田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

備忘録『安倍首相米議会演説』全文 日本時間4月30日未明

2015年04月30日 | 日記
 議長、副大統領、上院議員、下院議員の皆様、ゲストと、すべての皆様、1957年6月、日本の総理大臣としてこの演台に立った私の祖父、岸信介は、次のように述べて演説を始めました。「日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります」。以来58年、このたびは上下両院合同会議に日本国総理として初めてお話する機会を与えられましたことを、光栄に存じます。お招きに、感謝申し上げます。申し上げたいことはたくさんあります。でも、「フィリバスター」をする意図、能力ともに、ありません。皆様を前にして胸中を去来しますのは、日本が大使としてお迎えした偉大な議会人のお名前です。マイク・マンスフィールド、ウォルター・モンデール、トム・フォーリー、そしてハワード・ベイカー。民主主義の輝くチャンピオンを大使として送ってくださいましたことを、日本国民を代表して、感謝申し上げます。キャロライン・ケネディ大使も、米国民主主義の伝統を体現する方です。大使の活躍に、感謝申し上げます。私ども、残念に思いますのは、ダニエル・イノウエ上院議員がこの場においでにならないことです。日系アメリカ人の栄誉とその達成を、一身に象徴された方でした。

 私個人とアメリカとの出会いは、カリフォルニアで過ごした学生時代にさかのぼります。家に住まわせてくれたのは、キャサリン・デル・フランシア夫人、寡婦でした。亡くした夫のことを、いつもこう言いました、「ゲイリー・クーパーより男前だったのよ」と。心から信じていたようです。ギャラリーに、私の妻、昭恵がいます。彼女が日頃、私のことをどう言っているのかはあえて聞かないことにします。デル・フランシア夫人のイタリア料理は、世界一。彼女の明るさと親切は、たくさんの人をひきつけました。その人たちがなんと多様なこと。「アメリカは、すごい国だ」。驚いたものです。のち、鉄鋼メーカーに就職した私は、ニューヨーク勤務の機会を与えられました。上下関係にとらわれない実力主義。地位や長幼の差に関わりなく意見を戦わせ、正しい見方なら躊躇なく採用する。――この文化に毒されたのか、やがて政治家になったら、先輩大物議員たちに、アベは生意気だとずいぶん言われました。

 私の名字ですが、「エイブ」ではありません。アメリカの方に時たまそう呼ばれると、悪い気はしません。民主主義の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティスバーグ演説の有名な一節に求めてきたからです。農民大工の息子が大統領になれる、そういう国があることは、19世紀後半の日本を、民主主義に開眼させました。日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした。出会いは150年以上前にさかのぼり、年季を経ています。

 先刻私は、第二次大戦メモリアルを訪れました。神殿を思わせる、静謐な場所でした。耳朶を打つのは、噴水の、水の砕ける音ばかり。一角にフリーダム・ウォールというものがあって、壁面には金色の、4000個を超す星が埋め込まれている。その星の一つ、ひとつが、倒れた兵士100人分の命を表すと聞いたときに、私を戦慄が襲いました。金色(こんじき)の星は、自由を守った代償として、誇りのシンボルに違いありません。しかしそこには、さもなければ幸福な人生を送っただろうアメリカの若者の、痛み、悲しみが宿っている。家族への愛も。真珠湾、バターン・コレヒドール、珊瑚海…、メモリアルに刻まれた戦場の名が心をよぎり、私はアメリカの若者の、失われた夢、未来を思いました。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。私は深い悔悟を胸に、しばしその場に立って、黙祷を捧げました。親愛なる、友人の皆さん、日本国と、日本国民を代表し、先の戦争に斃れた米国の人々の魂に、深い一礼を捧げます。とこしえの、哀悼を捧げます。

 みなさま、いまギャラリーに、ローレンス・スノーデン海兵隊中将がお座りです。70年前の2月、23歳の海兵隊大尉として中隊を率い、硫黄島に上陸した方です。近年、中将は、硫黄島で開く日米合同の慰霊祭にしばしば参加してこられました。こう、仰っています。「硫黄島には、勝利を祝うため行ったのではない、行っているのでもない。その厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉を称えることだ」。もうおひとかた、中将の隣にいるのは、新藤義孝国会議員。かつて私の内閣で閣僚を務めた方ですが、この方のお祖父さんこそ、勇猛がいまに伝わる栗林忠道大将・硫黄島守備隊司令官でした。これを歴史の奇跡と呼ばずして、何をそう呼ぶべきでしょう。熾烈に戦い合った敵は、心の紐帯が結ぶ友になりました。スノーデン中将、和解の努力を尊く思います。本当に、ありがとうございました。

 戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。みずからの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代総理と全く変わるものではありません。アジアの発展にどこまでも寄与し、地域の平和と、繁栄のため、力を惜しんではならない。みずからに言い聞かせ、歩んできました。この歩みを、私は、誇りに思います。焦土と化した日本に、子どもたちの飲むミルク、身につけるセーターが、毎月毎月、米国の市民から届きました。山羊も、2036頭、やってきました。米国がみずからの市場を開け放ち、世界経済に自由を求めて育てた戦後経済システムによって、最も早くから、最大の便益を得たのは、日本です。下って1980年代以降、韓国が、台湾が、ASEAN諸国が、やがて中国が勃興します。今度は日本も、資本と、技術を献身的に注ぎ、彼らの成長を支えました。一方米国で、日本は外国勢として2位、英国に次ぐ数の雇用を作り出しました。

 こうして米国が、次いで日本が育てたものは、繁栄です。そして繁栄こそは、平和の苗床です。日本と米国がリードし、生い立ちの異なるアジア太平洋諸国に、いかなる国の恣意的な思惑にも左右されない、フェアで、ダイナミックで、持続可能な市場をつくりあげなければなりません。太平洋の市場では、知的財産がフリーライドされてはなりません。過酷な労働や、環境への負荷も見逃すわけにはいかない。許さずしてこそ、自由、民主主義、法の支配、私たちが奉じる共通の価値を、世界に広め、根づかせていくことができます。その営為こそが、TPPにほかなりません。しかもTPPには、単なる経済的利益を超えた、長期的な、安全保障上の大きな意義があることを、忘れてはなりません。経済規模で、世界の4割、貿易額で、世界の3分の1を占める一円に、私たちの子や、孫のために、永続的な「平和と繁栄の地域」をつくりあげていかなければなりません。日米間の交渉は、出口がすぐそこに見えています。米国と、日本のリーダーシップで、TPPを一緒に成し遂げましょう。

 実は、いまだから言えることがあります。20年以上前、GATT農業分野交渉の頃です。血気盛んな若手議員だった私は、農業の開放に反対の立場をとり、農家の代表と一緒に、国会前で抗議活動をしました。ところがこの20年、日本の農業は衰えました。農民の平均年齢は10歳上がり、いまや66歳を超えました。日本の農業は、岐路にある。生き残るには、いま、変わらなければなりません。私たちは、長年続いた農業政策の大改革に立ち向かっています。60年も変わらずにきた農業協同組合の仕組みを、抜本的に改めます。世界標準に則って、コーポレート・ガバナンスを強めました。医療・エネルギーなどの分野で、岩盤のように固い規制を、私自身が槍の穂先となりこじあけてきました。人口減少を反転させるには、何でもやるつもりです。女性に力をつけ、もっと活躍してもらうため、古くからの慣習を改めようとしています。日本はいま、「クォンタム・リープ(量子的飛躍)」のさなかにあります。親愛なる、上院、下院議員の皆様、どうぞ、日本へ来て、改革の精神と速度を取り戻した新しい日本を見てください。日本は、どんな改革からも逃げません。ただ前だけを見て構造改革を進める。この道のほか、道なし。確信しています。

 親愛なる、同僚の皆様、戦後世界の平和と安全は、アメリカのリーダーシップなくして、ありえませんでした。省みて私が心からよかったと思うのは、かつての日本が、明確な道を選んだことです。その道こそは、冒頭、祖父のことばにあったとおり、米国と組み、西側世界の一員となる選択にほかなりませんでした。日本は、米国、そして志を共にする民主主義諸国とともに、最後には冷戦に勝利しました。この道が、日本を成長させ、繁栄させました。そして今も、この道しかありません。

