田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

偶然なのかなぁ?両極端の二人が・・

2015年01月07日 | 宗教その他
 若い頃は宗教について考えることは無かった。考える必要が無かった。だからと言って、無法者生活を送ったのではない。平均以上の道徳的生活を送ってきたと思う。ところが歳をとり、我が身の周りで宗教のザワツキが起こった。やむを得ず考えることになったが、いやはや・・・・。

 ブログを書くきっかけは、我が家の宗教対立だった。書き始めの頃は真剣に考えたが、宗教のいざこざなどは単純なもので、「信ずる」か「信じない」かの違いである。ところが信ずる者にとっては唯一無二の物であり、信じられないことが信じられないのである。信じぬ者には何の価値も見つけられないものであっても、そのようなことを公言すれば摩擦が大きくなるから口をつぐむ方が安全だ。

 
 良くできたもので、裏表の異なる価値観でも、適当に隙間を造っておけば摩擦は生じない。それを知っている多くの人は、付かず離れずの微妙な間を取るのである。だが世の中には隙間に無理矢理入り込みたがるヤカラもいるのだ。宗教ならばユダヤ、キリスト、イスラムのように原点が同じ(同じだと思うのは私だけかも?)だと、教えも似かより、聖地も近く間の取りようが無く、殺戮も起こるのだろう。

 
 ブログの中の争い、いや口論と言うほうが良いかもしれぬが、「信ずる」「信じない」にとどまらず、「カルトだ」「正しい教えだ」に始まり、「人生を棒に振る」「途中挫折者」の争いになっていた。

 
 私から言わせれば「鰯の頭も信心から」の例えのとおり、人は何を信じようが自由であるし、信ずることを力で抑圧することを日本国憲法は禁じている。どちらにしても、世の中の矛盾の隙間に宗教が生まれ、矛盾を包み隠してくれていることには間違いがない。これこそが宗教の意義だと思うオイラだ。

 
 「信じ続けている人」「信じなくなった人」の言い分として「なぜ信じないのだ」「なぜ信ずるのだ」に始まり「嘘で騙されていた」「真理だ」とお互いを攻撃しても平行線だ。ある人はブログ場は、毒を吐く場と言う。毒を吐かねば毒が全身に回るのだろう。オイラは、間を取らねからこそ自身に毒が生じると思う。

 
 そんなブログ場で対立していた両極端の人がブログ場から退場するそうだ。一人は書くことが無くなった。一方は肉親のご不幸。信仰論争に疲れたのではなく「信心」や「疑う心」「争い」「忘れようとする心」等などに疲れてしまったのじゃないかなぁ。宗教なんて「信ずるか」「信じない」かのどちらかだ。信じたければ大上段に振りかぶらず、粛々と信仰を続ければ良いのじゃないかな。信じないのなら「二度と会いたくありません」「宗教勧誘お断り」と意思表示で間を取れば済むと思うオイラなのだ。