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「見仏」と「札所巡り」と「仏教少々」

仏像鑑賞と札所巡りと受け売りの仏教を少し

本の紹介 仏教の冷たさ キリスト教の危うさ ネルケ無方著

2020-04-07 08:12:35 | 本の紹介
個人的に気になった個所の抜粋です。

 イエスは優しくなかった。武器をもっていなければ武器を持てという新約聖書の記述がある。
 浄土宗、真宗の元になる浄土三部経は、紀元1世紀~2世紀頃といわれ、分派した仏教の一部がキリスト教の思想の影響を受け、一神教の神が阿弥陀如来として顔を出したとも言われる。阿弥陀は永遠の命、無限の光と訳されるが、キリスト教では神は光なりと表現され、つながっている可能性がある。
 イエスの復活は、私は信じていない。神格化するためのイベントでしかない。
 仏教とはどんな宗教なのか。西洋人が宗教というとき、信じるか信じないかが焦点になる。しかし、仏教はブッダを信じるかどうかではなく、
ブッダの教えを実践するかどうかが最大のポイントだ。
 仏教における一人称、二人称、三人称。
一人称の仏教は、いま、この私の生活から離れたところに仏教はない。
私自身がブッダにならなければ、誰が私を救うのだろうか。という態度。
 二人称の仏教は、救われるためには、まず自分を忘れる必要がある。
自力をあきらめて、他力に任せれば救われる。浄土宗や浄土真宗がこの教えを説いている。
 三人称の仏教は、自力で仏になることでもなく、他力によって救われることでもなく、菩薩として社会の中で働くアプローチ。私が救われる前に多くの悩める人を助けたいという願い。
 一人称の仏教の問題は、自分の問題だけを解決しようとしている。(仏教の冷たさと感じる部分)
 二人称の仏教、例えば浄土教ではブッダである阿弥陀仏の働きと自分の働きを分けているため、修行の必要はない。修行してもブッダになれないからだ。二人称の仏教とキリスト教は似ている。
 三人称の仏教の問題。日本の仏教の多くは三人称の仏教。救われてもいない自分が、どうして他人を救えるだろうか。三人称の形態では、悟りから離れていってしまう。
一人称、二人称、三人称の仏教は、いずれも必要でバランスが大事。

 日本の僧侶が守るべきもの。
自分が飲んで治った薬を、無理に人にすすめる必要はない。しかし、キリスト教の場合、これは万能の薬だ。
皆イエスキリストという薬を飲まないと救われない。というだろう。
それで他の一神教と喧嘩になるわけだ。
フタをあければ、こっちはアッラー、こっちはヤハウェ(キリスト)、だけど中身は同じ薬が入っているというお粗末な話。
 仏教は穏やかだが、実践もしなければ布教もしない。
日本のお寺は、自分のお寺だけを守り、日常では仏の教えを実践していない。
僧侶は仏の教えを実践して見本を示す必要がある。
その目標は仏教徒を増やすことではなく、人々に自ら目を覚ましてもらうことである。
 キリスト教では、旧約聖書、新約聖書がある。
ユダヤ教では旧約聖書。ユダヤ教は、イエスの教えを否定している。イスラム教では旧約聖書、新約聖書とも聖なる書物として認めている。イスラム教のコーランには、実はイエスがイーサーという名前で登場している。
新約聖書と同じように、多くの奇蹟を起こした後、天に昇り、その後復活を予言する教えもキリスト教と同じだ。
 仏教の冷たさ、それは現状をありのままに受け入れ、
打開策を考えない多くの仏教徒の怠慢に起因している。
 キリストの危うさ、それは愛を叫びながら、
結局は憎しみ合う一神教の謙虚のなさ。
 日本では、お寺の未来は危ないと言われている。
檀家離れが進んでいる。
これを食い止めるためにお盆とお彼岸の行事を大切にし、
葬式から何十回忌と、檀家へのお布施でお寺を守ろうと
している。仏教といえども、ある面ではサービス産業で、
戒名料の明確化から始まり、amazonのお坊さん便で
法事を申し込む手段もある。
資本主義にのっとってお金を儲けたほうが生き残る。
というわけだ。
 日本人にしてみれば、キリスト教の考え方は理解できないことが多いだろう。なぜキリスト教は他の宗教を認めず、自分の宗教にこだわるのかと。日本では、自分がキリスト教徒でも実家が浄土真宗であれば、亡くなったら浄土真宗で葬儀をあげ、そのまま実家のお墓に入る人もいる。
キリスト教圏なら、天国に行くためには神父・牧師に葬式をしてもらわないといけない。
 しかし私の目には、日本のキリスト教は、とてもまともに見える。日本のキリスト教を、キリスト教ライトとバカにする欧米人はたくさんいる。
しかし、私から見たらバカにするどころか、進化したキリスト教だと思う。日本のキリスト教を欧米に逆輸出すればとも思う。
アク抜きをすれば柔軟でマイルドな教えになる。
 宗教そのものが悪いのではない。ニオイが気になるだけだ。
キリスト教はしつこく勧誘し鬱陶しい。
ニオイを感じさせるところが敬遠される一番の原因だ。
 日本の学校給食で、いただきます、ごちそうままというのも
本来は宗教的な儀式だが、ニオイが消えているので、
学校の中に宗教を持ち込んだとは誰も思っていない。
 日本で、仏教の影響は残しつつ、
宗教のニオイがなくなった仏教を世界に
アピールできればよいのではないだろうか。
日本の仏教は今まで外に向けて発信しようという意識が薄い。
檀家制度が江戸時代にでき、葬式仏教として受け継がれているが、日本のお寺は何かの理想に向かって努力したり、発信したりしようとする動きがあまり見られない。キリスト教のその教えを世界に広めていこうとする部分は仏教人も見習うべきところだ。
 仏教も、ただお寺にこもって自分の修行に励むだけでなく、
社会に出て行くことが必要だ。ボランティア活動なども。
仏教のこの新しい形は、エンゲージド・ブッディズムという。
中国の太虚、中国の印順、台湾の釈証厳、ベトナムのティクナットハンによって広められた。宗教のニオイのない、アク抜きされた宗教が必要ではないだろうか。