 私たちは、アジア太平洋地域の平和と安全のため、米国の「リバランス」を支持します。徹頭徹尾支持するということを、ここに明言します。日本はオーストラリア、インドと、戦略的な関係を深めました。ASEANの国々や韓国と、多面にわたる協力を深めていきます。日米同盟を基軸とし、これらの仲間が加わると、私たちの地域は各段に安定します。日本は、将来における戦略的拠点の一つとして期待されるグアム基地整備事業に、28億ドルまで資金協力を実施します。アジアの海について、私がいう3つの原則をここで強調させてください。第一に、国家が何か主張をするときは、国際法にもとづいてなすこと。第二に、武力や威嚇は、自己の主張のため用いないこと。そして第三に、紛争の解決は、あくまで平和的手段によること。太平洋から、インド洋にかけての広い海を、自由で、法の支配が貫徹する平和の海にしなければなりません。そのためにこそ、日米同盟を強くしなくてはなりません。私たちには、その責任があります。日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。実現のあかつき、日本は、危機の程度に応じ、切れ目のない対応が、はるかによくできるようになります。この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう。戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます。ここで皆様にご報告したいことがあります。一昨日、ケリー国務長官、カーター国防長官は、私たちの岸田外務大臣、中谷防衛大臣と会って、協議をしました。いま申し上げた法整備を前提として、日米がそのもてる力をよく合わせられるようにする仕組みができました。一層確実な平和を築くのに必要な枠組みです。それこそが、日米防衛協力の新しいガイドラインにほかなりません。きのう、オバマ大統領と私は、その意義について、互いに認め合いました。皆様、私たちは、真に歴史的な文書に合意をしたのです。

 1990年代初め、日本の自衛隊は、ペルシャ湾で機雷の掃海に当たりました。後、インド洋では、テロリストや武器の流れを断つ洋上作戦を、10年にわたって支援しました。その間、5万人にのぼる自衛隊員が、人道支援や平和維持活動に従事しました。カンボジア、ゴラン高原、イラク、ハイチや南スーダンといった国や、地域においてです。これら実績をもとに、日本は、世界の平和と安定のため、これまで以上に責任を果たしていく。そう決意しています。そのために必要な法案の成立を、この夏までに、必ず実現します。国家安全保障に加え、人間の安全保障を確かにしなくてはならないというのが、日本の不動の信念です。人間一人一人に、教育の機会を保障し、医療を提供し、自立する機会を与えなければなりません。紛争下、常に傷ついたのは、女性でした。私たちの時代にこそ、女性の人権が侵されない世の中を実現しなくてはいけません。自衛隊員が積み重ねてきた実績と、援助関係者たちがたゆまず続けた努力と、その両方の蓄積は、いまや私たちに、新しい自己像を与えてくれました。いまや私たちが掲げるバナーは、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」という旗です。繰り返しましょう、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」こそは、日本の将来を導く旗印となります。テロリズム、感染症、自然災害や、気候変動。日米同盟は、これら新たな問題に対し、ともに立ち向かう時代を迎えました。日米同盟は、米国史全体の、4分の1以上に及ぶ期間続いた堅牢さを備え、深い信頼と友情に結ばれた同盟です。自由世界第一、第二の民主主義大国を結ぶ同盟に、この先とも、新たな理由付けは全く無用です。それは常に、法の支配、人権、そして自由を尊ぶ、価値観を共にする結びつきです。

 まだ高校生だったとき、ラジオから流れてきたキャロル・キングの曲に、私は心を揺さぶられました。「落ち込んだ時、困った時、目を閉じて、私を思って。私は行く。あなたのもとに。たとえそれが、あなたにとっていちばん暗い、そんな夜でも、明るくするために」。2011年3月11日、日本に、いちばん暗い夜がきました。日本の東北地方を、地震と津波、原発の事故が襲ったのです。そして、そのときでした。米軍は、未曾有の規模で救難作戦を展開してくれました。本当にたくさんの米国人の皆さんが、東北の子どもたちに、支援の手を差し伸べてくれました。私たちには、トモダチがいました。被災した人々と、一緒に涙を流してくれた。そしてなにものにもかえられない、大切なものを与えてくれました。――希望、です。米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません。米国国民を代表する皆様。私たちの同盟を、「希望の同盟」と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかによい場所にしていこうではありませんか。希望の同盟――。一緒でなら、きっとできます。ありがとうございました。

緊急事態発生 漏水事故!!!

