなのが目の前で起こりそうだったのを覚えている。
今日は、カメラを向けたらどこも人だかりで、その雰囲気はない。観光地、世界遺産「万田坑」に来た感じがある。

炭鉱に来ると、1963(昭和38)年に起きた、三池の三川坑で発生した炭塵による爆発事故を思い出す。死者458名、CO中毒(一酸化炭素中毒)患者839名を出した。中学生の時だった。文化祭だったと思うがカンパ活動をして、新聞社に届けた記憶がある。その後、三川坑で働いていた方と知り合いになったが、その方は、次に坑内に入る番で待機されていた時に爆発が起きた。「炭を掘って運ぶために待機していたんですよ。それが仲間の死体を運んだんですよ。」と、無念の思いを何度も聞いた。CO中毒でいまなお苦しまれている方もおられると思う。
炭鉱は、経済成長を促進する基盤産業で、今の私たちがある。一方で、何度も何度も死者を出す事故をくり返してきた。囚人労働、中国や朝鮮半島の人々の強制労働もあった。光も影も学べる場になって欲しいと思う。


(再び鉄道敷跡へ)


(裏から万田抗)


(鉄道敷跡を歩く)


(旧妙見駅)


(旧妙見駅)


(鉄道敷跡を歩く)


(鉄道敷跡を歩く)


(旧原万田駅。ここまで鉄道敷跡を歩く)


(説明板)

線路跡歩きを終えて、「四山神社」へと歩く。階段を上る。途中から海達公子(かいたつきみこ)詩碑が並べられている文学散歩道を歩いて、高台にある神社へ着く。有明海が一望できるけど、雲仙は霞んでうっすらとしか見えない。


(鉄道敷跡下を歩く)


(荒尾市の歩道)


(旧西原駅を横切る)


(四山神社)


(文学散歩道)


(四山神社)


(雲仙の山並みはかすかに)


(四山神社裏へ出て大牟田の港方面)


(真ん中に万田抗?)


(旧西原駅)


(四山神社を後にする)

下って、大きな直線道路を歩く歩く。この時、同行者がいたから良かったけど、一人で歩くには単調できついと思う。お昼頃で暑い。ようやく左に曲がるところに。鹿児島本線の線路を渡ってまた左に。「宮崎兄弟の生家・資料館」に着く。宮崎兄弟の八郎、民蔵、彌蔵、滔天はこの地で明治維新の前後に生まれ、長兄八郎は自由民権運動家で西南戦争では薩軍に参加し戦死。弟たちは兄の影響を受け、民蔵は「土地復権論」、彌蔵は西欧列強からのアジア解放アジア主義を唱える。滔天は中国で清朝打倒・共和制樹立で戦う孫文らと行動を共にする。孫文は2度、この地を訪れている。資料館では当時の熱気を感じることが出来る。
滔天は夏目漱石の小説「草枕」の那美のモデル卓(つな)の妹・槌(つち)と結婚した。卓・槌姉妹は熊本県小天の自由民権運動家前田案山子の娘。卓も孫文らの支援する活動をおこなった。滔天の長男龍介は弁護士や社会運動の活動家となる。学生時代に筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻柳原白蓮と恋仲になり、後に結婚する。白蓮は世界連邦運動の活動を従事する。


(踏切で)


(宮崎兄弟生家)


(資料館)

ここには何度か来ているので、早々にゴール荒尾駅へ向かう。13時20分頃着く。お昼ご飯を食べるタイミングを失し、食べていない。駅付近をウロウロするが喫茶店ぐらいしかない。コンビニも無い。お菓子屋さんでお菓子を買って腹の足しにした。


(道沿いで)


(荒尾駅)


(お昼?おやつ?)


(荒尾駅)

逆コースだったら大牟田駅付近では食べるところもあったのにと思う。それでは、線路跡を歩いて万田坑を見た時の感動は味わえないとも思う。まだお腹がいっぱいでない帰りの列車の中で複雑な心境になりながら、福岡県の大牟田駅をスタートし、熊本県の荒尾駅にゴールしたウォーキングを終える。