田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

面食い

2013年02月28日 | 日記
 777嬢の響きがパチンコゲームみたいだから、名前を紹介します。ミキさんです。頂いたコメントに『日本に収まらない人』って書込みがありましたが、まさに、彼女にピッタリです。気が強いくせに涙もろく、おちょっこちょいなのだ。客商売なのに、生意気な学生と大喧嘩し、あげくに「二度と来ないで!」と啖呵を切ってお金を突っ返したそうだ。ところが、なぜか滑って転んだそうだ。常連さんから聞いたが、見たかった。
 欠点も多いミキさんだったが、最大の欠点は『面食い』だった。お店を手伝う子達は可愛いい娘が多かったと思います。オーストラリアからの旅行者が、お店でたむろするようになって、お店の中は英語一色になり、文化の違いをひしひしと感じました。驚くのは、若くてお人形さんのような綺麗な子が、何年も一人旅をしていたり、お店が混雑していると、ミニスカートでも床に座るし、密着したがる子もいて、困ったチャンも多かったです。
 私はもっぱら英会話の練習でしたが、オージーの英語は癖が強いですね。彼女が「パイパー、・・・パイパー」と言うので、私の頭の中は「パイパーチェロキー(飛行機の名機)が旋回してました。」結局彼女はカバンをゴソゴソ探してメモ用紙を取り出した。はぁ~「ペーパー」か?・・・。『発音悪いぜ!』
 ある夜、オイラがアボリジニーの文化について質問したら、『なぜ、六兎はアボリジニーを知っているのか?。いつ、どのように知ったのか?。』質問の嵐、下手糞な英語で心底疲れた一夜でした。日本人の知識の多さに驚いていました。日本人の多くは、オーストラリア原住民を知ってますよねぇ。
 次回は、少し悲しいクリスティーナの思い出を書きます。彼女は日本人と結婚しました。お子様もでき、今は帰化して幸せな母をしてます。(続く)

777の思い出

2013年02月21日 | 日記
 私は英語が苦手です。簡単な文章なら、少しだけは読めるのですが、話せません。ゆっくり喋ってくれれば、理解はできますが、返す言葉は日本語です。
 昔、昔 まだ私がサラリーマン時代の話しです。隣の貸しビルに真っ赤なスポーツカーに乗り、ソバージュ髪で、少し化粧が濃い女性がいました。とにかく目立ちました。私は彼女に『スリーセブン』のニックネームをつけました。乗っていたスポーツカーのナンバーです。ところが、世の中は狭いものです。その人が私の顧客になったのです。長い付き合いの始まりでした。
 ある年、私はとっても恐い人達の仕事をしなければならなくなりました。○○屋とか◎◎組と呼ばれている集団の女将さんに、なんと六兎は見込まれてしまいました。女将さんは、たくさんのビルを所有していました。それらに関わる業務でした。ある日女将さんから「一番新しいビルの地下に店を開く娘がいます。相談にのってやってください。お店が始めてらしい娘です。相応の礼は、必ずさせますので、安心してください。」と連絡がありました。断れませんでした。
 約束の時間ピッタリに来客があることを、受付から知らされました。ななな!なんと、スリーセブンが来ました。なんと女将さんが六兎に紹介したのは、スリーセブンでした。これがスリーセブンとの馴れ初めです。
 スリーセブン嬢は私より三歳年下で、英語が堪能、将来は英語を生かした仕事をしたいと言いました。そのために、アメリカで語学を磨き、アメリカのファッション関連の専門知識を得たいと、夢を熱く語りました。
 その資金造りに、酒場をオープンさせたのでした。当時はカラオケスナックが主流でしたが、カラオケは置かず、生ギター一本のフィリピン歌手が歌っていました。ところで、酒場の男性歌手って、若干恐そうですが、良い奴でした。彼から沢山の友人ができました。知り合ったフィリピン人は、皆良い人ばかりでした。
 さて、お店は大繁盛。スリーセブンは当初の約束どおり、二年半でン千万円の利益を揚げ、居抜きで店をン百万で売却し、アメリカへ旅立ちました。(続く)


