我が家の遅い夕食時、南の空に掛っている雲の上に
ひょっこり、まんまるお月さんが顔を出しているのに気がついた。
昼間、すっかり、雲に覆われていた空が、
いつのまにか、雲が途切れ途切れになっていて、月が見える夜空になっていた。
もしかして 満月?
早速 ネットで調べてみると、
正確には 明日6月25日午前3時40分頃に満月になるという。
6月の満月は 「ストローベリー・ムーン(Strawderry Moon)」と呼ばれているが、これは イチゴのように赤くなる満月という意味ではなく、アメリカの先住民アルゴンキン族が 野いちごの収獲時期の満月という意味で呼んでいた、「ストローベリー・ムーン(Strawderry Moon)」に由来している。でも 湿度の高い今日等は やや赤っぽく見えているような気もしないではない。
当地 今日は、早朝から 今にも降り出しそうな空模様だったが、
突然、真夏の日が射したり、変わりやすい天候になっている。
午前中、車で妻を街中の病院に送ったが、
1時間以上の待ち時間有り、
雨の心配と 暑さの心配が有ったが、周辺をぶらっと歩いてきた。
スマホの歩数計で 約7,400歩。
ブットレア
振り返り記事 2015年7月12日 「ブットレア」 → こちら
黒猫のタンゴ♫
どうしたの?、そんなところに止まって?
駐車中の車に止まって、飛び立てない様子の鳥、
もしかして シジュウカラの雛?
カアチャン、トウチャン、どうした?
「中学生日記より」
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のこと。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると、すっかり喪失してしまっていた記憶が、断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。(以上 過去記事コピペ文)
その36「栗拾い」
昭和30年(1955年)9月17日(土)、天気 晴、
起床 5時30分、就床 9時30分、
朝礼、そうじ(掃除)、
1、先生方の体育大会のため じぎょう(授業)なし(無し)、
2、昼から(午後)すこし(少し)、くりひろい(栗拾い)にいった(行った)、
3、祖母が 浪花節(浪曲)を見に行った、
4、妹のままごとのおぜん(お膳)を作ってやった、
5、月曜日の時間割り、数、耺、英、社、
帰家(帰宅) 10時、
当時、周辺の郡町村の小学校中学校の教師が参加する体育大会(運動会?)が 年に1回、有ったような気がするが、その日、教師全員それに参加するため、授業は無し、朝礼、掃除のみで下校したようだ。10時には 家に着いたと書いてある。
M男達は、毎年、秋になると、裏の山を駆け回り、当時はまだ、栗林が散財しており(恐らく民有地)、山栗を拾ってきたものだ。他人の山の栗を拾っても、何のお咎めも無しの時代だったのだと思う。その日の午後も、多分、近所の同級生で従姉のTとつるんで、出掛けたようだ。
子供の頃は、栗は山で拾ってくるものと思っていた位だったが、小粒で、中には虫食いもあったが、甘さ、美味さでは、後年知った栽培栗よりずっと勝っていたと思っている。
台風や大風が吹いた翌日等が、チャンスだが、大概、イガごと落ちていて、イガを長靴で踏んづけて押さえ、稲刈り鎌で中からポロッと掻き出し、ずた袋(布袋)に放り込み、担いて帰ってくるというものだが、手馴れたものだった。
拾ってきた栗は、だいたい夜、囲炉裏の大きな鍋で茹で、家族で食したが、そのほとんどは、柔らかい内に、綿糸で通して、軒先等に吊るし、乾燥させていた。乾燥させてカチカチになった栗は、お正月等、冬季間のおやつになっていたのだ。今にして思うに、よくも、あの石の如く固い栗を、カリポリ、カリポリ、食べていたものだ。
元々の地元の女性とは異なる雰囲気を持っていて、浪花節(浪曲)が大好きだった乙(おつ)な祖母、もしかしたら 隣り町の商店会の中元大売り出し等で招待券でも貰ったのかも知れない。祖母が 浪花節(浪曲)を見に行ったと書いてある。和服を来て、いそいそと出掛ける姿が、今でも思い浮かぶ。娯楽等 ほとんど無かった時代、祖母にとっては大きな娯楽だったのだと思う。当時 ラジオ放送でも 浪花節(浪曲)の番組が結構有って、茶箪笥の上に鎮座した雑音混じりの中古ラジオの前に座り、一生懸命聴いていた祖母。M男は 興味関心も無く、あまり良く分からないままだったが、なんとなく一緒に聴いていたような気がする。寿々木米若?、春日井梅鶯?、広沢虎造の「次郎長」「森の石松」?、昭和30年代前半、北陸の山村では まだそんな時代だったのだ。
振り返り記事 2016年6月17日 「バアチャと浪曲(浪花節)」 → こちら
幼児だった妹が、ままごとで遊び始めていたのかも知れない。おもちゃ等をおいそれと買って貰えるような暮らしでなかった時代、子供達は子供達なりに、いろいろ作ったり工夫して遊んでいたものだが、妹用に、多分、材木の切れっ端等を工作し、ミニのおぜん(お膳)を作ってやったのだろうと思う。