「見仏」と「札所巡り」と「仏教少々」

仏像鑑賞と札所巡りと受け売りの仏教を少し

法話、築地本願寺2008.5/2

2008-05-02 22:00:25 | 仏教
 関西のほうの住職のお話。
ややお年をめされたかたで、バーコード風の
髪型をされている方で、どうせなら、ぼうずにされても
いいような気もするが、どうも浄土真宗の住職の方々は、
サラリーマン程度の髪の長さを保っている方が多く、
浄土真宗はお坊さん=坊主という図式には
こだわっていない感じがする。
 今回の師は、しゃべり方の感じからして、
浜村淳風で、関西人にありがちな割と落ちをもって
くるような話で、ところどころ、おかしいところがあった。
 さて、法話の内容。
 浄土宗の法然も浄土真宗の親鸞も、
さほど考えははなれていないし、
禅宗も他力という話があり、似ている点がある。

 私⇔仏 という字で、横棒を少し引っ張ると、
私になったり、仏になったり。
棒の引っ張りあいをして、棒をなくして、
仏に近い状態になればよいのだが・・・。

 親鸞は、仏法は、お念仏といわれた。

 自分の好きな音楽を聴くように、自分の合うもの
だけを聞くというのはダメ。
わかることだけ信じるというのもダメ。
阿弥陀様の言われることを疑いなく聞くこと
が大事。疑いなく聞くという例として
以下のような例をあげられた。

 とある住職が公演で、全国行脚をしていて、ちょうど
その時期、娘さんに赤ちゃんがうまれそうになっていた。
公演の真っ最中だったとしてもいいので、
赤ちゃんが生まれたら、すぐに連絡してくれと、
頼んでいた。ちょうど公演中電話があることが、
住職に伝えられ、席をはずして、住職と電話の向こうの人の
会話。「生まれたか?」「はい」。そこで住職は、
すぐに電話を切り、公演の場にもどった。
「生まれたか?」「はい」この後、疑いをもって
「ほんまか?」とは、言わないでしょうという話。
疑いの気持ちはいっさいない状況で、阿弥陀様を
信じることが大事。
コメント
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