田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

昨日は!失敗したぜ!!

2014年01月31日 | 日記
 昨日はメタボ脱出作戦、昼前の11時半に帰宅しました。妻と市役所へ、母死去に伴う年金手続きのためです。私の戸籍謄本は既に取り寄せてありました。この郵便請求に関しては、故郷の役場が失敗に継ぐ失敗、大幅に入手が遅れましたが、昨日の提出には間に合いました。これは2週間以内に届出が必要だそうです。市役所で住民票と母の除票を請求しました。この場合は、手数料が0円です。ところが、請求用紙にはその旨を書き込むところが無いのですね。記入漏れの確認を窓口でしたら「お母様死亡の手続きとお聞きしましたから、手数料はかかりません。」って言われました。『えっ?誰にお聞きしたの?。』と思ったけど「はい、ありがとう。」で済ませました。
 ついでに選挙も済ませました。予定通りです。その後ショッピングモールへ行きました。社会保険の出先機関があるからです。昼休みに重なりましたので、私達もマックで昼食。いつものフィレオのセット。妻が「六ちゃんサービス券があるから、もう一つ食べなよ。」ってレタスとベーコンを注文しました。オイラは『カロリー的に喰いすぎだぜ・・・・。』と思うものの、いやしいのだね、「おお、サンキュ。」
 だけど、お腹が満腹になり、レタスとベーコンは半分しか食べられなかった。夜カロリー調べたら、それでも836Kcalだった。マックのカロリーは高いねぇ。ジャンクフードって嫌われるけど、たまには良いよね。食事後、100均で文具を買いました。窓の結露取りを買うのを忘れた。
 社会保険事務所は閑散としていました。待つ人は無し、なのに整理券が発給され、待つこと20分程度。誰も出て行かないのに「番号札○○の方は1番へ・・・・。」で、狭苦しいブースに入りました。担当は女性でした。手際よく説明してくれた。母の過去の職業に該当がないか検索し、調べてくれた。手続きは終了した。母の年金は、母の口座へ振り込まれる手はずになっているそうだ。母の収入は、年金と父の遺族年金だけであったが、介護施設の入所費用には足りず、月々補填していた。その口座だが、まだ凍結されていません。私達は、銀行に、強いて死亡を伝える必要もないと考えています。残金の少ない口座が凍結されても良いと思うのですが、最後の年金が振り込まれるとなると、少し考えます。凍結されなかったら、最後の年金で、母が大好きだったピザでも供えようと思っています。90過ぎの母の好物がピザ、驚きますね。
 保険事務所を終えたら、妻が「六ちゃん、バレンタインに欲しいものある?。」と聞かれた。唐突に聞かれたので、「・・・・・・」で、家電屋さんへデジカメを見に行きました。そうです、手持ちのデジカメそろそろ寿命です。ざっと見ました。大好きな、ファインダー一眼はもうやめようと思いました。少し研究します。
 かなり疲れてスーパーの買い物です。ポン酢が安売りされていました。野菜と、バーゲンのお肉を買い込み、重い荷物を持って駐車場からヨタヨタ、玄関ポーチで、トートバックを落としました。二人ともポン酢を買ったことを忘れてました。「卵買わなくて良かったねぇ。」漏れたポン酢の匂いで大騒動でした。ああ失敗しちまったぜ。ポン酢損したなぁ・・・。

メタボ脱出作戦

2014年01月30日 | 日記
 メタボ脱出作戦へ行ってきました。個人面接です。G市にはメタボの人がそんなに少ないかと聞けば、検診を受けない人が多く、メタボ予備軍であっても指導を受けない人がとても多いそうです。また、メタボ予備軍の人を正常値に戻す実績が必要みたいです。面接は受けたけど3ヵ月後、6ヵ月後の測定に来ない人が多いみたいです。保健婦さんの意気込みが「田神さんは逃がしませんよぉ~。」を感じました。
 検診時は65.1Kgでした。4年前の60Kgを目標にしています。座位の仕事ですので、一日1500Kcalにしていましたが、少し少ないようです。食事管理と運動管理を勧められました。運動はほどんどできませんし、体を動かすことをしていません。真剣にウオーキングマシーンの購入を考えはじめました。
 今日測定した結果です。
  体重    63.6Kg 厚着してました・・・・
  基礎代謝  1488Kcal生きていくための最低熱源
  筋肉率   27.1% 低い・・転倒するかも・・・
  体脂肪率  28.9% 高い・・わぁ~泣く
  BMI   23.8  やや高いってポッチャリか?
  内臓脂肪レベル   12 って内臓に脂肪がこってり・・
 頭を使う仕事だから糖質を摂りなさいといわれたが、何を食べれば良いのかなぁ。まあ今日から少し白米を多めに食べようと思うのです。次回の面接は3月5日です。目標60Kg、毎日スクワットをしようぜ!!。

