田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

2013年03月21日 | 日記
 以前メジロを紹介しました。コメントの返信に『奴が来たら紹介する』って書いたけど、待つときは来ないねぇ。さて、オイラはかれこれ15年ほど、このマンションに住んでる。最初は仕事場だけで、賃貸アパートからここへ通勤してました。春が近づいたある日の朝、窓を開けた。奴がポテっと頭の上に落ちてきた。そりゃぁもう、ビックリしました。鳥肌が立ち、身の毛がよだち・・・。

 しかし、見慣れれば可愛い奴です。室の壁に、ペト~ってくっ付いていると、ドキッとしますが、肌は柔らかくサラサラしてます。たぶん奴は、家族で棲み付いていると思うのですが、尻尾が曲がった一匹を除き、見分けがつかないのが現実です。単独行動が多いからです。
 ある日、訪問セールスが来ました。私は不機嫌なツラで玄関にでました。不機嫌さを感じたセールスマンは、オイラの機嫌をとるためか「ご主人!良い表札ですねぇ。」と友人の片手間の作品、それも左手でオイラと妻の名を書いたアルミインゴットの表札を動かした。その裏に奴の家族がいることも知らずに・・・。奴はポテッとセールスマンの白いシャツに飛びついた。叫び声がむなしくマンション内にこだました。



震災から2年

2013年03月16日 | 日記
震災から2年が過ぎました。復興には、まだ至らないニュースを見ることが多くなりました。私はボランティアもできない、これといってお手伝いもできない。ブログで紹介された映画も、見る勇気がありません。映像を見ると、無性に涙が出てしまうのです。歳のせいで涙もろくなったのかも知れませんが、とにかく悲しいのです。
 こんなことでは、被災なさった方々に申し訳なく思い、東北の物を出来る限り利用している程度です。一刻も早くこの精神状態から脱したく、いろいろ試しております。
 昨晩、ある方のブログを読んでいました。ブログには
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ここに書きとめておきたいこと、それは、こうした大きな震災で愛する人を失くした方々の氷きった心を溶かしたのは、死者をおくる心得と作法を大切にしている人の心ある行為、その方から学んでいかれた方の行為、そして安置所に来た僧侶のお経だったということでした。
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 写真を2枚貼ります。私達夫婦に少しずつ勇気を与えてくれている写真です。僧侶からは神々しさ、幼い姉妹と母からは天使の力を感じます。ときどき見て勇気をいただいております。


尚、著作権等の問題がありましたら、即刻削除いたしますので、コメント欄にその旨ご記入下さい。




小さき負傷者の為に

2013年03月14日 | 日記
 私は中島みゆきさんの大ファンです。年齢が近いせいか、彼女の詩に共感できます。なんといっても、あの『ダミ声』に痺れるのです。良いですよね。へこんだ時に聞くと、勇気が沸きます。では『小さき負傷者の為に』
♪ 言葉持たない命よりも
♪ 言葉しかない命どもが
文字通りに『発言する力のない弱者』『声高に叫ぶ奴ら』
己を省みず、己の保身や利益を求めるためだけに叫ぶ奴は、卑怯者以外の何者でもない。
♪ 卑怯と闘う同志でありたい
では、私はと言えば、「私の考えで『ものごとの是非』を判断し続けて」戦います。中島みゆきさんって素晴らしい!!。格好いいぞ!!。
tp://www.youtube.com/watch?v=j-pnMK9uTR8
次に、『今日以来』

私はあまり失敗しなかった人生だったと思いますが、かいかぶりかもしれません。気づかないところで大失敗してるかもしれません。
♪ 愛されたがりは罪つくり
「愛されたがり」は、『八方美人?』それとも『ゴマすり?』かな、悩むところだけど、他人の評価など、あてにはなりません。己の考えで生きていくことだと思います。
♪ 人の善意を信じることは 怖いことです 綱渡りです
♪ 人の悪意を信じるほうが 安全でしょうね 寂しいけれど
確かに今の世相だよね、いや太古の昔から、こうだったのだろうな。寂しいね。
♪ もう愛します 今日以来 ♪ 愛したがりになれるかな
寂しいけど、綱渡りだけど、世の中悪人ばかりじゃ無いよねぇ~、俺は叩かれることには慣れてるから、思い通りに生きて行こう、なんて考えながら残りの人生を過ごそうと思う六兎です。
tp://www.youtube.com/watch?v=Ry_ScncuqEI