2015年04月29日 | 日記
 4月27日(月曜日)午後、食後の腹ごなし0.25㎡の草取り作業、つい面白くって延長してしまった。心地よい疲労感、松の木剪定妄想も形を成してきました。満足感に浸って風呂洗いを済ますと、遠くにポタポタポタと異様な音。台所へ行くとマットに黒い水のシミ。天井には水滴が二個三個ぶら下がってる。そして水滴落下。アッチャァ~水漏れだぁぁぁ。バケツで水受け。
 
 慌てて上階へ行くが留守です。時計を見ると三時半、そろそろ妻の業務時間が終わる。携帯を鳴らす。めったに出ない妻が「どうした?」『水漏れだ。上の杉下さん留守だ。寄り道せずに帰宅してくれ!頼む』
 
 上階の杉下さんはご主人が病気です。かなりの高齢ですし、奥様は「末期のガンですから治りません。いままで一生懸命働いてくれたので、人生最後は日当たりの良い、ここを借りたのです」とおっしゃってました。貸主の大家にあたる小幌さんも親しく、一人息子のセイト君など、引越しの時(セイト君年長組)わざわざオイラに挨拶に来てくれたほど仲良くしてた。だから水漏れ事故で、杉下さんや小幌さんに必要以上に気を使って欲しくはないが、一刻も早く対処して欲しい。
 
 5時半頃、妻と共に上階へ行く。丁度ご主人が帰宅された。「水が漏ってきました」と言うと、さほど慌てず「家はなんともない」と言われます。マンション住まいが始めての杉下さんにとって、漏水事故など考えもしない、他人事でしょう。ほどなく奥様も帰宅、さっそく仲介の不動産屋へ連絡してもらいましたが既に営業が終わっていました。夜間、ポタポタ、ポタポタ不協和音が響いていました。
 
 朝、漏水は止まっていましたがしばらくすると再び始まりました。上階の杉下さんから電話「不動産屋へ連絡しましたが、詳しい話を田神さんからしていただけますか?。電話番号を伝えました」とのことでした。しばらくすると不動産屋さんから「手配しましたが、工事店が見つからず、夕方伺います」なんて無謀な要求、さすがの私もムッとしました。
 
 怒りを抑え「現況の確認もしないで、夕方になることを私は了解しません。店子の杉下さんも、大家の小幌さんも仲良くしてきました。こんなことで反目したくありません。私も事業をしていますが、顧客の要請には、何が何でも答える最大の努力をします」と言いました。私の雰囲気に飲まれたのか、しばらくして「30分後にそちらへ伺います」との返事でした。
 
 11時 不動産屋の女子(しっかり者の雰囲気)工事屋、水道屋と来てくれました。状況を話し、写真撮影(後の保険で必要)上階で水漏れ原因の調査を始めたようでした。おそらく蛇口をいっぱいに開いたと思います。とたんにポタポタ、ポタポタが増えました。バケツ2個で受けましたが、冷蔵庫もあわやの状態でした。原因が台所排水管であることが判明し、床の穴あけ後、応急処置をしたとの連絡ありました。しばらくしたら漏水は止まりました。
 
 昼食後、小幌さんがお菓子持ってお詫びに来てくださいました。遠慮しましたが「水漏れで不都合が出たら遠慮なくおっしゃってください、修理します」と言ってくださいました。『濡れただけ、乾きます。我が家はリフォームしてないし、気にしてないから大丈夫です。それよりも杉下さんがひどく気にしていらっしゃいますので、気になさらないようにおしゃってください』と答えました。団地の漏水事故としては極めて簡単に終えることができました。仲が悪い上下関係だと、責任の有無とか、内装を全部やり直すとか、とかくゴタゴタが多く、2階以上に住む人は個人賠償責任保険が必須です。ですが、漏水事故の後の全てを保険屋に任せて話しもせず・・・なんてトラブルもあるのです。
 
 さて、終わったと思ったら、噂を聞きつけた人が杉下さんの奥様に「管理組合加入の保険が使えるから、組合に知らせなければならない」などと間違ったことを言ったものだから、杉下さんは平身低頭で我が家にいらっしゃいました。

