田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

田神家の1月2日のちょっと悲しい思い出

2015年01月02日 | 宗教その他
 ある人のブログを読み、過去の出来事を思い出しました。楽しいことではありませんでしたが、以来我が家は老いた母と妻そして私との関係が再構築されました。考え方によっては良い事だったかもしれません。

 
 妻のご両親と私の母が共に八十過ぎの高齢でした。高齢の親をかかえ、気苦労が少なからずありました。妻の実家は一人息子のお兄さん夫婦が同居してくださっていたのですが、年末から嫁さまの実家のお手伝いとかで、正月明けまでお留守をなさいました。嫁さまの実家はご商売をなさっているのではありませんから、夫を伴って実家で過ごしたかったのでしょう。生んだ子供が4人も、それも近くに嫁いでいる娘が三人もいるのに、年老いた二人が、寒いお正月を二人ぽっちで過ごすのは気の毒に思いました。

 
 妻は三人姉妹でした。正月は両親を喜ばせようと料理を持ち寄りました。娘夫婦がお昼前に集合し、お昼ご飯を用意しました。お父さんの好みはお肉料理で、二つのテーブルにすき焼きとしゃぶしゃぶが用意されました。お酒を飲む人が少なく、お父さんは嬉しそうに、皆にお酒を勧めていました。たった三時間でしたが、お父さんお母さんはとても楽しそうでした。帰りしなに「お盆にも来てくれなぁ~」と決まって言うのでした。

 
 その頃の我が家の婆さまは、正月の2日に長兄の家に年賀に行くのが常でした。私達夫婦が妻の実家に行きやすくしてくれていたと思います。その日のために、婆さまは孫のお年玉を用意し、おせち料理を作りました。足の不自由な母は和風便器が使えず、滞在中の2時間と少しを用便の必要がないように、水分をひかえる努力までしておりました。しかし、兄一家が快く母を迎えてくれていたかと言えば、決してそうではないことを、母も私も承知しておりました。なぜなら兄嫁は母の姪であるうえ、二人の結婚に強く反対したのも母でした。まさか原因が宗教にあるとは、長い間思っていませんでした。これが過去の正月2日の田神家でした。

 
 十数年前のある年、妻の実家への道中、母を兄宅へ送りましたが留守でした。玄関は固く閉ざされ、チャイムを押してもまったく反応はありませんでした。妻の実家へ母を同行させるわけにも行かず、母は用意したおせち料理を玄関脇に置きました。私達は急いで自宅へ戻りました。母はとても寂しそうな顔をしましたが「六兎、早く戻れ。○チャンのお父さんお母さんが待ってござるから早よう行け」と強がりを言いました。一年一回、会いに出向いたのに裏切られ、正月早々一人での食事は寂しすぎます。私は軽食を用意し、私達が帰るのを待つように言い、妻の実家へ行きました。

 
 夜半過ぎ、兄から電話がありました「俺は会社の接待ゴルフだった。○子も子供たちも集会に呼ばれた。来るなら来ると前日に電話してくれ。正月でも我が家は暇じゃないから」と言われたそうです。母は笑いながら「毎年正月の二日は行っていたはずだ」と言いました。それからの母は二度と兄の家に行くと言わなくなくなりました。母の口癖は「私のことは気にせずに、○チャンのお父さんお母さんに、美味いもの食べさせてやってくれ」と言い続けました。

 
 母はうすうす、長男と嫁は、なによりも神を選ぶことを感ずいていたかもしれません。「私の子供は六兎と○チャン、他はみな逝ってしまった」と二度と兄一家の話をすることを拒みました。

 
 そんな母が残した日記ですが、恨みごとは一切書いてありません。私と妻への感謝とお礼が何度も何度も書いてありました。子供の使い残しのノートに日記がしたためてあり、何冊も出てきましたが、兄と義姉の名前はありません。悲しいことです。恨み事でもあれば、まだ気がかりなのでしょうが、完全に黙殺されているのです。だからこそ、それに気づいた兄達は葬儀にも来なかったのでしょう。今の私の無関心と同じ気持ちになったのですね。宗教がふりまく怨念なのか、それとも情念なのかつくづく悲しいことです。

 
 JWで苦労した元信者のお気持ちは痛いほど解りますが、私と同じ気持ちを持つ近親者の方々も多いと思います。私と妻は母の介護の不足を反省し、あれを食べさせたかった、もっと暖かい言葉をかければ良かったと悔やみましたが、母の日記の言葉で心が癒され続けています。どうぞ皆様、ご自身の心と体を真っ先に労わり、余力があれば周りの方々に言葉をかけてくださいませ。これが、兄一家に望むたった一つの願いでもあるのです。