たけじいの気まぐれブログ

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瀬戸内寂聴著 「死に支度」

2021年06月30日 18時09分19秒 | 読書記

図書館から借りていた 瀬戸内寂聴著 「死に支度」(講談社)を読み終えた。数年前までは 読書の習慣等まるでなかった読書初心者、もちろん、瀬戸内寂聴氏の著作を読むのも、今回が初めて。以前から、相互フォロワー登録している数多の方々の読書感想ブログ記事を拝見し、「読んでみたい本リスト」に入れていた書だが、やっとその気になり、手を伸ばし借りてきたものだ。
作家として、宗教者として、人間として、烈しくも真摯に生き抜いてこられた作者、瀬戸内寂聴氏の91歳から92歳までの1年間を描いた作品だ。

瀬戸内寂聴著 「死に支度」

老鶯(ろうおう)
春の革命
母コハルの死
春の雪
てんやわんやの寂庵
点鬼簿
それぞれ
臨終行儀
負け戦さ
木の花
虹の橋
幽霊は死なない

90歳を超しても尚、年中、夜も眠らず仕事に追われている作者を見かねて、91歳の誕生日を前にして、それまで長年手助けをしていた女性スタッフ達が、一斉に自分達を解雇して仕事を減らすよう「春の革命」を作者に勧めた。作者は、彼女達の思いに打たれ、それを決意。寂庵では 残った最年少のスタッフ、年齢差66歳のモナと、続いて採用した、年齢差68歳のアカリと、センセ(作者)の新たな生活が始まった。年齢差を感じさせない生き生きした女子会話が、実に楽しく面白い。笑いの絶えない若い二人との生活は、作者を若返らせたが、待ち受けるのは老い呆けと死。「いつ死んでも悔いはない。毎日が死に支度」との思いで、これまでの人生を振り返り、出会ってきた数多の人々や出家者の死に様を交えながら、自らの死に方を考えていく。しかし、最終章では、モナから作者への手紙に対する作者の返事の手紙の中で、
「私は 「死に支度」を、今月でやめます。丁度 1年間、12ケ月書きました。どうやらまだ死にそうもなく、それでいて、今夜死んでも何の不思議もない私に愛想をつかして「死に支度」なんて、小説の中でも、実生活の中でもやめようと決めました」と 述懐する。
ドキッ!とするような表題とは裏腹、深い感動と愛に満ちた内容で、泣いて笑ってサバサバしており、多くの読者から反響が大きいことが頷ける作品だ。

本著作は 2014年(平成26年)、作者92歳の作品だが、それ以後も著作が並んでいるからすごい。1922年(大正11年)5月15日に徳島県で生まれた作者、小説家であり、天台宗の尼僧(僧位 権大僧正)、現在の御年 99歳。1997年には 文化功労者、2006年には 文化勲章、その他 女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞等を受賞している。

参照 講談社BOOK倶楽部 → こちら

 

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「中学生日記より」その37(再)

2021年06月30日 08時15分54秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のこと。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると、すっかり喪失してしまっていた記憶が、断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。(以上 過去記事コピペ文)


その37 「大晦日」

昭和30年(1955年)12月31日(土)、天気 雨、
起床 5時10分、就床 12時5分、

1、大みそか(大晦日)、(昭和)三十年の最後、
  特別番組が、多くさん(沢山)あった、
3、ラジオで じょや(除夜)の鐘を聞こうと、
  十二時までおきて(起きて)いたが、
  プッと電気がきえて(消えて)しまった、
  七時十五分から、「太郎さん花子さん」、大阪~東京「三人組三つの歌」、
  「そっきょう(即興)劇場」、有名人出演、
  九時五分 ラジオ東京 「1955年 オールスター歌合戦」、
  歌手は だいたい全部出演した、

1955年よ さようなら、昭和30年は もうこない、
おおみそか さみしくもあり うれしくもあり、
おおみそか 一日たてば 新しい年、
三十年先は長いと思うけど 立って(経って)見れば(みれば)短い年よ、
夢に見る1956年、明日になり、
お正月と待っていれどもきてみれば、うれしくもなし、さびしくもなし、
なんだか、うきうきするばかり、
1955年 ばいばい、

餅つき繭玉の飾り付けおせち料理作り等 年末やるべき仕事を全て終えて、夕食後、家族全員 茶の間の炬燵に集まり、ラジオに耳を傾けていたんだと思う。
M男の住んでいた家は、村落のはずれに有り、村の鎮守、小さな神社からも数キロ離れていた。近くに寺院等も無く、当時、元日に初詣に出掛ける等という習慣が無かった。大晦日から元旦に掛けては、専ら、NHKラジオ番組、「行く年来る年」で、全国各地の寺社の初詣風景を聴き、除夜の鐘の音を聴いてから、就床するのが常だった。
その年も、ラジオから流れる除夜の鐘を聞こうと頑張って起きていたようだが、12時頃、いきなり、停電になり、すごすごと布団にもぐりこんだようだ。当時、北陸の山村では、冬季、積雪や落雷等で、しょっちゅう停電していて、停電慣れしていたものだ。日本海を渡ってくる湿って冷たい季節風が日本列島の背骨にぶち当たると積雪をもたらすが、雪になる前兆には雷が鳴ることが多い。地元では 「雪おろし」と呼んでいたような気がする。大人も子供も弁えていて、雷が鳴ると、雪が降ってくるぞ・・・と、言い合ったものだが、その大晦日の夜も、雪が降り出したのかも知れない。
夕食中等でも、直ぐ対応出来るように、大きめの蝋燭を常に準備していたもので、実際、蝋燭の明かりで食事したこともかなり有った。地震等災害被災地等で 電気、ガス、水道が止まり、暗闇の中で不安な時間を過ごされる被災者の映像等を見る度、あの頃の停電の情景を思い出している。

M男の住んだ村落は、東西南、山に囲まれて、極めて電波が届き難い地形に有って、NHKラジオ第1放送が、雑音混じりでやっと聴けた地だったが、他に娯楽等無かった時代、茶箪笥の上に鎮座した中古ラジオからの放送を 家族みんなで聞くのが 最大の楽しみだったように思う。「太郎さん花子さん」、「三つの歌」・・・、懐かしい番組名、
ラジオから伝わってくる全国各地の「行く年来る」の様子と比べ、何の盛り上がりも無い北陸の山村の暮らしに、M男は 毎度のこと、少々感傷的になっていたようだ。M男には、特に 表日本(太平洋側)の明るく、賑やかな年末年始の情景等は、別世界のようにも感じて、羨ましくて仕方なかったのだと思う。
「おおみそか さみしくもあり うれしくもあり」
「きてみれば うれしくもなし さびしくもなし」

 

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