メタボ検診

2014年01月29日 | 日記
 延期していたメタボの検診、メタボ脱出大作戦かな・・・・に明日生きます。現在はカロリー的食生活を実行中です。体重が62.5kgまで下がりました。明日いろいろ聞いてきます。目新しい情報があればアップします。
 明日の予定ですが
 ① で、保健所へ行く
 ② 母の年金の申請のために市役所
 ③ ついでに期日前・・・
 ④ ブックオフへ皮のコート レコードプレイヤー
 ⑤ 昼は外食だな

母が逝きました 08(葬儀後半)

2014年01月28日 | 宗教その他
 棺の中の母を花で飾りました。昔は棺の蓋の釘止めを石で打ったものですが今は釘は使わず乗せるだけです。丸二日間母を守った田神家の御神刀を棺の上から、懐に納めました。次回この刀が使われるのは私の葬儀だと思うと、父の死後、三十数年が経過しているとは、とても思えませんでした。人の生き死になど、なんと短いことだと痛感したのでした。

 斎場から火葬場まで200mほどですが、霊柩車とマイクロバスで移動しました。神道では、葬儀において、御霊(みたま)を霊璽(れいじ)に移します。御霊が移された遺体は亡骸となります。御霊は家に宿り、家を守るとされるそうです。幼い頃私が聞かされたのは、「御霊は無限に大きく、空気よりも薄く人々を包む。」だったと思います。私は母の御霊が移された霊璽の納まった小さな社を胸前に抱き、霊柩車に乗りました。妻は遺影を持ちバスに乗ったのでした。
 火葬場の告別室で神主さんの奏上、私が代表して、玉串を棺の上に奉天しました。母は炉の中に消えていきました。
 バスで斎場へ帰り、休息しました。集骨まで1時間、それぞれが母の思い出を語りました。あっというまに集骨の時間になりました。再びマイクロバスで火葬場に出向き、アナウンスを待ちました。ほどなく「田神家の皆様、集骨室へお集まりください。」と呼ばれました。集骨室で、係の方に説明を受け、集骨しました。母が三十年近くお世話になった人工関節や、大腿部骨折の補強プレートも、お骨に混じっていました。思ったより小さな部品でした。全員でお骨を広い、最後に私が頭骨を入れました。これで、無事に葬儀を含めた一連の所作が終わりました。
 お骨を前にして三日祭が催されました。故郷では三日祭が普通ですが、このG市では十日祭だそうです。しかし、故郷の習慣にそって三日祭としました。仏事の初七日と同じです。この後、仏事の四九日と同じの五十日祭と続くのです。私は五十日祭を自らの手で催すつもりです。この日を持って母の骨をお墓に入れようと思っています。神主さまには「納骨の奏上も願います。」と言いました。さてさて、最後は精進落しです。
 精進落しの建前は、遺族が葬儀のお礼をするのです。精一杯のおもてなしを考えていたのですが、斎場でのお料理は二種類のみでした。私はあまり食べられませんでしたが、息子の嫁さんが「意外と美味しいかった。」と言ってました。そして、私は皆さんにお礼を言いました。
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 私達は昭和48年に結婚しました。その6年後に母と同居を始めました。あっというまの30年でしたが、忘れられない出来事があります。私と妻が結婚する時、妻のお父さんが「田神さんが三男坊だから、娘との結婚を許すのだよ。」と言われていたことです。それから6年後に、その約束を破ってしまいました。きっとお父さんお母さんは、我が娘の行く末を案じられたと思います。私の母も、申し訳ない気持ちであったと思います。
 住み慣れた故郷を離れた母に、二人の子の面倒をみてもらい、言いたいことも言わせてもらいました。それを母は生きがいと言い、喜んでくれているようにも見えました。また、私達も、そう言う母に甘えていたと思うのです。
 昨年暮れ、母の死期をさとり、母の身の周りを整理しました。趣味だった習字の練習帳に、母の書置きを見つけました。一昨年書かれたものでした。動きが悪くなった指を懸命に動かして書かれたものでした。私と妻はそれを見て、故郷から母を我が家によび、共に暮らしたことが間違いではなかったことを確信しました。また天国の、妻のお父さん、お母さんに申し開きもできます。どうぞ皆さん、母の下手な習字ですが、母の気持ちを読んでください。と言って書置きを見ていただきました。母の小さなアルバムも、妻のお父さんお母さんの写真を納めたタブレットも見ていただきました。

 最後に、この席にいない私の兄ですが、宗教的な理由から、一切の宗教行事には参列しません。いつか、いや、近いうちに、必ずこの宗教の誤りに気づくと思います。そのときは、ただ墓参りをしてくれれば良いと思っています。私は、今までのことは何も言わないつもりです。すべてを水に流せます。どうぞ皆様も、そんな兄に会うときがありましたら、過去は問わず、未来のお話をしてあげてください。よろしくお願いいたします。こんな私たちですが、今後ともよろしくご指導ください。
 どうにか、言えました。感情をコントロールできました。本当は涙を流したかったのですが、幼い頃から「男だったら、泣かずに言え。」と言われていた六兎です。末っ子の甘えん坊の六兎が、最後の最後で、男らしさを演じました。帰宅後の妻が「六ちゃんお疲れ様、惚れ直したよ。」だってさ、チョッピリ嬉しかったオイラです。これにて葬儀のお話は完結です。お読みくださりありがとうございました。