 間違いを正しておきました。組合加入の保険は、共用部分の給排水設備事故が個人部分に損害を与えた場合に使います。このような事故は滅多に起こりません。今回の事故は大家さんの小幌さんの持ち物である排水管の事故ですので、小幌さんが加入している個人賠償責任保険を使います。マンションに住んでいても個人専有部分、共用部分の違いさえ解らず、さも知っているかのように、もの言う人がいて困ります。
 
 杉下さん安心してお帰りになりました。お詫びにと、夕食に用意したご主人大好物のかまぼこ半分いただきました。半分ってのが、飾らない杉下さんの大好きなところです。以上漏水事故の報告でした。文中氏名は仮名です。

「俺達同居しないから」って言われたU子さん

2015年04月28日 | 宗教その他
 U子さんは妻の同僚、ほぼ同年代です。ご主人は某有名百貨店を定年退職し、悠々自適と言いたいところだが、ご主人の父親がまだら認知症だそうです。父親の妹さんが夫君死別独身で、昼間の介護を引き受けてくださっているそうです。ところが、叔母さんが足を痛め、介護ができなくなりました。父親との関係が良くないご主人では介護ができず、しかたなく施設への入所を決断されたそうです。
 
 そんなU子さんですが、昨年末から長男の三番目のお孫さんの出産お手伝いをご夫婦でなさり、職場を休まれました。仕事熱心なU子さんですので、長男の会社が休みの土日に職場へ来ていました。U子さんはずっと休みなしだったそうですが、三人のお孫さんに囲まれ生き生きしてました。
 
 そのころのU子さんは妻に「二世帯住宅用の敷地を探している」と話しました。紹介される敷地は、帯に短し襷に長しで決めかね、いわゆる幸せな悩みでした。内心の妻の気持ちは、妻の実家の両親があじわった同居ゆえの辛さを見知っているので、U子さんの喜びにもろ手を挙げて賛成できませんでしたが、他人の喜びに水はさせなかったそうです。
 
 U子さんが腰を痛め、インフルエンザに罹患し、扁桃腺炎を再発し、長く職場離脱されました。ようやく快癒し、妻と昼食を共にしたとき、沈んだ顔のU子さんが「息子が、俺達同居しないからって言ってきた。どうやら主人と折り合いが悪いみたい」とさみしそうに言いました。妻は何も言えず『そうなの、残念ネェ』とだけ答えたそうです。こんな話を昨晩の夕食時聞きました。
 
 私と妻は息子夫婦と同居するつもりはありません。でも、できる限り子供と孫の精神的な支えになろうと思っています。私は妻より先に世を去るのが目標です。息子には、妻がさみしさを感じないようにして欲しいと言ってあります。息子は「わかっている」と答えてくれました。
 
 昨年末、孫を授かりました。孫には軽い先天性奇形がありす。来月は手術予定ですので、嫁子の支えになろうと、妻と話し合っております。そんな嫁子ですが、「明日、そちらでご飯を食べたい」などと言ってきました。妻は「じゃぁ、おいで。だけど粗食だよ」と言ってました。そんな孫だからこそ、生まれつきの不思議な力を持っているのでしょうね。
 
 さてU子さんの話を聞いて、私は妻に「俺達同居しないからと言う息子さんの言葉の裏には『俺達は老後の介護をしないよ』との意味が含まれているような気がする。楽しみにしていたU子さんには気の毒だね。U子さんは自分達の老後のことなどは決して考えていないだろうにね」と言うと、妻は「U子はそこまでは考えていない。お爺ちゃんの介護もしてたからこそ、自分達は息子の世話にはなりたくないって言ってた。孫が可愛いだけなのにね」とさみしそうでした。
 
 明日、息子夫婦と○っちゃんとロク(老犬)に「爺は健康で死ぬために、一切の延命処置を拒否する。葬儀は直送に限定する。納骨は50日祭まで待つ必要はない。一切の縁起をかつぐな、宗教を脱せよ。以上!」って言おうかなぁ・・・・。

地方選挙後半戦終わりました

2015年04月27日 | 日記
 統一地方選挙が終わり、再び静かな団地です。ふと感じましたが年々選挙運動が静かになっているように思います。騒々しい連呼は私達に良い感情は与えません。「お騒がせします~」と言うなら静かにして欲しいです。
 