クリスティーナの思い出

2013年03月05日 | 日記
 クリスティーナの思い出を書きます。クリスティーナはフィリピンからやってきました。前回もお話しましたが、ミキ嬢は、お店で働く人にも「面食い」でした。好む女性は目鼻立ちのくっきりした娘でした。クリスティーナは背が高く、彫りの深い顔立ちの、美しい女性でした。と言っても厨房担当でしたので、容姿はどちらでも良かったのですが、ミキ嬢はダンサーの就労ビザを持つ、時間給の高いクリスティーナを、なぜか雇ったのでした。
 お店は、突然人の波が止まるような時間があるものです。従業員は一時の休憩を取ることができます。クリスティーナは、フロアの男性専属歌手と、会話をしていました。やはり、同郷の人と話すのは気が休まるのだと思いました。私は、歌手にタガログ語を教えてもらっていました。彼は、クリスティーナを伴って、ミキ嬢と話している私達の席へきました。彼は、「クリスティーナも少しだけタガログ語を知ってるから、教えてもらえ。」と言いに来てくれました。
 それ以来、帰り際には廊下からも入れる厨房の彼女に挨拶して帰りました。ある日の夕方、ミキ嬢から電話で「クリスティーナのお別れパーティーをするから、奥さんも子供さんも連れて、お店に来ませんか。」とのお誘いを受けました。パーティーは、お店の従業員と歌手だけの、こじんまりした夕食会でした。クリスティーナは少し寂しげでした。それをまぎらすためにか、私の娘と息子をかわるがわる抱きしめたり、手を握ったりしていました。二人とも幼かったので、訳がわからず、少し嫌がっていました。
 日本を離れる日が近づきました。私と妻は、ほんのささやかなお土産を渡しました。彼女の目から涙が落ちました。「このお店でまた働きたい・・・。ここへ帰りたい。」と・・・・・。
 当時のフィリピン女性は、しかるべき筋の手配でのみしか日本で働けませんでした。当然ピンハネされていたと思います。次回入国しても、しかる筋の指定する都市へ行かねばなりませんでした。同じ店で働くことは、絶対に不可能なことでした。ましてクリスティーナのビザの有効期間は半年なのでした。彼女は母国フィリピンに降り立ち、再び就労ビザをアメリカに求め、アメリカでは、病院の掃除婦をするそうです。一年間を、日本とアメリカの出稼ぎで働くのでした。なぜなら、彼女一人の収入で、彼女の親類一族を切り盛りしていたそうです。
 彼女は決して恨み言を言わない子でした。フィリピンの父母や、従姉妹の話をする時の目はキラキラ輝いていました。その時のクリスティーナは本当に綺麗で、可愛い娘さんでした。
 後日談です。それから十数年後、アメリカの空港で、ミキさんはクリスティーナに、驚くほどの偶然で、出会ったそうです。電話番号(当時は携帯がないので)のメモを交換したそうです。しかし、おっちょこちょいのミキさんはメモを無くしました。責任を感じ、誰にも言わなかったそうです。それから数年後、ミキさんのもとへ一通の手紙が来たそうです。手紙には「古い電話番号から住所を探してます。着くか心配です。と始まる、奈良県からのクリスティーナの手紙だったそうです。『日本人と結婚し、子供も生まれ幸せです。』とあったそうです。ミキさんは「急いで奈良へ行ったけど、日本語上手いよ。六兎さんでも大丈夫だよ。行ってあげなよ。」と言ってくれましたが、幸せなら、それで良しと思ったのでした。(続く)