母が逝きました 07(葬儀当日)

2014年01月27日 | 宗教その他
 葬儀にさいして、とても心配なことがありました。以前にも書きましたが、私は、震災後に己の感情コントロールができなくなりました。涙もろくなったり、はらはらドキドキする映画やスポーツが見られなくなりました。ですから葬儀において、母のことを話すと、感情がこみ上げて、言葉にならなくなるような気がするのでした。このことを妻や息子には話しておきました。いざという時は、ヘルプを頼んでおきました。
 葬儀は11時からです。妻は喪服の着付のために9時に斎場へ行かねばなりません。早めの朝食を済ませ、姉に留守番を頼み妻を送りました。
 従兄弟は故郷の神主さんを車に乗せて、早めに斎場へ来てくれました。カッパチャンは神主さんと打ち合わせ、用意した祭壇で説明を受けたり、斎場の説明をしたり忙しく動いていました。
 神主さんの衣替えは姉が手伝ってくれました。妻の姉さん夫婦も兄さん夫婦も到着されました。私は挨拶がうまくできるか、それを考えると、心臓が高鳴ります。母のことを考えると、ぐっとこみ上げるものがあり、目頭が熱くなります。考えれば考えるほど、ますます心配になりました。
 11時、一秒の誤差も無く、階段を神主さんが降りてきました。この正確さは単なる偶然であったと思いますが、カッパチャンは驚くとともに、とても安心した様子でした。
 葬儀は始まりました。神道の祭詞奏上は、解る言葉で語られます。母の年譜が語られました。昔々は、町会議員の妻として、婦人会やら未亡人会やらの世話もしたらしい。私より神主のMさんの方が良く知っているのだ。Mさんが棺の小窓を開けて母を見たとき、神主さんが泣いているのを見てしまい、私の感情はMAXに達してしまいました。
 玉串奉奠、喪主である私が一番に行います。仏事の焼香と同じですが、やたら作法に神経を使います。この葬儀でも、カッパチャンが皆に作法を教えていました。私など茎を向こうにすれば・・・程度しか考えませんが・・・。
 さて、妻を伴い玉串を受け取りに、葬儀社係りの人の前に進み出ました。あれ!!玉串の向きが逆だぞ!!。私は慌てず、何事も無いように、右手をそっと伸ばして、係り員の右手が持つ茎部分を、手をクロスさせて玉串を受け取りました。係りの人が気づき、体がピクっとしました。カッパチャンも気づいたみたいです。でもこの行為が私に落ち着きを取り戻してくれました。
 葬儀は終了しました。喪主の挨拶です。カッパチャンが「喪主様から一言ご挨拶をいただきます。」ま、この挨拶は定型文があります。ほとんどの方は、斎場が用意した定型文を読むのですが、せっかくの家族葬ですから、自分の言葉でかたりました。
 「母は昔から、まわしの○○さんと言われていました。」まわしとは相撲のまわしではなく、準備をするということです。「私は母の遺言に添って、この葬儀を考えました。母がこの日を意識し始め、死について話し合いました。母は、延命治療をしないで欲しい、葬儀は質素にして欲しい、などと話しておりました。」母の話を少ししました。
 「一昨年のことですが、今日の葬儀をして下さった神主のMさま、本家のMさんに助けられながら、故郷の墓を移転しました。それを母はたいそう喜んでくれました・・・・。」
 ここで私は、墓で喜ぶ母の姿がフラッシュバックしてしまい、言葉が出なくなりました。涙があふれてきました。私は「すみません、感情を表さない私ですが、今日はつい・・・・。」私は上を向き、涙が流れないようにしました。この時間ずいぶん長かったように思います。やっとのことで、平静さを取り戻し、前が見えるようになりました。最後列の妻の姉のご主人様が、両手のひらを下に向けて『深呼吸、深呼吸、落ち着け~』のジェスチャーをしてくださっていました。「母は念願であったお墓参りができ、とても喜び、今日にでもここに入りたい、などの冗談を言ってました。とても母が喜んでくれ、始めての親孝行ができた気がしました。これも神主様のMさんと従兄弟のおかげです。本日は母のために参列くださりありがとうございました。」で終えました。
 さて、カッパチャンが葬儀終了、出棺の予定を言わねばならぬとき、彼はこの葬儀にひどく感激してしまい、声が裏返ってしまいました。手作りの挨拶がまことに良かったと言ってくれました。でも私は、この後の精進落しの挨拶もしなければなりません。もっとも皆が知りたい、親の葬式にも顔を出さない兄の話をしなければなりません。気が休まりません。この話は次回です。