 もっぱら私と妻は期日前投票を利用しています。投票日の投票所のあの独特な雰囲気が苦手です。投票をするもしないも自分の勝手、投票したからと言って褒められるものではありません。まして立会人にお礼を言われる筋合いもありません。選挙管理委員会の人達は、投票所でへりくだる必要はまったくないと思います。へりくだればへりくだるほど選挙が虚しく感じます。
 
 私が投票した人は高い得票で当選しました。彼と私は同年齢です。彼の考えと私の考えは全く違いますが、彼は真面目に市議で活動しています。市政は国政と違いますから、真面目が一番だと思います。
 
 彼の前身は革新県会議員の秘書でした。同じ秘書仲間のTは巨大企業の労働組合から秘書になりました。Tは私と中学校の友人でした。共に仕えた県議が在任中にお亡くなりになり、彼らは職を失いました。
 
 二人は共に市議になりました。ある日私は市役所へ打ち合わせに行きました。とても複雑な問題でしたが丁寧に説明すれば解決できる問題でした。市の担当者も中学の同級生でしたので、帰りしなに彼が「Tに会っていこう」と私を市議の個室に案内してくれました。中学同級の三人でしたので気楽でした。市議のTが「おお田神、指名願いか?」と思いもしないことを言いました。慌てた市の吏員が「T、違う違う。田神はお前に会いに来ただけだ」と彼を制止しました。
 
 私のように会社組織を持たぬ者が、市から指名を得ることは、ほとんど不可能です。奥の手は今回のように市議と太いパイプを持つことですが、このような仲は、持ちつ持たれつなのです。儲かれば当然見返りが必要です。
 
 その後T市議は市議会開催中に後援会と供に海外カジノに出入りしたことがスクープされました。当然支援者はいっせいに離れ、彼は落選しました。彼には相当額の負債があったそうで、今は行方不明です。彼の実家の八百屋を老いた父母が細々と切り盛りしていましたが、先日売りに出されていることを知りました。悲しいですね。
 
 政治の末端組織の市議の裏の生活や利権が見え隠れしますが、私が使える1票は、身辺が綺麗かどうかで決めます。

これで二度目、元首相が戦後70年談話で首相批判

2015年04月26日 | 日記
 赤字の部分訂正しました。
 

 21日東京都内でのインタビューで、村山談話は過去の「植民地支配と侵略」を認めて「痛切な反省」と「心からのおわび」を表明し、小泉純一郎元首相の戦後60年談話にも同じ文言が盛り込まれた。村山氏は、歴代内閣が継承してきた村山談話の歴史認識は「国是」だと強調。安倍首相も引き継ぐとしているが、村山氏は「引き継ぐからいいじゃないかなんて言わんで素直に言えばいい。もう言いたくないんじゃ」と不信感をあらわにした。二度目ですね。
 
 二度目と言えば、元首相がクリミア訪問で一騒動ありました。沖縄でも騒動ありました。また別の元首相が原発に関して演説したうえに、またまた別の元首相と都知事選挙に打って出ましたね。原発に関しては「私は元々推進派でしたが、・・・」と思想が変わったことを公言した上での運動でしたから、それなりに納得はできました。クリミア訪問首相は「最低でも県外」発言の主ですから、確たる思想を持っていないかもしれません。
 
 さて村山元首相が首相になられた国会は『自社さ』連合でした。第一党野党の社会党でしたが連立へ参加したことにより党の哲学がぶれ、支持者が離れました。結果社会党は社民党となり、今では消滅間近です。自社さ連立政権での首相談話であったことは事実ですし、時の首相の談話であることも事実です。村山元首相が阪神淡路大震災発生時の初動対応が遅れたことで多くの犠牲者を出し、「何もかもが初めてなもので」との発言を批判されるが、私はオーム事件のさい、TVカメラの前で「別件でも何でも良いから逮捕して・・・」と言ったのを聞いてしまった。すぐ後に「別件はいかん、微罪でもと言いたかったのだが・・・」と言い直したが、遅かった。あのような言い間違いをする者は国の指導者とは言えません。オーム事件であったから国民は追及しなかったですが、責任ある者の文言は重いです。

日本の国是は「国際紛争に武力を使用しない」のであって、東南アジアの国々のみならず、世界に対して宣言していると考えます。村山元首相は野党党首としては立派だった。あまり過去の発言を前に押し出さないほうが良いと思うのです。