お別れの会

2013年02月17日 | 日記
 先週、M先生のお別れの会に行ってきました。
M先生とは、私が修行した会社を起された3人の先生のお一人でした。この三人の先生方は『天才』『統率』『技術』と役割を見事に分担し、私達OBは、くまなく先生方の教えを受けました。
 抜きん出た統率力を発揮されたS先生は、若くして他界されました。私は直接教えを請うことは出来ませんでしたが、S先生の奥様が経営されているお店の関係で、奥様から教えを受けました。奥様は若く芸妓で、S先生と会社を守ったそうです。このお話しを、S先生と奥様の馴れ初めのお茶室で聞きました。素晴らしい奥様です。会社はS先生の功績を称え、奥様を重役として招きました。奥様は報酬を辞退されたそうです。でも忘年会、新年会、慰安旅行には参加されました。奥様の周りは女子社員ばかりでした。女子への躾は厳しかったそうです。
 天才のK先生は、私と同じ時期に会社を離れました。それをとやかく言うOBもいましたが、個展を開いたり、好きなことで余生を過ごされました。個展に行くと、娘さんにビールを買って来させ、下戸の私と飲むのでした。底抜けの天才が垣間見える先生でした。先生は5年前に他界されました。
 お別れの会の主役、技術屋だったM先生は、昨年末にお亡くなりになったそうです。密葬を家族で済まされました。私達は、お別れの会の通知を、年明けに頂いた次第でした。己のことは常に後回しだった、照れ屋のM先生らしいと心から思いました。
 お別れの会の後に茶話会が持たれました。さながらOB会でした。軽く100人は超えていたと思います。私は、前回のOB会の幹事をしましたので、大先輩でも、おおかたのお名前はわかります。また今でも、時々会社のお手伝いをしていますので、若い人達のお顔と名前がかろうじてわかります。新旧のとりなしをしました。楽しいお別れの会でした。M先生のご子息が「本日、皆様にスライドで見ていただいたオヤジの一生ですが、仕事をしている時の写真と、笑顔の写真がありませんでした。いつも気難しい頑固オヤジでした。今日会社がありますのも、皆様のおかげと思っております。」と挨拶されました。
 ソフトボール大会や慰安旅行で、M先生が、大好きなお酒を飲むときの、とっても嬉しそうな笑顔の写真がたくさんあったことを思い出しました。探してご子息に渡そうと思いました。
 また一つ、現実が思い出になりました。
 M先生楽しかったです。ありがとうございました


本にしよう化計画

2013年02月11日 | 日記
 このブログ場じゃなく、よそのブログ場のことですが、一昨年から昨年の暮れまでブログを書いてました。いちおう完結したのですが、一発消去はもったいないと思うようになりました。いやいや、自分が書いた文章を惜しんでいるのではありません。私のつたないブログにも、コメントがつきました。見ず知らずの人からのコメントは、それは嬉しいものです。そして、見ず知らずの人とお友達になれたのです。お友達からのコメントを消すのがしのび難いのです。それで製本を思いついたのです。
 凝り性の私は、ハードカバーを自作しようと思っています。それもケース付をです。希望は革表紙ですが、これは無理です。曼荼羅模様の和紙なんか良いのではと思います。表題は金の凹文字を工夫しようと思いますが、方法はわかりません。もちろん製本の方法や、印刷の方法はネット上で公開されていますので、それらを参考にしながら独自の方法で作ろうと思います。そのためには道具も必要になりますので、安く自作したり、転用しようと思います。このあたりのアイディアは頭の中に浮かんでます。追々紹介します。
 製本・・・・一冊の本、このデジタルの時代に、なんとアナログなことでしょう。デジタル化してpdfにすれば瞬時に送れるものを、なぜアナログ化と思う人もあるでしょうが、物造りってこんなところが原点なのかと思います。さて、そのあたりは次回に書こうと思います。


なんか調子が悪いなぁ・・・

2013年02月09日 | 日記
 先月の中ごろから寝汗をかいて目ざめることが多くなった。そして、下腹部の不快感に悩まされるようになった。歳だから、夜中の一回のトイレはどうしようもないが、不快感は治まらず日に日に強くなるような気がした。
 仕事がら医師とのお付き合いはあるのだが、親しすぎると受診し辛くなるものだ。万が一の病状だとしたら、告知してくれるだろうかなどと考えてしまうのだ。
 意を決して先週受診した。受付が気をきかせて老先生の室に案内してくれた。会うのは数年ぶりだ。症状を聞かれ、できるだけ詳しく話した。医師はパソコンの電子カルテを見ながら言った。「田神君、また石じゃないの?。」そう言われれば、以前の二回目の結石は長引いたのだった。あの不快感を忘れがちだった。激痛が治まっても、長い間、不快感に悩まされたのだった。
 一昨日血液検査の結果を聞いた。やはり尿酸値が高かった。婦長さんが「ビールは飲まないで下さい。」老医師が『田神君は下戸じゃ。』 しばらくは薬を飲まなければならぬ。
 元気をなくした私に妻が言った。「六兎は更年期障害じゃないの?。」男の更年期障害を聞いたことはあったが、まさか私に・・・・。半信半疑で妻のPCを見れば症状は9割9分該当してる・・・。今度の受信日にドクターに言ったほうが良いのかなぁ・・。男にも『命の父A』は無いのかなぁ・・・・。